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2026年2月21日土曜日

2026年2月15日

 2026年2月15日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

「目線を変えて」 川上信牧師

  マタイによる福音書 4:18-22節

 本日の聖書箇所、マタイによる福音書4章18節から22節には、イエスがガリラヤ湖で漁をしていたペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人を弟子として招かれる場面が記されています。当時のガリラヤの漁師たちは、ローマ帝国の支配のもとで重い負担を負わされ、汗水流して働いても十分な報いを得ることができず、希望を持ちにくい現実の中にありました。そのため、自分たちの仕事に誇りや喜びを見いだすことが難しかったのです。

 イエスの「人間をとる漁師」というギリシャ語を忠実に直訳すれば、本来「人間のための海の人」といった意味になるそうです。それはいわば荒海にもまれ、あえぎ、溺れている人間を助ける人。今でいえばライフセーバーみたいな働きをしている人のことを指しているのかもしれません。人間が人間として生きることを手助けする人。そんな人として、神のみ言葉を共に伝えて共に歩みましょうというイエスの招きが、この招きの言葉に込められています。人が人として生きられるように支える者になることを意味しています。それは、溺れる人を助けるライフセーバーのように、人の命と尊厳を守る働きへの招きでした。その招きに彼らが従う決断をしたことは、単なる職業の変更ではなく、生き方そのものを変える選択でした。その歩みは、後の時代に生きる私たちにとっても信仰の道しるべとなっています。

 私たちも日常生活の中で、神からの招きを受けています。しかし、その声に気づくためには、物事を見る目線を変えることが必要です。いつもと同じ風景の中にも、信仰の目で見つめると、新たな意味や導きが見えてくることがあります。

 交換講壇という取り組みも、いつもと違う視点を与えてくれる大切な機会です。私たちのいつもと同じでなく、聖書の読み方も、説教者が変わることで目線が変えられることがあります。そのことで私たちの生涯を変えるような御言葉に出会えるかは分かりませんが、それが人生に1回のチャンスなのか、10回のチャンスなのか、100回のチャンスか,1000回のチャンスなのか。でも、その気づきを与えられるチャンスを増やせるのは、私たち自身だけなのです。「いつも目を覚ましていなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というイエスの御言葉通りに、困難や悲しみの中にあるときにこそ、目線を変えて神を見上げ、自分に与えられている道を祈り求めながら、神と共に生きる者として歩んでいきたいと願います。


2025年10月24日金曜日

2025年10月19日

 2025年10月19日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「神の負ける場所」(創世記 22:1-13節) 野本千春牧師


 今から35年前、平安教会には何人かの精神に障害を持った人たちが土日に立ち寄ったり、教会員となって礼拝に出ていた。その中の30代の男性、Tさんはまだ若いときに統合失調症を発症したひとだった。高校卒業の前後よりずっと左京区内の精神科病院に入院し、週末に外泊と言って右京区の実家に帰っていた。Tさんは土曜日、外泊のときに教会に立ち寄って、日曜日の礼拝の準備をしている神学生であった私と会話をした。Tさんがあるときから「閉鎖病棟は神の負け」と何回も繰り返すようになった。Tさんは病院で「暮らして」20年近くがたっていた。その後、私は仕事でその病院の閉鎖病棟の中をのぞく機会を得たが、その病棟は落ち着いたクリーンな印象で、「神が負ける」地獄のような場所とは決して思えなかった。ではTさんが語った、「神の負け」とはどういう意味であったのか、そのことを彼のイエス・キリストへの信仰の証言として理解するまで私は長い年月を必要とした。Tさんは人生の半分を閉鎖病棟で送っていた。当時は統合失調症と言う名ではなく、精神分裂病と呼ばれていた時代。精神科の治療も現在以上に手探りの療法しかなく、現在の様に副作用の比較的軽い薬が開発されてはおらず、飲めば大きな負担が心身にかかった。病気が少し良くなってくると、今度は自分の置かれた状況を認識せざるを得ず、人生に絶望し自ら命を絶つ若者が多かった。病気になってしまえば神も仏もなかった。そのような状況で閉鎖病棟で人生を送っていたTさんにとって、そこが当時としてはいかに近代的な医療環境を維持できていたとしても、「神はそこでなになさっておられるのか」と心から嘆かざるを得ない場所であったと思う。しかしそのような場にもかかわらず、いやそのような場であるからこそ、イエス・キリストは彼と共に十字架につき、共に居られたのではないか。その体験をTさんは「閉鎖病棟は神の負け」という重い言葉で身をもって信仰告白をされたのではないか。イエス・キリストという私たちの神は、「閉鎖病棟は神が負ける場所」と言い切り、絶望を口にするTさんと共に十字架を担って居られた神なのではないのか。イエス・キリストは十字架の苦しみを苦しむものと共に苦しみ切り、復活の望みを望むものと共に望み切る神である。Tさんの言った「閉鎖病棟は神の負け」、すなわち「神の負ける場所」に在って、実にイエス・キリストは「インマヌエル」なる神、すなわち、「ともに居ます」神、であったのだ。今朝の聖書の箇所は、信仰の祖、と言われるようになったアブラハム、徹底して神とともに歩んだ人と、待ち望んで授かった最愛の息子イサクの物語である。アブラハムは神が命じるままに、最も大切なひとりご、イサクをほふり、神にささげようとした。その時のアブラハムの胸の内は描かれていないが、これ以上の苦しみはないというほどの苦しみを味わい、これ以上の痛みはないという痛みを味わったのではないか。新約聖書の、ヨハネによる福音書3、16は「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」、すなわち、神が最愛の独り子を人間の赦しと救い為にこの世にささげた、と証しするのである。そこに神御自身の痛切な苦しみと痛切な痛みがある。そして十字架の神、イエス・キリストは十字架というもっとも痛みと苦しみの、もっとも弱い姿を取られて、私たちに神の愛を顕してくださった。神は私たちの罪の赦しと和解と救いのために十字架の上で敗北してくださったのである。であるから、たとえ私たちが死の影の谷を歩んでいても、そこにはかならず私たちの神、イエス・キリストが共に歩んでくださっているのである。


2023年11月3日金曜日

2023年10月29日

 2023 年 10 月 29 日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

「創造の時の円舞(ロンド)」 山本有紀牧師

  創世記 1:1-5,24-31 節

 礼拝の暦はこの主日から新しい季節に入る。全部で 9 週ある「降誕前」節の後半4 週は「待降節」。救い主が幼子の姿で地上に降る、クリスマスまでを指折り数える。そして前半の 5 週は、救い主の到来という「約束」の成就に至る、神様と人間との間に紡がれた「契約の物語」を、世のはじめから順に辿る。今年の場合は、「天地創造の祝福」>「アダムとエヴァへの約束」>「アブラハムとサラへの約束」>「モーセと出エジプトのイスラエルへの約束」、そして、最後の 5 週目は(毎年必ず)、救いの約束の最終目的である「神の国の到来」を覚えて「再臨の、栄光に輝くキリスト」に関わる箇所を読む(再臨の希望の内に、「最初の到来」を待つ季節へ)。農耕のサイクルでは、収穫の祭りの季節に、私たちは礼拝生活のサイクルにおいても、神が耕し、蒔き、守り育ててその収穫を心待ちにされる、この「被造世界」とこれを保全する務めを委ねられた私たちの人生と、社会全体の歴史がもたらす「実り」の在り様について、信仰の先達が辿った道を記念しつつ、深く吟味するように導かれている。

 イスラエルの民がこの「天地創造物語」を生み出したのは、民族にとって最も暗い時代=バビロニア捕囚の時代だった。国も王家も滅び、礼拝を捧げる神殿もなく、モーセが授かったという十戒の石の板も奪われた。彼らが「神の民」であることの印が消失した時代、かつて祭司であった人たちが、この創造物語を生み出した。そこには、イスラエルの神がこの世を「良いもの」として祝福し、美しく整え、その秩序の保全者として自分たちを選んだという信仰が示される。だから捕囚の民はこの物語に生かされて、天地創造の秩序、即ち安息日を命にかえて守り、被造世界のサイクル、蒔き、育て刈り入れる祝福のサイクル、この世の被造物すべてが参与する円舞(ロンド)を、自らの「神の民」としての再生の希望を胸に、躍り続けたのだった。

 今も、この円舞は続く。私たちの人生も、社会の歴史も、自然のリズムもすべてがこの円舞の内にある、と天地創造神話は物語る。成功だけでなく、失敗も裏切りも罪も背徳もこのサイクル内で繰り返される。飢饉も不作も洪水も疫病も地震も、あらゆる自然災害も、そして差別や不正義、戦争も。秋を収穫の感謝として迎えることのできない場所も人も毎年存在する。それでも私たちには、この被造世界を「良い」ものとして保全する務めが課せられている。世のはじめの救い=祝福の約束を、この年も私たちはそのままに守り、いのちのサイクルの円舞を続けていかねばならない。その務めを共に担う仲間でありたい。

2018年11月6日火曜日

2018年10月21日

2018年10月21日 聖霊降臨節第23主日礼拝説教要旨
  「絶妙ブレンド」 横山順一牧師
   創世記 11:1~9節
 四月に天に召された榎本てる子さんは、生前「ブレンディング・コミュニティ」を作る夢をたびたび語っておられた。性をはじめ様々な立場の人間が「混ぜあわされた」豊かな多様性の社会を目指したてる子さんの夢に賛同する。ちなみに沖縄の踊り「カチャーシー」も、混ぜるという意味。
 かつていた教会でいただいたブリューゲルの「バベルの塔」のパズル絵を眺めていて、ふと、塔の下で鞭打たれ働かされている庶民の姿から気づかされた。つまりそのような強制・強要をしないと塔の建設は不可能だということ。
 テキストはニムロドが建てたバベルの塔の箇所。「有名になりたい」という願望は誰にもあろう。しかし実際にできる人は限られる。基本的にそれは「権力者」ではないか。口語訳ではニムロドは「地上で最初の権力者」だと訳される。
 「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(1節)とあるが、戦時中の日本が他国の言葉や文化を奪う同化政策を推進したのと同様を示している。そうでなければ戦争という塔の建設ができなかった。
 神が怒りをもって塔を壊されたのは当然の結末だった。神がなさったのは混乱のためではなかった。バラルにはごちゃ混ぜという意味がある。無理に一つとされた民たちに、それぞれの言葉を使い、それぞれ自由に生きて良いという神からの示し。また違うが故に、互いに聞き合わねばならないという神の思い。それがバベルの塔の物語の骨子だろう。
 弟子たちがそれぞれの言葉で語り出したという使徒言行録のペンテコステの出来事も、それぞれが自由に語って良い、語るべきという神の愛の思いを示している。
 ごちゃ混ぜとは、無造作なバラバラを意味しない。神の配慮に満ちた絶妙なブレンドである。聖書は、太古から多様性の大切さを記していた。