2017年4月25日火曜日

2017年4月9日

2017年4月9日 主日礼拝説教要旨
  「時が来た」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書14章32~42節)
 今朝の聖書の舞台はゲツセマネと呼ばれている場所です。果樹園の中にある広場で「油の圧搾機」という意味で、収穫されたオリーブの実を集めオリーブ油を絞り出すための広場でした。そこでイエスはおもむろに「弟子たちにつまずく」(27節)と語り始め、それをペトロは「たとえ死んでもそんなことはない」と否定します。つまずくのは弟子たちが愚かで弱いからではなく、あまりにもイエスの道が厳しいからであり、十字架に赴くことの出来る人間などいないのです。
 33節で「イエスはひどく恐れもだえ始められ」とありますが体が震え心は乱れに乱れたと訳されても良いくらいです。さらにイエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」とあり、それ程に十字架は重く辛く孤独なものであることを語っています。そのイエスを救ったものは祈りでした。イエスは地にひれ伏し「あなたはどんなことでも出来るでしょう。十字架以外に方法があり、道があるのではないですか。だからこの苦しく苦い杯をわたしから取り除いて下さい。」と祈ったのです。やがてその祈りは「みこころが行われるように」と変わるのです。
 この2つの祈りの間にどれほどの苦しみがあったのでしょうか。ところが弟子たちは何と情けないことにイエスが祈っている間、起きていることが出来ず居眠りをしてしまいます。3度、弟子のところに行くのですが3度とも眠っていたのです。やがてゲツセマネの静寂が破られ、裏切り者のユダが来ます。「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」ここには十字架に向かう決然とした姿を見ます。その変化・違いは何なのでしょうか。これが祈りの力なのです。
 イエスは弟子たちがつまずきと裏切りを知っていて、「さあ行こう」と呼びかけています。ここに強くて深い愛があります。死の悲しさ、恐怖、断絶、それらをすべて超越する愛があります。
ゲツセマネの祈りによって愛の力に満たされるという神の奇跡が行われた記念の場所なのです。受難週を祈りの日々として歩みましょう。

2017年4月17日月曜日

2017年4月2日

2017年4月2日 主日礼拝説教要旨
  「この人のしたことを記念して」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書14章1~9節)
 3節でイエスは皮膚病患者シモンの家に入り食事の席に着いたとあります。すなわちイエスは、最後まで最後の瞬間まで人間に仕え通したのです。そのとき一人の女性がそこに入ってきて香油の入った石膏の壺を持ってきてイエスの頭に注ぎかけたのです。壺からすくってかけたというのではなく、壺を壊してしまったと云う行為の中に彼女の決意を感じます。しかし弟子たちはそれを見て憤慨します。もったいないことをしたものだと。ところがイエスは女性をほめたのです。しかも最大級で「世界中で、この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」と。
 人に仕え通したイエスに対して人間の応答は、悲しいことにイエスを殺そうとさえしているのです。しかも自分の出世のことで頭がいっぱいで仲間割れが始まり、一人はイエスを裏切ろうとしています。唯の一人もイエスの十字架を共にしようという思いの人間はいなかったのです。
 これは実に悲しいことであり、残念なことです。全くにイエスは孤独です。荒野を一人で行くような思いであったに違いありません。そこに一人の女性が現れ、自分の全てを(それがただしいかどうかということではなくて)彼女の感性の中で自分の出来る限りで最高のことをイエスに今、行ったのです。彼女は十字架が何かも判ってしたわけではなかったのです。しかし、出来る限りのことをしようという心があったのです。そして、その事がたった一人、イエスの死を、十字架の死を共有していることになったのです。私は、香油を受けながら涙しているイエスの姿が目に浮かびます。たった一人十字架を分け合うことの出来た人と出会ったイエスの喜びです。
 私たちの奉仕や歩みはいずれも、不完全なものにすぎません。しかし、主イエスは不完全なものを用いてくださる方なのです。そして「彼女を記念しよう」と喜んでくださる方なのです。私たちも受難節にあたり、心を込めて奉仕をし、心を込めて歩み続けましょう。

2017年4月11日火曜日

2017年3月26日

2017年3月26日 主日礼拝説教要旨
  「目を覚ましていなさい」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書13章28~37節)
 この箇所は小黙示録と云われるマルコ福音書13章最後の部分、いわば結論部です。13章の冒頭部分を見ると弟子たちが目に見える神殿の立派さに感嘆を覚えるところから始まっています。それに対して、イエスは目に見えるものはすべて滅びる時が来ると云うのです。そして、そのしるし、徴候があると云われ、いちじくの話が取り上げられています。それは同じように時代の中で神の終末の時が近いことを現しているというのです。
 しかし、32節「その時は、だれも知らない、イエスさえも」神以外は知っているものはないというのです。私たちはやがて終わりの日が来るのを待ち望んで今日を精一杯生きることを示されています。しかし、私たちの日常の中で経験していることは虚偽と不安で塗り固められたこの世界の中で生きる喜びを失っている現実があります。同時に自分の小ささばかりに目が向いてしまうのです。しかしイエスは「天地は滅びても私のことは滅びない」と宣言します。イエスの生涯は小さき者を愛する生涯でした。イエスが私を愛しているという真実は滅びない。だから「いつも目を覚ましていなさい」と云われます。それは本当のものを見つめ続けなさいと云うことです。それは神の言葉ですし、神の愛です。
 もう1つの意味は、情景は夜です。目を覚ましているというのは、皆が寝ている間に起きているということです。目を覚ましていて夜明けが来ることを一番に知らせるのです。夜明けは必ず来ることを知らせるのです。私たちはどんな苦難にも勝る神の恵みを信じます。そしてその信仰がすべての人の希望となるのです。
 イエスが言葉を語る時、簡単な気持ちで語っていません。十字架という闇へさえイエスは自ら赴くのです。それが深い闇であろうと神の言葉が示すなら最後には神の勝利があることを信じて歩んでいるのです。将来の光をじっと見つめ続けるのです。イエスは、人間を救うものはただ神の言葉だけであると断言されるのです。「目を覚ましていなさい」。

2017年4月3日月曜日

2017年3月19日


2017年3月19日 主日礼拝説教要旨
  「愛の力」本間優太神学生
   (ローマの信徒への手紙8章31〜39節)



 本日取り上げたローマの信徒への手紙8章は、ローマの信徒への手紙の中では、1章から見ていくと大きな区切りを作っています。それは、直前の7章までは人間と罪との関わりが語られているのですが、8章では救いと希望についてパウロは語っており、今日取り上げた箇所はその最後の部分に当たります。例えば、7章15節には罪と格闘するパウロの姿が描かれているのですが、そこでは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と語っており、罪との関わりの中でもがき苦しむパウロの姿が7章全体に渡って描かれています。

 このように、パウロも私たちと同じ、一人のキリスト者として、聖書の呼びかける事柄を実行したいけれども実行できない自分がいることに、悩み苦しんでいたのです。しかしながら、そのような自分の弱さに、信仰の大先輩であるパウロ自身はどのように対決していったのでしょうか。

 そのために最も注目すべきは箇所は8章36節です。このカギ括弧でくくられている一節は旧約聖書の詩篇44篇からの引用です。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ」。「あなた」は旧約聖書では神様を指していますが、ここではそれをキリストを指す形でパウロは引用しているのです。ここに最大のポイントがあります。それまでは、ローマの信徒の手紙の中では「キリストがわたしたちのために」と語られていたのですが、ここで初めて「わたしたちがあなたのために」と関係が逆転して語られるのです。

 ここでパウロは一体何を強調しようとしているのでしょうか。それが8章の後半で強調される「愛」にあります。8章の後半、35節、37節、39節でパウロは神様やキリストの私たち人間への愛を語っています。神から遣わされた御子であるキリストの愛を受けたものは、苦難の中にありながらも、キリストを愛し続ける事になるとパウロは言いたいのです。

 愛には関係を逆転させる力があります。その事を示したキリストに励まされながら、私たちもまた世界の中で勇気をもった一歩が踏み出せますように祈りましょう。