2018年11月20日火曜日

2018年11月4日

2018年11月4日 降誕前第8主日礼拝説教要旨
  「未来を拓く力」 横田法子牧師
   マルコによる福音書 16:1~8節
イエスの神の国運動は共に生きるという実践そのもの。それは弱さや孤立から逃げるため強い人に頼るものではなく、弱さを絆に共に連帯していく生き様でした。そこにこそ神の力は生きて働くことを証し、孤独に絶望し不安を抱え自分なんてと項垂れる者でも、神の愛と恵みを分かち合い共に賛美して生きられると証しました。逃げずにイエスの死を見届けた女の弟子たちは、三日後によみがえるという予告を信じていたのでしょう。望みを断たれても横穴式の墓を塞ぐ大きな石という障壁があっても、イエスに従い続けようとしたのは大したもの。それでも躓くのが人間です。現代の聖書学者の定説は、マルコ書は6章8節まで。死の絶望よりも強い神の力が示されても、信じきれない人間の破れでとじられるのです。
香油で体を清めるのは葬りの作法ですが、油は王の即位で注がれるもの。墓に行った女性たちに死んでもなお「王」の力に頼ろうとする姿を見ます。復活のイエスとの出会いは、真の主体性と自由を得さるものです。復活とは「(神によって)起こされる」の意味。復活はイエス以後のキリスト者にもたらされ続けている出来事です。やがて弟子たち(女性も男性も)も十字架のあがないと復活を宣べ伝え、弱さで連帯して支え合い分かち合って生きる群れ(キリスト教共同体)を形作ります。躓きを乗り越えさせたもの…、それはイエスの祈りでした。「先にガリラヤへ行く」とは、裏切りの予告の際のイエスの言葉。ルカ書では「私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とあります。既にすべてが赦されていたことを悟った時、ガリラヤで共に過ごした日々がよみがえり注がれ続けている神の愛を確信したことでしょう。
「祈った人が世を去った後も、その祈りは後に残って活動を続ける。」は、ある宣教史の言葉。世々のキリスト者が生涯を通して示した信仰の証しが、祈りが、共におられる復活のイエスへと向かわせ、それが未来を切り拓く力になることを私は実感しています。

2018年11月14日水曜日

2018年10月28日

2018年10月28日 降誕前第9主日礼拝説教要旨
  「空しさの向こう側」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 12:13~21節
 教会暦が聖霊降臨節から降誕前節となりました。クリスマスまで9週間を控え新しい節目の日曜日です。イエスの誕生を覚えるクリスマスに向けて、事務的実務的な準備も始まっていますけれども、私たちの祈る心も9週間かけて準備できればと思います。先日、23日から25日と教団総会が行われ部落解放のアピールで私も参加させていただきました。歴史の中で様々な問題、様々な痛みを抱えていますが心の通った話し合いが出来ますよう祈りたいと思いました。
 さて今日の聖書箇所は、あるお金持ちのたとえ話が語られています。ある豊作の時に今まで使っていた蔵を壊しさらに大きな蔵をつくり、作物を蓄えたのでした。しかし神はその人がその日で死んでしまうことを知っていたのでした。死んでしまうのにその富をどうするのか、イエスはそう語りかけるのです。聖書が書かれた時代から時が流れ21世紀に私たちは生きています。しかしこの時に語られた「豊かさ」より数段上の豊かさの中で私たちは生きています。
 ここで語られているお金持ちの人のように、私たちも貯金をします。不景気をはじめ不安定な時代にあって、私たちを襲う不安をお金は解決してくれます。さらに今日の社会は様々な場面でお金が必要になります。道を歩いていて急に何かが食べたくなるようなときもありますし、急な事故や病気など、様々な場面でお金が必要になります。お金は大事というわけですがお金がなければ住む場所も食べる者も着るものも手に入りません。お金がなければ生きることを許されないような社会に生きています。しかし聖書の中では「豊かさ」に対して注意を促しています。金銭的、肉体的な豊かさは神を忘れてしまう。神から与えられた命の大切さに忘れてしまうというのです。
 将来の不安は上げだすときりがありません。私たちは何が不安の原因なのかわからない、言いようのない不安に追われているのではないでしょうか。そんな中で神から与えられた命の大切さに忘れてしまっているのではないでしょうか。今日、この日に私たちが向き合わなけらばならないものに目を向けよ、とイエスは語っておられるのではないでしょうか。

2018年11月6日火曜日

2018年10月21日

2018年10月21日 聖霊降臨節第23主日礼拝説教要旨
  「絶妙ブレンド」 横山順一牧師
   創世記 11:1~9節
 四月に天に召された榎本てる子さんは、生前「ブレンディング・コミュニティ」を作る夢をたびたび語っておられた。性をはじめ様々な立場の人間が「混ぜあわされた」豊かな多様性の社会を目指したてる子さんの夢に賛同する。ちなみに沖縄の踊り「カチャーシー」も、混ぜるという意味。
 かつていた教会でいただいたブリューゲルの「バベルの塔」のパズル絵を眺めていて、ふと、塔の下で鞭打たれ働かされている庶民の姿から気づかされた。つまりそのような強制・強要をしないと塔の建設は不可能だということ。
 テキストはニムロドが建てたバベルの塔の箇所。「有名になりたい」という願望は誰にもあろう。しかし実際にできる人は限られる。基本的にそれは「権力者」ではないか。口語訳ではニムロドは「地上で最初の権力者」だと訳される。
 「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(1節)とあるが、戦時中の日本が他国の言葉や文化を奪う同化政策を推進したのと同様を示している。そうでなければ戦争という塔の建設ができなかった。
 神が怒りをもって塔を壊されたのは当然の結末だった。神がなさったのは混乱のためではなかった。バラルにはごちゃ混ぜという意味がある。無理に一つとされた民たちに、それぞれの言葉を使い、それぞれ自由に生きて良いという神からの示し。また違うが故に、互いに聞き合わねばならないという神の思い。それがバベルの塔の物語の骨子だろう。
 弟子たちがそれぞれの言葉で語り出したという使徒言行録のペンテコステの出来事も、それぞれが自由に語って良い、語るべきという神の愛の思いを示している。
 ごちゃ混ぜとは、無造作なバラバラを意味しない。神の配慮に満ちた絶妙なブレンドである。聖書は、太古から多様性の大切さを記していた。