2019年1月29日火曜日

2019年1月20日

2019年1月20日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
  「みんなちがって、みんないい」 藤浪敦子牧師
    コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12:18~26節
 私たち一人ひとりの個性は神が与えてくださったものだから、互いに認め合い、受けいれあっていくことが大切だとパウロは伝えています。しかも、人の弱さや足りなさ、至らなさといった負の部分も、神が与えられた大切な個性であり、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)、その個性をその人に与えられたと記しています。自分自身の弱い部分、人よりも見劣りする部分、情けない部分を受けとめることは簡単なことではありません。人との関わりの中であれば一層難しいことです。自分自身の個性であれ、人の個性であれ、神が与えられた個性、お互いの違いをどう理解し受けとめていったらいいのでしょうか。
 違いを認め合うことの大切さ、人の弱い部分をも神が与えられた大切な個性であると記した、その後に続けて、コリントの信徒への手紙1の13章に「愛」について書かれていることは大切なことです。「愛」というと、私たち自身が愛を実践していくことが心に浮かびます。しかし「愛」の中心は、何よりもまず「神の愛」であることをパウロは伝えています。人の弱さや小ささをもありのままに受けとめ導いてくださる神の愛の確かさが、私たちの命の源、信仰生活の基にはあるのです。
 この神の愛の事実を思うとき、たとえ自らの信仰の正しさや熱心さでお互いの違いを受け入れること、個性を認め合うことができなかったとしても、私たち一人ひとりに注がれている神の愛を信じ、委ねてみることならばできるのではないでしょうか。そして、神の愛を信じ受けとめるところから、次第に私たち自身も神の愛を実践する者へと導かれていくことができたらと思います。
 与えられているこの命、人生、日々の歩みの中に込められている神様の深い配慮を信じつつ、自分の力、正しさや信仰の強さではなく、神様の愛のゆえに与えられているこの命であることを心に刻み、主を仰ぎ、これからも信仰の道を一歩一歩、大切に歩む者でありたいと願います。

2019年1月21日月曜日

2019年1月13日

2019年1月13日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
  「今日は大漁」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 5:1~11節
 成人の日と言うと若々しいというか、これから始まりという印象を受けますが、成人を迎えない人たちにとっても新しい年が明けて間もないこの時期は同じような心持になるのではないでしょうか。この時にあって、過ぎ去った一年を振り返りながら、「今年こそは」そんな気分になりながら、色々な反省もする時期かもしれません。
 そんな折、社会学者の岸政彦さんの本を読んでいると「自分を差し出す」という文章の中でこのような事を語られていました。私たちは自分を見つめる時、自分にしかないものというものは案外なく、何かの模倣をしたものが多く、よく考えれば「こんなはずじゃなかった」という自分に向き合うしかない。さらに人生を考えると「安定した生活がいちばんよいに決まっているので、そういう道を選んでしまう」。しかし「負けた時に自分を差し出すような賭けをする人々も」その反面沢山いる(岸、2015年)。社会に適合しようとして私たちは何かを模倣しながら無難に生きようとしているのかもしれません。負けてもいいから何かを賭ける、自分の信念を貫くということはなかなか優しいものではありません。
 今日読んでいただいた聖書箇所では夜通しの漁を終えて網の手入れをしていた漁師たちに、イエスが臨んでいます。漁師たちは魚が取れず力なく網を洗っていた様子が想像できます。この後、漁師たちはすべて投げ出してイエスに従いましたが、その「変換点」は決して初めから確固たる意志をもって従っていないことが分かります。「しかしお言葉ですから」ある程度尊敬の念を込めながらも一方では消極的にイエスに従った様子が描かれています。私たちはどこかで劇的な変換点を望んでいるかもしれません。疑いながらもイエスに従おうとする弟子たちを、イエスは温かく見守ったのでした。
 失意のうちに網を洗う漁師たちのように、私たちもいつもうまくいく人生ではありません。成人の日・新年を迎えてわたしたちはどこかに転換点を求めているのかもしれませんが、自分の全てを差し出して何かに賭けるような決断はなかなか勇気のいるものですし、それが全てでもありません。しかし、漁師たちのように、人間が変わる転換点の始まりは疑いの中にもあるのかもしれません。そんな私たちを見守っていると聖書は語っているのではないでしょうか。

2019年1月7日月曜日

2018年12月30日


2018年12月30日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
  「慌ただしさの中に告げられた」 桝田翔希伝道師
    マタイによる福音書 2:1~12節
 クリスマスの期間を過ごす中で、様々な方が色々な形で教会を覚え祈って下さっていたことを知らされました。多くの恵みの中でクリスマスの礼拝を守れましたこと感謝です。世間でもクリスマスの時期は特別視されていますが、年末も重なり何かと慌ただしい時期ではないかと思います。大掃除をしたり年賀状の準備をしたり、様々な用事があります。そんな時にあって聖書日課では、東方の学者が救い主イエスの誕生を星に知らされるという物語が選ばれていました。私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 ここで言う「学者たち」というのは「ペルシアの学者」と考えられています。ペルシアの学者というのは「司祭」であり天文学や薬学、占星術、夢解釈を行っていた集団で、学問的にはトップクラスのエリートとされていました。学者たちはヘロデ王を訪ね、聖書で救い主はどこに生まれることになっているのかと問います。王宮お抱えの聖書学者たちは「ベツレヘム」と答えましたが、このことが原因でヘロデは子どもを皆殺しにしてしまいました。当時のイスラエルは様々な派閥の対立があり、不安定な状況でありました。ヘロデ王も統治者として様々な気を使っていたことでしょう。そんな時に知らされた「新しいユダヤ人の王」の誕生を喜びの知らせではなく、「めんどくさい」知らせであったのではないでしょうか。
 見つけ出して殺すために東方の学者たちに「見つかったら知らせてくれ」と頼みます。一方で救い主を待ち望んでいたはずの聖書学者たちは、ヘロデを恐れてか何も行動しませんでした。私たちも様々なしがらみや、固定概念の中に生きています。聖書を読みながらも、王宮にいた学者たちのように行って確かめようともしない事もあるかもしれません。栗原康という政治学者はアナーキーという言葉を「支配」などを意味するギリシャ語「アルケー」に否定を意味する言葉が重なりアナーキーという言葉になるのだと説明しておられました。「支配がない」「統治されない」という意味なのだそうです。イエスの生き方は、しがらみや固定観念を越えて人と出会われました。「見つかったら知らせてくれ」と頼まれた学者たちも無視して帰って行ってしまいました。慌ただしさの中にあっても「支配」や「統治」、様々な枠組みを越えて聖書に聞く者でありたい。