2020年7月30日木曜日

2020年7月26日

2020年7月26日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

  「イエスさまが来てくださる」 小笠原純牧師
  ヨハネによる福音書 6:16-21節

 ことさら差別している気がなくても、社会システムが差別を下支えしているようなこともあります。映画の撮影などのときに、照明が使われますが、こうした照明は、白人を基準に合わせられることが多いそうです。白人の俳優を基準に照明が当てられると、アジア系の俳優はくすんで見えるそうです。
 イエスさまの弟子たちは、自分たちだけで舟にのり、ガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムに出かけます。しかしそのとき強い風が吹いて、湖が荒れ始めました。弟子たちが不安になったとき、イエスさまが湖の上を歩いて、弟子たちのところにきてくださいました。
 弟子たちと同じように、私たちもいろいろな不安にかられることがあります。私たちはまじめなところがありますから、自分の力で何とかなるのではないかと思って、一生懸命に頑張ります。しかし自分の力では何ともならないような出来事に出会い、やっぱり不安になることがあります。
 不安な私たちに光を当ててくださり、見守ってくださっているイエスさまがおられます。まさにイエスさまは「わたし」のところに来てくださるのです。わたしが救いを求めて、「イエスさま、きてください」と祈るとき、イエスさまはわたしのところにきてくださるのです。映画撮影の照明とは違って、イエスさまの救いの光は、わたしに当てられているのです。
 新型コロナウイルスの感染の拡大は、世界中でなかなかおさまる気配がありません。大国と言われる国は、このときにも自分の国の勝手で支配力を強めようとしていたり、世界のいろいろなところで暴力的な差別事件が起こったりします。
 しかし、イエス・キリストは私たちに言われます。「わたしだ。恐れることはない」。私たちはこの言葉を信じて歩みたいと思います。イエスさまは必ず、私たちのところにきてくださり、不安な私たちに御手をのべてくださり、私たちを守ってくださいます。

2020年7月22日水曜日

2020年7月19日

2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
  「自分のためでなく」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 5:19-36節
 「何の保証もない」ということは、不安なことです。ですから世の中の人々は、保証を求めます。しるしを求めていけば、結局、さらなる保証が、さらなるしるしがほしくなります。もっともっと大きな保証が、もっともっと大きなしるしがほしくなります。そして不安が大きくなります。
 私たちは「神さまが私たちのために何をしてくださるのか」ということを問うことが多いですが、イエスさまは私たちに「あなたは何かしてもらうために生きているのか」と問うておられます。
 イエスさまは自分の誉れを求めようとはされませんでした。イエスさまは自分の栄光のためではなく、神さまの栄光のために歩まれました。イエスさまは自分の栄光のためではなく、私たちの罪をあがなってくださるために歩まれました。
 私たちは不安なとき、さみしいとき、「あの人はわたしに・・・をしてくれなかった」ということが気になります。私たちが「あの人はわたしに・・・をしてくれなかった」という思いをもち続けているとき、私たちの心は平安ではありません。傲慢な意味ではなくて、「あの人の力になってあげることができた」という思いをもつときに、私たちの心は平安です。
 自分のためではなく、神さまのために、そして私たちのために歩まれたイエスさまが、「わたしに着いてきなさい。永遠の命を与えるから」と、私たちを招いてくださっています。
 私たちはさまざまな不安を抱えて歩んでいます。しるしを求めたり、保証を求めたり、「・・・してくれたら」との思いをもつことも多いです。不安なときはなおさらのことです。しかしイエスさまは私たちのために、永遠の命を与えてくださり、神さまは私たちを御手のうちに置いていてくださっています。私たちは自分のために生きているのではありません。神さまのあわれみのうちに生かされているのです。神さまの大きな祝福のなかにあることを信じて歩んでいきましょう。

2020年7月15日水曜日

2020年7月12日

2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨
  「ただ信じて生きていく」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 4:43-54節
 音楽美学、ポピュラー音楽の研究をしている増田聡(大阪市立大学)さんは、ツイッターでこうつぶやいていました。【あいみょんを通して聞いてますが、今一番売れてる女性歌手が「モテない私」を基盤に若い人たちに支持されるのは面白いというか文化的デフレが定着した時代だなあと感じる。椎名林檎も宇多田ヒカルもaikoも20世期末に出た人はまだ「付き合ってる状態から開始」が歌詞の前提でなければならなかったのです】。
 悩んだり、自分のことが嫌だと思えたり、また人を羨んでみたりと、そうしたあまり人から見られたくないような姿であったとしても、そうした姿をバカにしたりさげすんだりすることなく、いとしいと思えるというのは、とてもすてきなことだと思います。
 役人はイエスさまに息子をいやしていただくことをお願いします。イエスさまは「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言われ、役人はその言葉を信じて帰っていきます。そしてその帰り道に、僕から息子がいやされたことを知らされました。
 イエスさまは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われました。人は何かすごいこと、なにかすごい人に心が奪われてしまうということがあります。政治家が「やってる感が大切なんだよ」というのも、よくわかる気がします。しかしイエスさまはそうしたことはなさいませんでした。そうしたことは、本質的なことではないからです。役人の息子さんをいやされるということのなかでは、本質的なことは「あなたの息子は生きる」ということです。イエスさまは役人に、真実の言葉にこころを傾けて、「ただわたしを信じなさい」と言われました。
 私たちをとりまく騒がしいいろいろな出来事の中で、私たちは右往左往させられるということがあります。しかし私たちは私たちに命を与え、私たちを生かしてくださっている方に、心を向けて歩んでいきたいと思います。イエス・キリストは私たちと共にいてくださり、私たちを永遠の命を与えてくださいます。

2020年7月5日

2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨
  「感謝をもって生きていく」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 4:27-42節
 私たちにはいまいろいろな自由が保証されています。そうしたことは先人たちによって戦いとられたものです。今日の聖書の言葉にありますように、「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」世の中に私たちは生きているということです。
 弟子たちは「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」と言っている、しかし実際は「色づいて刈り入れを待っている」状態だと、イエスさまは言われます。世の中には救いを必要とする人たちがたくさんいて、救われるのを待っている。神さまのみ旨に従い、神さまの御心に従い、神さまの救いの業を行なうということは、それは一人で行なうことではなく、バトンを渡しているようなことなのだと、イエスさまは言われます。「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」「別の人が種を蒔き、そして別の人が刈り入れる」。
 私たちは「自分で」生きているということの大切さと、「おかげで」生きているということの大切さを、忘れないで生きていかなければなりません。私たちは神さまの前に立つときに、やはり一人で立ちます。しかし一方で、私たちはいろいろな人の「おかげで」生きているのです。私たちはつながりの中で生きています。
 私たちは感謝をもって生きていくということを大切にしたいと思います。神さまが私たちに豊かな恵みを備えてくださいます。サマリアの人々が、サマリアの女性を通して、イエスさまのことを知ることができたように、人はいろいろな形で、人のお世話になります。神さまが人を通して備えてくださる恵みを、感謝をもって受けとめたいと思います。
 そしてまた私たちも自分たちのできることで、良き働きを行ないたいと思います。それは小さな小さな働きであるかも知れません。しかし神さまが私たちに「なせ」と言って備えてくださっているわざを誠実に行なっていく者でありたいと思います。私たちはイエスさまを中心とした豊かな交わりへと招かれています。神さまから豊かな恵みに感謝しつつ、互いに尊敬しあい、助け合うことできますようにとの祈りをもちつつ歩んできましょう。

2020年7月1日水曜日

2020年6月28日

2020年6月28日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨
  「霊と真理をもって礼拝する」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 4:5-26節
 小さな時はいまひとつわからなかったような微妙なことというのが、大きくなってからすこし理解できるようになるということがあります。人はそれぞれにいろいろな悩みをもっていて、それは端からではわからないということがあります。サマリアの女性も、また悩みを抱えた女性でした。
 サマリアの女性は周りの人々から「あれ、あれ、あの人よ」というような目で見られていました。そのことをよく知っていましたし、「フン!、なによ。わるい」という気持ちももっていました。
 サマリアの女性は、イエスさまに対して初めはひねたようないい加減な対応をしていました。しかしイエスさまの言葉を聞きながら、だんだんと自分が本当に望んでいることを、イエスさまに問うようになってきます。サマリアの女性が気になっていたことは、じつは自分と神さまとの関係でした。
 イエスさまは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と言われました。「まことの礼拝」というのはどんな礼拝なのでしょうか。第一に、このサマリアの女性が参加できる礼拝ということです。水をくみにくるのも人を避けて正午ころにやってくる女性が参加できる礼拝ということです。救いを求める人ならだれでも来ることができる礼拝ということです。そしてまた救いを求めてやってくる人は、真剣な思いをもってこころから礼拝するということです。いいかげんな気持ではなくて、素直な気持ちになって、神さまの前に立つということです。そして素直に神さまに救いを求めるということです。
 私たちも「霊と真理をもって」神さまを礼拝したいと思います。それは形式的ではなく、心から感謝をもって礼拝するということです。神さまは私たちが心から礼拝するのを豊かに祝福してくださいます。
 イエスさまは「わたしを信じなさい」と言われました。このことからすべてのことが始まります。イエスさまの招きに応えて、救いの道への歩みを確かなものといたしましょう。

2020年6月21日

2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨
 「イエスさまを信じて、永遠の命を得る」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 3:22-36節
 ミュージシャンの竹内まりやは「幸せのものさし」という歌の中で、「隣の芝生が青く思えたら、この庭に花を植えればいい」と歌っています。「ああ、そうなんや」と思えますが、それでも隣の芝生が青くみえるのが気になるもので、やはり人と比べてしまうということがあるわけです。
 バプテスマのヨハネは、「自分はメシアではない」と言いました。自分は救い主ではない。それは自分の仕事ではない。人は神さまから与えられた役割を、感謝をもって行なっていく。救い主がこの世に来られるのであれば、それはとても嬉しいことであり、そして自分と比べられているイエスという人が、救い主であるのであれば、それはとてもうれしいことだ。わたしは花婿を迎える介添人のように、花婿のそばに立って、みんなと一緒に花婿が来たことを喜ぶだろう。わたしと比べられているイエスという人、あの人は特別な人である。そしてあの人は栄え、わたしは衰えなければならない。
 自分は役割を終え、自分は衰えていく。世間的に見ればそのことはさみしいことに思えるだろうし、「惨めだ」というふうに自分のことを見る人もいるかも知れない。しかしそうした人からの評価というのは、どうでも良いことだ。大切なのは、神さまが何をなさるのかということだと、バプテスマのヨハネは言います。
 神さまが何をなさるのかということが大切なことであり、神さまのご計画が進んでいくのだ。人からどのように評価を受けるのかということには、わたしはそんなに関心がない。神さまのみ旨に従って、私たちの世に来てくださった御子を信じて歩んでいく。イエス・キリストこそ、神の御子である。
 私たちにとって大切なことは、神さまが私たちを愛してくださっているということです。人の評価ではありません。私たちはイエス・キリストを信じて、そして永遠の命を受け継ぐ者として、神さまによって招かれている。神さまの大きな祝福のうちに歩んでいることに感謝して、安心して歩んでいきましょう。