2020年1月27日月曜日

2020年1月19日

2020年1月19日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
   「共に歩み出す」 桝田翔希伝道師
     ヨハネによる福音書 1:35~51節
 洗礼者ヨハネの導きによりイエスの後をついてきた二人は、「どこに泊まっておられるのですか」と問いかけます。「泊まる」という言葉はヨハネによる福音書の中でよく用いられると同時に、ふたつの意味が込められることがある言葉です。この言葉は、15章の「イエスはまことのぶどうの木」とタイトルの付いた箇所でも印象的に用いられています。「わたしにつながっていなさい(4節)」、「私の愛にとどまりなさい(9節)」イエスの活動は神の愛の内に留まるものでありましたし、イエスの言葉は次第に弟子たちの内に留まるようになりました。そのようなイエスの生き方を想起させる問いかけを、弟子たちはここでしているのです。
 そして、イエスは一見すると「頼りない人」や「この世的な価値観に生きている人」を弟子へと招きます。この出会いの場面には、イエスがどのような出会いを大切にしていたのか見ることができます。シモンは洗礼者ヨハネの下で生活していた兄弟とは違い、この世的な生活を送っていました。しかしイエスは岩という意味の「ケファ」という名前を授けます。ナタエルはイエスという人が現れたことを聞いた時、「田舎からそんな人が現れるわけがない」と言います。しかしイエスは、そんな頑なな心の持ち主にも否定することなく出会い、その心を解きほぐしていきました。ここには、明らかな間違い、欠けのある人間でありながらも、それを否定することなく受け入れ共に歩み出したイエスの生き方が描かれています。
 ネパールで医療活動や生活改善の取り組みをしておられた岩村昇医師は、「Go to the People(人々の中へ)」という詩を大切にしておられたそうです。「人びとの中に行き 人々と共に住み 人々を愛し 人々から学びなさい 人々が知っていることから始め 人々が持っているものの上に築くのだ…」というこの詩は、海外協力の中で自分たちの正しさを押し付けるのではなく、現地の人々に学び共に働くことが示唆されています。
 私たちの生活を振り返ると、考えの違う人や文化の違う人をついつい拒絶してしまうこともあります。自分の考えを押し付けようとしてしまう時もあります。しかしイエスの出会いは、明らかな間違いがあっても否定することなく共に歩まれました。そのような歩みの中で、弟子たちの心の中にもイエスの言葉が留まっていったのです。私たちの中にもイエスの言葉が留まっていることを覚えながら歩んで行きたいと思います。

2020年1月20日月曜日

2020年1月12日

2020年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
  「世の罪を取り除く神の小羊」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 1:29~34節
 小羊はキリスト教のなかでよく用いられたシンボルです。迫害のなかで十字架の像を広めることのできなかった初期のキリスト者は、その代わりに小羊の像を用いたりしました。イエスさまと初めて出会ったバプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと、ヨハネによる福音書は伝えています。
 イエスさまは十字架によって殺され、天に召されました。しかしそのなきがらは、兵士によってはずかしめられます。なんともむごたらしい話です。もう死んでいるのに、死んでいるのか確かめるために、イエスさまはわき腹を槍で刺されたのです。人間とはなんとも言えず、非人間的になることができます。私たちの世の中は、そういう世の中です。そうした悲惨な世の中で、イエスさまは世の罪を取り除くために、十字架につけられました。
 社会自体も罪の多い社会ですが、私たち自身もまた罪深いものです。「心を合わせて祈ろう」と言っても、いつのまにか心のなかに人間的な思いが出てきます。「あんなやつのために祈れるか」。そんなふうに思ってしまいます。「自分も神さまから赦されている罪人でしかない」。そのように思いつつも、思わず爆発してしまうので、「あの人だけは許せない」。大声で叫びたくなります。「あの人だけは許せない」。
 私たちは私たち自身で、私たちの罪を解決することなどできないのです。きれいになんかなれないのです。しかしだからこそ、イエスさまは世の罪を取り除く神の小羊として、私たちのところにきてくださったのです。だからこそ、わたしは世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストを讃えたいのです。「この方こそ、世の罪を取り除いてくださる方だ。この方こそ、わたしの罪を担ってくださる方だ」。その思いはたしかな思いです。
 私たちの世の罪を取り除く神の小羊が、私たちと共にいてくださる。私たちは自分の罪のゆえに、自分で自分をどのようにすればいいのかわからないけれども、しかし私たちとともに、イエスさまはいてくださるのです。
 神の小羊イエス・キリストがたしかに、この世の罪を取り除いてくださるのです。私たちはこのことを信じて、この方に依り頼んで歩んでいきましょう。世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストをほめ讃えましょう。

2020年1月13日月曜日

2020年1月5日

2020年1月5日 降誕節第2主日礼拝説教要旨
  「満ちあふれる豊かさの中で生きている」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 1:14~18節
 クリスマス、御子イエス・キリストは、何も特別なものをもたない私たちのところに来てくださいました。マリアの賛歌のなかで、イエスさまの母マリアは、そのことを次のように言っています。ルカによる福音書1章47-48節にはこうあります。【わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです】。イエス・キリストは特別でない私たちのところに、神さまの御子であるにも関わらず来てくださいました。私たちは豊かな恵みをいただいて生きています。
 ヨハネによる福音書は、【律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである】と言っています。モーセの時代が終わり、イエス・キリストによって、人は救われるということです。モーセの時代に神さまから与えられた約束は、律法を守ることによって救われるということでした。しかし人は弱さのゆえに、律法に従って生きることはできず、律法は「裁き」を生むことになります。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように、律法を用いて人々を裁く人たちが出てきます。しかしイエスさまは、人はみな神さまの愛のうちに生きている。神さまの憐みのうちに生きていると語り、神さまが私たちを許してくださっていることを語りました。
 私たちはいま、イエス・キリストの恵みと真理のうちに生きています。「これができていない」とか「これではだめではないか」という裁きの世界に生きているのではありません。人を傷つけたり、人をののしったりする裁きの世界に、私たちは生きているわけではありません。私たちはイエス・キリストの恵みと真理のうちに生きています。私たちは裁きではなく、恵みの世界に生きています。神さまの愛、神さまの憐みによって生きている私たちは、思いやりを大切にして、互いに尊敬しあい、互いに助け合って生きていきます。「あなたは大切な人なのだ」「あなたがいてくれて本当によかった」と、互いに感謝しつつ歩みます。
 新しい一年も、神さまに愛され、イエスさまに励まされながら、感謝をもって歩みたいと思います。イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中に歩んでいることに感謝して、神さまの民として胸をはって歩んでいきましょう。

2020年1月7日火曜日

2019年12月29日

2019年12月29日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
  「世界中に知らされた」 桝田翔希伝道師
    マタイによる福音書 2:1~12節
 クリスマス礼拝、燭火讃美礼拝を恵みのうちに無事に終えられましたこと、神さまに感謝いたします。2019年最後の礼拝ですが、この一年はどのようなものであったでしょうか。元号が変わり、天皇についての報道が繰り返しなされた年であったように思います。天皇のことは教会から見れば、「外側」のことかもしれませんが、私たちが今一度問われている事ではないでしょうか。
 公現日を控えたこの日にあって、聖書日課では「占星術の学者たちが訪れる」とされる箇所が選ばれていました。ここでイエスを訪ねて礼拝した学者たちというのは、どのような人たちであったのでしょうか。「星」は肉眼で見えるものは8,600個ほどあるのだそうです。現代のような技術もない時代にあって、星を観察して記録するというのは膨大な知識を伴うことであったでしょう。当時にあって学者たちはエリートとされる存在でした。一方でエルサレムにいた学者やヘロデも、聖書の知識は十分持ち合わせた人たちでした。エルサレムの人たちも救い主の誕生を知識として知っていましたが、学者たちのように礼拝しようとはしませんでした。ここに、「知識」と「生活(信仰)」が必ずしも結びつかない姿が描かれています。さらに知識的なエリートであった学者たちでしたが、その道のりは知識のみではなく、星(神)による不思議な導きによるものでした。
 救い主が生まれたことは、外国の学者たちによってエルサレム中に知れ渡ったようです。しかし、ヘロデはその救い主が礼拝すべき存在であると知りながら、保身のために殺すことを考えました。救い主の誕生は世界中に知らされたものでありましたが、それと同時にエルサレムにあったそれまでの生活(信仰)が外国から問われた瞬間でもありました。同じように、日本の教会の歴史を振り返っても、外部から問われるということが何度もあったように思います。戦時中には、国家という教会の外部の言いなりになり、戦争に加担していきました。「外側」からの問いかけに、私たちはどれほど心を開けることができるでしょうか。また、イエスが活動された場所の多くは、都のような中心・内側ではなく、辺境であったり疎外された場所であったことを聖書は記録しています。
 知識を越え、星に導かれた学者たちは、イエスという「生きた希望の生命」に出会いました。降誕節にあって、私たちもまたこの生命に出会っています。学者たちの物語を思い出す中で、この出来事は様々な問いかけの中を生き、どのように私たちが応えるのかということが語られているのではないでしょうか。