2016年2月23日火曜日

2016年2月7日

2016年2月7日 主日礼拝 説教要旨
  「人を汚すものの正体」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書7章1〜23節)


 ファリサイ派は常にイエスの動向を見張り、弱点を探すのですが、見つけたのが弟子たちの弱さでした。彼らはユダヤ人としての基本さえ身につけていない粗忽者たちでした。その弟子たちの「なしてなさ」を利用して、イエスの評判を落とそうと考え方のです。
 目をつけられたのが、食前に手洗いをしないと云うことです。手洗いは当時はユダヤ人として基本的な律法による習慣でルールでした。それさえも守れない弟子たち、それさえも指導出来ないイエスが「救い主や偉大な預言者」のはずはないと云いたいのです。
 そのことを指摘されたイエスの答えは8節で、例に挙げたのが「コルバン」でした。コルバンというのは、神への供え物という意味で神に献げると決めたものは他に用いてはならないと云うのが云い伝えの最初の意味でした。ところが転じてコルバンとさえ云いさえすれば、本来両親を養うためのものであっても、両親に差し上げないで良いということになったのです。
 イエスはそれを例にとって「手を洗う」事には固執するくせに「他の人を愛す」事を忘れてしまっている。あるいは無視している。あなた方の有り方は全く神の御心に適っていないと指摘したのです。
 「汚す」とは何でしょうか。ギリシャ語には「受け入れない」「邪道とみなす」という意味があります。つまり、人間性を損なうということです。イエスは人を汚すものは外側からでなく、内側からのものに問題があると指摘されたのです。確かに私たちの現実は自分たちの内側から出てくる感情が様々な問題を引き起こし複雑にしてがんじがらめにしてしまっています。
  パウロは自分自身のことで嘆いていますが(ロマ7:24)律法主義で人を裁くことで自己正当化していた彼が、イエスとの出会いによって変えられたのです。キリストがどのように生きられたかが生活の中に何時もあるのです。私たちの生活の只中に神の頌域を設けることです。イエスを思う時間、空間、祈りを持つことです。

2016年2月15日月曜日

2016年1月31日

2016年1月31日 主日礼拝 説教要旨
 「悲しみの中にこそ」宇野稔牧師
 (マルコによる福音書6章53〜56節)

 ベトサイダに向けて出発したはずなのに、到着したのはゲネサレトでした。この地はカファルナウム西数キロの地点のことで非常に肥沃な土地柄で作物が豊かに取れた地域でした。ガリラヤの中でも豊かな地域にやって来られたのです。
 しかし、この地域には病で苦しむ人々が多数おられました。豊かな農園の背後で小作人として朝から晩まで働き、それでも十分な食べ物が得られず、病になっても医者にかかるお金がなく困り果てていた人が大勢いたのです。56節を見ると「村でも町でも里でも」とありますからどこにも沢山おられたのです。
 病気の人と表現されている意味は、心や魂のことも含んでいるに違いにありません。だから病気というより「悲しみ」と表現した方がよいだろうと思うのです。
 イエスが歩まれた所には悲しみが溢れていたのです。人々は悲しみ、悩み、涙を流していたのです。そしてイエスはその人の涙を拭き、慰め癒されたのでした。私たちは平凡な波風のない人生が当たり前だと常に考えていますが、イエスが出会った人々は悲しみの中にある人たちで、それが普遍であり、当たり前だったのです。
 私たちも悲しみの中を生きています。人間として生きる時、悲しみの中を生きることを避けられない現実なのです。私たちは悲しみを敢えて避けようとしますが、悲しみの中で否定しようとします。しかし、悲しみの中でせめてイエスの服の裾でも触れたいという思いが描かれていますが、それが現実の姿です。悲しみの中で息詰まりそうになる時、一つの約束と希望が与えられています。神が共にいて下さるのです。どんな形で神が私たちを悲しみの中から立ち上がらせて下さるのか、どんな業を通して私たちを慰めて下さるのか、どんな人と出会わせて下さるのか、そして私をどういう風に変えて下さるのか、約束を信じ、希望をもってそれを待ち望みましょう。「あなたの信仰はどこにあるのか」、それは悲しみ、不安の真ん中でこそ働く信仰なのです。

2016年2月9日火曜日

2016年1月24日

2016年1月24日 主日礼拝 説教要旨
  「洗礼者ヨハネ」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書14章1〜12節)


 イエスの時代力あるとされていた宗教指導者が洗礼者ヨハネでした。イスラエルに絶えて久しかった預言者の再来ではないかと捉えられていました。
 ヨハネが訴えたことは、神の審きの日が近いと云うことで全国民に対して悔い改めを求め、そのしるしに洗礼を授けていました。そのヨハネが領主ヘロデが自分の弟の妻を娶ったということを公然と批判し逮捕されます。ガリラヤとペレヤの領主ヘロデはアラビヤ王の娘アレタスと結婚していたので、ヨハネはそれは律法違反だと指摘したのです。妻のヘロデイアはヨハネを憎み、機会があれば殺したいと機会を待っていました。
 ある日ヘロデの誕生会で王の娘サロメが踊りを披露した褒美として、何が欲しいかと尋ねられ、ヘロデイアに唆され「ヨハネの首」を求めます。仕方なくヘロデはヨハネの処刑を行ったのです。
 正しく生き、正しく語ったヨハネが非業の死を遂げるというこの出来事は何だったのでしょうか。ヨハネはどんなに無念であったかと考え、ヘロデは愚かであり、ヘロデイアとサロメは残酷だと考えます。
 しかし、この馬鹿らしい行為を止める人はいなかったのでしょうか。誰も良いこととは思わなかったでしょう。疑問をもちつつ、沈黙してしまいました。沈黙は残酷です。これが人間(社会)の現実なのです。
 実はこの福音書が書かれた時、迫害の中で投獄され殺されていくキリスト者をマタイは目の前で見ているのです。
 ヨハネはイエスの道を備える者であり、生涯はイエスを示すためにあったいうのがマタイの考えです。つまり、ヨハネの死もイエス・キリストの死の予告、すなわち、十字架の予言として位置付けられているのです。
 マタイは、人間の残酷さによって無念の死に見えるヨハネの死にも「大切な意味があった」ことを伝えているのです。そして、それは同時に今日、まさに困難の中にある人々への応援歌でもあるのです。理解なくとも、残酷であっても神の愛を生き続けることを敗北とは云いません。

2016年2月1日月曜日

2016年1月17日

2016年1月17日 主日礼拝 説教要旨
  「あなたを『岩』と呼ぶ」大澤宣牧師(紫野教会)
  (ヨハネによる福音書1章35~51節)


  私が働かせていただいております紫野教会は、1944年、戦争のために教会の人々が動員されていき、教会は閉鎖されてしまいました。その時、同志社教会の牧師であった堀貞一牧師は「教会をやめるとは何ごとか」と一喝され、熱烈な祈りがささげられたそうです。順調に教会の働きがすすめられることも主の恵みの内にあり、教会が閉じられ、何も出来なくなっていき、けれどもそこで祈りがささげられることも主の恵みの内にあるのだと思います。
 イエスの弟子たちが集められた場面で、イエスはペトロのことを「岩」と呼ぶことにしようと語りかけられました。それは、ペトロや他の弟子たちが、何か良い行いをしたとか、優れた力をもっているからではありません。何も出来ないかも知れないけれども、とにかくイエスに出会わされ、イエスに招かれて、用いられていったのでした。
 阪神淡路大震災から21年の時を迎えます。今も流れない時の中をゆっくりと生きている方々がおられることを思います。地震で全壊した神和教会は、教会の土地を使って、子どもたちの夏期学校を行い、多くの子どもたちと全国から集まったボランティアの人たちと、すばらしい出会いを経験されたのでした。 何も良いことは起こらない、何も出来ないかも知れないと思われるところに、しっかりと立ち続けることの中で、主が豊かに用いてくださり、すばらしい出会いが与えられたのでした。
新しい年の歩み、私たちがどこでイエスに出会っていくのか、それぞれ問われながら、主の招く声を聞いてまいりたいと願います。