2018年1月29日月曜日

2018年1月14日

2018年1月14日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
 「まことの礼拝」 宇野稔牧師
  ヨハネによる福音書 4:23~24節
  民数記 15章32~36節(研修会テーマ「礼拝」)
イスラエルの人々が神の示しによってエジプトを脱出し、神の約束の地カナンに向けての旅にあった時、一人の人が安息日に焚き木を集めていました。これを見た人々は彼を捕えてモーセのところに連れて来ました。その時、主はモーセに「その人は必ず殺さなければならない。全会衆は宿舎の外で彼を石で打ち殺さなければならない。」と云われたのです。そこで人々は彼を外に連れ出し、石で打ち殺したのです。まさに残酷物語です。しかもこのようなむごたらしい仕打ちが神の命令であるということは、私たちにとって大きなショックです。なぜ神はたかが焚き木を集めたくらいの人にこのような残酷な仕打ちを命じたのでしょうか。殺しとか盗みとか不品行をしたとかというならまだしも……。しかしイスラエルの人々が神の約束の地に到達するのには、こうした厳しさが必要だったのではないでしょうか。
イスラエル民族の出エジプトの記事は、私たちに自分の信仰生活の姿を見るようなことがあります。御言葉に従って生きて行こうとする者の信仰も確かに出エジプトです。肉の国エジプトにいながら神の約束に与ることはできません。私たちはこうした信仰生活を全うするためにはやはり厳しい態度が必要です。
気が向いた時に教会に行ったり行かなかったり、聖書を読んだり読まなかったり、この様な信仰生活ではこの世の誘惑や自分の弱さに打ち勝つことはできません。「安息日でも焚き木を集めよう」という甘いささやきに対して、石をもって立ち向かうような厳しさがなければ、決して神の国に入ることはできないのです。私たちはどんな嵐にも破船してはなりません。その為に大切なことは、自己に対して厳しくあるということです。その最も具体的な生活は聖日厳守ということです。まことの礼拝とはヨハネ4章23~24節に尽きるのです。研修会でさらに学びます。資料をお読みください。

2018年1月22日月曜日

2018年1月7日

2018年1月7日 降誕節第2主日礼拝説教要旨
 「神に栄光、地に平和」 宇野稔牧師
 ルカによる福音書 2:14~20節
 クリスマス物語になれ親しんでいる者にとって、羊飼いの物語は当たり前のように読んでしまうところなのですが、実はここには驚きをもって読むところではないでしょうか。当時の社会の中で律法を守らないで救いから最も遠い人間だと考えられていた羊飼いに、救い主誕生の最初の知らせがもたらされたというのが最初の驚きです。次の驚きは飼い葉桶に寝かせる赤ちゃんに対面するのですが、自分たちより貧しい弱い存在だったのに、神をあがめ讃美したという点です。さらに信仰心がないはずの彼らは羊を置いてイエスを礼拝しに行った事です。
 こう考えてみると驚くことに常識が逆転しているような物語です。つまり救い主が生まれたということは価値観がひっくり返っている出来事に違いありません。私たちは今、出会っている様々な事柄を一生抱え込まねばならないのかと思うのですが、「そうではない」と聖書は宣言するのです。そこでルカは一人の人マリアを登場させるのです。マリアは一連の事柄、即ち受胎告知、エリサベトの訪問、ベツレヘムの旅、馬小屋での出産、見知らぬ羊飼いたちの訪問に「思い巡らしていた」のです。この「思い巡らす」というのは、あれこれ考えていたのではなく一つ一つを集めて大きいものを考えるという意味で使われているのです。即ち、これらの出来事の多くは辛く、悲しく、惨めなことに思えるけれど、それをつなぎ合わせていく、そこに人智を越えた大きな神の計画を考えていたというのです。
一連の出来事は理不尽で惨めさを残しながらも、もっと大きい所から神は私たちを導き、何よりも愛して下さっているということを確信するという生き方、それがマリアの思いを巡らすという言葉に代表されています。私たちも一つ一つの出来事を紡ぎながら大きな神の愛に感謝し、崇め、讃美しつつ新しい年を歩んでいくのです。天使の告げた<神に栄光、地に平和>は神からの私たちへの応援歌なのです。

2018年1月15日月曜日

2017年12月31日

2017年12月31日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
 「ナザレ人と呼ばれる」 山下 毅伝道師
 マタイによる福音書 2:13~23節
 妻マリアの聖霊による懐妊は、ヨセフにとって大変な苦悩をもたらしました。その時代のユダヤの法律では、マリアにとって、石打の刑に当たるものでした。ヨセフはただ神様を信頼し、全てをゆだねます。「御子の誕生」という、最高の喜びに満ちた出来事を守られます。
「救い主の誕生」を知った、その頃ユダヤの地を支配し暗黒政治を行っていたヘロデ王は、二歳以下の男の子ども達を一人残らず殺してしまいます。その残虐を神様の導きによって知ったヨセフは「幼子イエス様」と、マリアとともにエジプトに逃れます。ヨセフは、この世の中の政治の矛盾に満ちた現実の中で、神様の指示に従って、ただ服従して従って行きます。ヨセフはただ黙って従っているように見えますが、心の中には大変な戦いがあったと思われます。神の言葉に従う、信仰の歩みは、私たちにとっても戦いの歩みです。
イヌイット(日本で昔エスキモーと呼称していたアラスカ先住民)の人々の伝道のために、殉教した一宣教師がいました。その地には飢餓に苦しむイヌイットの人々が、期限をきって、イヌイットの人々に食料である「鯨」を与えるように要求します。宣教師は必死になって祈りますが、「鯨」は期限までに与えられません。宣教師は崖から突き落とされ、死んでしまいますが不思議にその死体のそばに「鯨」が一頭、イヌイットの人々に与えられました。この奇跡に、イヌイットの人々は宣教師が仰ぐ神様に改宗します。宣教とはこんなに厳しいものだと思います。イエス・キリストは現在も生きて、私たちのそばにいてくださることは、私たちの救いであり慰めです。ヨセフ達は、神様の導きによりナザレの地に住みます。ナザレはその頃のユダヤの地においては辺境の地であり、田舎の地です。しかし、その地名はイエス・キリストの低さ、謙遜さ、を表わす地名です。私たちは、謙虚に、主を仰ぐとき私たちの魂の中にイエス・キリストは住まわれ、私たちは生きる勇気を与えられます。

2018年1月7日日曜日

2017年12月24日

2017年12月24日 降誕日(クリスマス)礼拝説教要旨
  「主の母 マリア」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 1:46~56節
 ここには「マリアの賛歌」又はマニフィカートと呼ばれる歌が伝えられています。これは妊娠した後のマリアが天使のお告げによって、エリサベトを訪問した時に歌われたものでした。マニフィカートはギリシャ語では「メガリュノー」という言葉で、「メガ」というギリシャ語は「大きい」という意味があります。日本語では「私の魂は主をあがめ」と訳されていますが、直訳すると「私の心は主を大きくする」となります。つまり神をあがめるということは、神を大きくすることです。逆に言えば、私たちの心の中で神を小さくしているのではないかと問われているのです。
具体的にマリアが歌ったことは神の力によって起きる「逆転」であるのです。大人になれば何でもできる、そしてできることこそ素晴らしいことで価値のあることと感じる社会に私たちは生きています。しかし赤ちゃんの周辺だけは違います。強いもの、大きいものが低くなって、小さくて弱いものを大切にするのです。マリアは何よりもまず、主は大きい、主の恵みは大きいと声を上げたのです。何と比べたのでしょうか。自分は小さいけれど、主はこの小さいものに目をとめて下さる、主の恵みは大きいと歌っています。神はまさにこのような世界を形づくるためにイエスを最も弱い赤ちゃんという形をとってこの世に送って下さったのです。
私たちは自らが弱く小さかった時のことを大人になりこの世的な強さを身に着けるにつれて忘れてしまいます。大きい者と小さい者が共に生きていく社会を忘れてしまっているのです。神がご自身を低くして人間になられたという逆転が起こったこのクリスマス、主の母となり、恐れや不安の中にあっても本当の強さに気づき「私の心は主を大きくする」と神を讃美したマリア。彼女のように神の前で傲慢に生きてしまいそうになる自分を小さくし、一人ひとりの心に主を大きく迎えたいと思うのです。クリスマスという大逆転の今この時、私たちの周りにいる人に目を向け、共に生きる歩みを始めたい。

2018年1月2日火曜日

2017年12月17日

2017年12月17日 待降節第3主日(アドベント)礼拝説教要旨
   「罪を許すという宣言」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 7:36~50節
 イエスはシモンというファリサイ派の律法学者のもとに招待されました。「食事の席につく」という表現は珍しい表現であり情景です。ところがそこに「罪深い女性」がいたのです。彼女は社会の歪みの中にある被害者の一人なのですが、その非難は集中するのです。その彼女がシモンの家に入ってきて、泣きながら自分の髪でイエスの足の汚れを拭い、イエスの足に接吻し香油を塗ったのです。私たちは驚きますが、さらに驚くことはファリサイ派の家に入ったということです。彼女は自分の存在の全てをイエスにより頼んでいると云えます。
 一方それを見たシモンは、それが何者か見抜けるだろうと心の中で思います。イエスは見抜いています。このファリサイ派シモンが自分の罪に気付かずに神の前に傲慢な人間であることを見抜き、借金を帳消しにしてもらったたとえ話をして、自分の罪を知った人間が神の愛に応答できるのだということを示します。ファリサイ派シモンはイエスを招きましたが、その態度は無礼だったのです。イエスはシモンの接待とこの女性の態度を比べて47節の言葉を語ります。イエスが示したのは、神の愛と出会った者は、そして神の赦しを知った者は、愛に生きるのだというのです。この箇所を間違って解釈すると「神に赦してほしければ、多く愛しなさい」と受け取ってしまいますが、それでは倫理であり道徳です。信仰とはイエスと出会いながら生きることなのです。
 罪深い女性と呼ばれ続けてきた彼女は、イエス以外に自分を救う者がいないという確信を持ったのだと思います。その確信があったからこそ、彼女は神の愛と出会うことが出来たのです。彼女が全てを捨てて、全てから解放されてシモンの家に来て、ベールを捨てて素顔のままでイエスに仕えたということの背景はこれ以上考えられません。神が赦すと云うのですから、だれも責めることが出来る人はいません。だから「安心して行きなさい」とイエスは私たちに語りかけておられます。