2024年4月27日土曜日

2024年4月21日

 2024年4月21日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「あなたならできる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 21:15-25節

 食品をこの氷温域に設定することによって、おいしく安全に貯蔵したり加工したりする氷温技術は、山根昭美農学博士の失敗によって発見され研究が進んだ技術です。機械が故障し、4トンの二十世紀梨がマイナス4度で保存をされたのがはじまりです。

 キリスト教の一番の特色は、失敗者によって広められた宗教だということです。イエスさまのお弟子さんたちはみんなイエスさまを裏切った失敗者でした。

 ペトロはイエスさまから「わたしを愛しているか」と問われたとき、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロは「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」と答えませんでした。ペトロは「わたしが愛している」とか「わたしがどうである」ということよりも、「イエスさまがどうである」「イエスさまがご存知である」ということを自分の生きていく拠り所としたのです。自分がどうするこうするということから、イエスさまに自分をお委ねする生き方へと導かれていったのです。

 イエスさまはそういうペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまは自信を失っているペトロを励まされました。「ペトロ、あなたにはできる」という気持ちを込めて、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。

 私たちは人生においていろいろな失敗をします。「こうしたらよかった」とか「ああしたらよかった」とか思います。「おれはだめなやつだ」「わたしはだめな人間だ」。そんなふうに思えるときがあります。どんなに計画をたててやったとしても、人間のすることですから、やっぱりいたらないことがあります。「こうしたらよかった」「ああしたらよかった」というのは、人間の常なのです。でもやっぱり失敗すると落ち込んだり、自信がなくなったりします。そして次の一歩が踏み出せないときがあります。

 でもイエスさまは「だいじょうぶなんだ」と言われます。「あなたはだいじょうぶ。あなたならできる。わたしが共にいるから」。イエスさまはそう言って、私たちを導いてくださっています。使徒ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。あなたにはできる」と言ってくださったイエスさまは、私たちにも「あなたならできる」と言ってくださっています。イエスさまは私たちを導き、私たちを励まし、そして私たちを用いてくださいます。イエスさまの招きに応えて、安心して歩んでいきましょう。


2024年4月19日金曜日

2024年4月14日

 2024年4月14日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「未来を拓く」 内山宏牧師

  ルカによる福音書 24:36-49節

 イースターの賛美歌を一つ選ぶなら、こどもさんびかの「イースターのあさはやく」を選びます。各節にある「じゅうじかでしんだ/あのイエスさまが」という言葉が、共に生き、神の愛を伝えたのに、十字架の死によってもう会えない、「あの」イエス様が本当によみがえられたという驚き、喜びを表します。

 2番では、十字架の出来事に絶望し、エマオへ向かう二人の弟子の物語が歌われます。共に歩み始めた復活の主に、二人は心を塞がれ気づきませんが、食事の席で「あのイエスさま」に気づきます。この物語に続くのが今日のみ言葉です。二人の弟子が、使徒たちにこの出来事を話していた時に、復活の主が現れます。「あなたがたに平和があるように」と挨拶され、御自身であることを示されますが、弟子たちはうろたえます。その弟子たちにイエス様がなさったことがおもしろい。「何か食べ物があるか」と言われ、差し出された魚を食べられました。おいしそうに魚をむしゃむしゃと食べるイエス様を想像します。

 イエス様のユーモアです。ユーモアは、人が行き詰まった時に、肩の力をぬき、本来の力を取り戻す力があります。昔読んだ話ですが、野球の試合が進み、一発逆転されそうなピンチを迎えます。コントロールを失ったピッチャーに、監督はタイムを要求して伝令を送り、一言伝えます。ピッチャーは落ち着きを取り戻し、危機を乗り越えます。みんなが不思議がって監督に聞くとこう言ったそうです。「たかが野球じゃないか」。叱咤激励ではなく、この一言がピッチャーの力を取り戻させます。これがユーモアです。イエス様のユーモアがこのように戸惑う弟子たちを回復させます。

 この物語は、10章の「七十二人を派遣する」という話を念頭に記されたと言われ、言わば復活の主がそれを再現したことになります。ここに二つの意味があります。一つは、十字架の出来事によって破れた関係を取り戻し、共同性を回復することです。第二は、回復された共同体がどこに向かうかを示すことです。弟子たちを宣教へと送り出す備えです。過去を修復し、未来を拓きます。

 もう一つ、復活の主と再会しながら、うろたえる弟子の姿に私は慰めを感じます。人生においても、戸惑い、恐れ、うろたえることがあります。いつも元気とはいきません。けれども、それで良いと思います。イエス様は私たちにも弟子たちと同じようにしてくださるからです。み言葉によって、あるいは他者の言葉や行動かも知れませんが、それぞれにふさわしいあり方で、私たちを回復し、未来も拓いてくださいます。弟子たちの物語は、私たちの物語です。


2024年4月13日土曜日

2024年4月7日

 2024年4月7日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「平安をもたらす神さまの聖霊」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:19-31節

 荒木優太の『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)は、なんとも挑戦的なタイトルです。「一人ひとりは心優しい人間だとしても、全てのメンバーが互いをよく知っている小規模で親密な集いには、親密でよく通じ合っているが故に発生してしまう「毒」がある。その集いは人々の間のミクロな違い、その隙間に巣くうコミュニケションによって「有害な小集団」と化し、わたしたちを日々毒す」(表紙裏)とあります。人の集りというのは、なかなかむつかしいもので、良い人たちの集りであっても、なんかうまくいかず、疲れたり、傷ついたりする出来事に出会うということがあります。

 イエスさまのお弟子さんたちの集まりも、ときどきぎくしゃして、互いに対立したりしています。それでもイエスさまを慕って集まり、イエスさまについて歩んでいきます。しかし最終的に、イエスさまが十字架につけられたとき、みんなイエスさまを裏切って逃げ去ったわけです。ちりじりになって逃げてもよさそうなものであるわけですが、なぜかひとところに集まります。そして一つのところに集まりながらも、自分たちはイエスさまを裏切ったという暗い影に脅えていました。

 そうした不安を抱える弟子たちのところに、イエスさまはきてくださり、弟子たちの歩むべき道を示してくださいました。それは聖霊を受けて、神さまを信じて生きるということです。イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました。そして互いに赦しあって生きることの大切さを示されました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。もしかしたら誰かが自分を裏切るかも知れない。そのような疑心暗鬼な気持ちに包まれている弟子たちに、イエスさまは赦しあって生きることが大切だと言われました。だれかから赦すことができないという思いになるようなことを受けたとしても、赦しあって生きていきなさい。確かな気持ちをもって、自分が人生の主人公として生きていきなさい。あなたが罪を赦したら、その罪は赦されるのだ。いつまでも罪に囚われるのではなく、あなたが罪を赦し、あなたが人生の主人公として生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。

 赦しあい、助け合い、神さまの聖霊を信じて、健やかに生きていく。復活されたイエスさまは、私たちにそのように呼びかけ、「あなたがたに平和があるように」と、私たちを祝福してくださっています。


2024年4月6日土曜日

2024年3月31日

2024年3月31日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「イースター、穏やかな日常へ」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書28章1-10節


 イースター、おめでとうございます。

 よみがえられたイエスさまは女性たちを通して弟子たちに「ガリラヤで出会う」ということを伝えます。ガリラヤというところは、イエスさまや弟子たちの多くの出身の町です。弟子たちはイエスさまにガリラヤで出会い、そしてイエスさまと共に歩みます。イエスさまが十字架につけられるときに、弟子たちは逃げ出してしまいます。しかしイエスさまがよみがえられたあと、弟子たちはまたガリラヤから新しく歩み始めるのです。

 ガリラヤは弟子たちがイエスさまと出会った場所というだけでなく、「異邦人のガリラヤ」と言われる地域でした。「異邦人のガリラヤ」という言い方は、その地域に住んでいる人たちに対する蔑みの言葉であるわけです。「ガリラヤからすばらしい人が出るはずがない」というような言われ方をするのが、ガリラヤでありました。そうしたエルサレムという中心から離れた地域がガリラヤであるわけです。ガリラヤはまた貧しさを抱え、蔑みを受けるところでありました。イエスさまはそのガリラヤで、復活のあと、弟子たちに会われたのでした。

 ガリラヤの地もいろいろな問題や課題を抱えるところでありました。それは私たちの生きている世の中や、私たちの生活でもあることです。私たちも生活の中で、いろいろな悩みや困難に出会います。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。すべてのことがうまくいっているわけでもないですし、私たちにとって不都合なことも起こります。ひとから誤解を受けるようなこともありますし、ひとから傷つけられることもあります。さみしい思いをすることもありますし、また自分が人を傷つけてしまい、そのことでまた自分自身が傷つくというようなこともあります。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。

 イエスさまはいろいろな問題や課題があるガリラヤで、よみがえられたあと、弟子たちに会われます。いろいろなことがあるけれども、しかしその場所からまた新しい思いになって歩み始めることを、イエスさまは望んでおられます。

 私たちの毎日の生活の中で、イエスさまは私たちに伴ってくださり、私たちの歩みを支えてくださっています。

 イースター、弟子たちがガリラヤに帰ったように、私たちもまた穏やかな日常に帰っていきたいと思います。イエスさまが私たちの歩みを導いてくださいます。よみがえられたイエスさまと共に、健やかな歩みをしていきたいと思います。