ラベル (N11)フィリピの信徒への手紙 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル (N11)フィリピの信徒への手紙 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年12月19日土曜日

2020年12月13日

 2020 年 12 月 13 日 待降節第3主日礼拝説教要旨

   「主にあって喜ぶ」 小﨑 眞牧師

    フィリピの信徒への手紙 4:4-9 節

 2020 年度は感染症(COVID-19)拡大の猛威に襲われ、グローバル社会の脆弱さに対峙させられた。地域精神医学の専門家によれば、感染症拡大時に人々が抱く感情には、主に“不安”と“恐怖”があるという。この二つは似て非なるもので、“不安”は対象がはっきりしない際の感情であり、対処が難しいとのこと。一方、“恐怖”は対象が明らかなものを恐れる気持ちであり、対象を「排除」することで“恐怖”は取り除かれるとのこと。結果、私たちは不安をコントロール(制御)するため、不安を恐怖へ転化(=仮想敵の想定)する傾向へ陥るとのことである。関東大震災の時の在日韓国・朝鮮人虐殺などの実例を挙げることができる(太刀川弘和「AERAオンライン限定記事」参照)。

 “不安”の対処に関して聖書に学びたく思う。クリスマス物語はマリアやヨセフを始め、人々の“不安”がその中心に据えられている。不安に対峙すべく、聖書日課に従い、パウロの獄中書簡と語られてきたフィリピの信徒の手紙に傾聴する。当時、パウロは過激なユダヤ人やユダ人キリスト者から、獄中同様の不安を強いられていた。その只中で、「主にあって、いつも喜びなさい」(聖書協会共同訳)とフィリピの教会を励ます。「主にあって」とは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない(フィリピ 3:3)」姿勢を示唆している。換言すれば、己の腹(自身の過去・成果など)を神としない姿勢である(ロマ 16:18)。さらに「広い心(寛容な心:聖書協会共同訳)」へ招いた。「寛容さ」は「キリストの王的主権」とは異なる寛容さであり、自分の正しさや強さからの解放を示唆している。人間が築いた規則や法律が最終の切り札ではなく、適法以上のものがあることへの招きである。

 宣教の出来事(救い)は人間が制御し得るものではない。自らの不完全性、不十分さの只中に主が介入してくる。ゆえに主の降誕を前に、自身を明け渡す時(「待つ」という時間)が備えられているのかもしれない。哲学者の鷲田清一氏は「待つ」ことを人間の営みの根底に据え、その姿勢への感受性の意義を提示した。「待つ」、それは自身の時間をはじめ、自分自身を他に明け渡すことである。換言すれば、周囲を自己へ同化するのではなく、そのような「貪欲で自己愛的な自我」を放棄すること。そこに異なる他者への広がりが創出する。「主にあって」こそ、自身の期待と異なる真の希望が現れる。


2017年8月15日火曜日

2017年7月30日

2017年7月30日 主日礼拝説教要旨
「イエスの恵みがあるように」 宇野 稔牧師
フィリピの信徒への手紙 4章21~23節
 21節の「聖なる者たち」とは、清廉潔白な人を指す言葉ではなく「神に愛され」「神に導かれている」人間という意味です。人間一人ひとりは決して完璧な者ではなくむしろ欠けの多い存在です。その人間の性質によって「聖」なのではなく、そのような私たちに神の愛をもって関わって下さるという意味において「聖なる者」なのです。その私たちと神がどのように関わっているかを示すために「キリストイエスに結ばれている」という言葉が書かれています。
 人間的には弱く、もろく、歪んだ私たちであるにもかかわらず、キリストイエスの十字架と復活に結ばれていることによって「神のもの」とされ「聖なるもの」とされたのです。教会に集う私たちは、キリストに結ばれるから教会に連なり、仲間となり、友人となっているのです。これが原点なのです。苦しい時も励まし合い、感謝し、喜びあえるのはお互いにその原点を持っているからです。これこそが教会という交わりの中心だということを、パウロは最後にもう一度フィリピの信徒に伝えているのです。それは同時に私たちに告げられていることでもあります。
 教会では、弱くとも、もろくとも、歪んでおろうとも神に選ばれてここにいるということに最大の価値が置かれるのです。そこで大切なことは祈ることです。パウロは「よろしく伝えてください」「よろしくと云って下さい」と語っています。聖徒から聖徒へ、イエス・キリストの十字架によって生命を与えられたのだから「よろしく」というのはあなたのことを祈っているとのことです。
 投獄という状況、明日をもしれない状況の中でもパウロは使徒としての使命を果たしていました。しかもそれはパウロ自身が思いも及ばないところで自分が用いられて、キリストが宣べ伝えられているということを経験するのです。孤独ではないのです。締めくくるに当たってキリストの恵みがあなた方の霊と共にあるようにと結んでいます。存在の根源的なところ、深い土台のようなところにという意味であります。

2017年7月18日火曜日

2017年7月2日

2017年7月2日 主日礼拝説教要旨
「神の豊かな恵みの中で」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章15~20節
 フィリピ書の最後となりました。19節に「わたしの神」という言葉がありますが、これはパウロ独特の言い回しです。神のことを「わたしの神」というのは不遜のような気がしますが、パウロと神がそれほど日常的な密接な関係があるからで、言わば自然の流れで出てきているのです。19節に「必要なものは全て」という表現がありますが、私たちの多くの祈りは「必要なものを求めて」祈るのですが全て満たされているわけではありません。ここで云っているのは、自分が必要だということではなく、神が必要とされているものが与えられるということです。それこそ実は本当に自分が必要としていることだというのです。
 パウロの「必要なものは全て満たして下さった」という表現が素晴らしいのです。そこには「生きていてよかった」という充足感が表現されています。あらゆるものに優って私たちを充足させるものとは、神が必要として私たちに与えて下さるものなのです。それはこの地上のあらゆる宝に優るものなのです。だからパウロはその素晴らしさを「ご自分の栄光の富に応じて」と表現したのです。この宝はパウロが偉大な信徒だから受けることが出来たのではなく、教会に云っているのです。つまり、教会の人々に、私たちに告げられているのです。神は私たちにも御自身の栄光の富を分けて下さるのです。それは「キリスト・イエスによって」という言葉で表されています。神が私たちに与えて下さったものは何でしょうか。それは「生命」です。そして命を捨てても良いほどに愛するということです。必要なもの全て満たされていると感じながら生きるということが出来るのです。そして20節は讃栄の言葉です。パウロは神を讃える言葉で締めくくっています。
キリスト者の特徴を一言で云うと「喜び」ではないでしょうか。世界の中で「自分は神に愛されている」ということを他の人に先駆けて知っているのですから。ですから、「喜びなさい」と語られるのです。

2017年7月11日火曜日

2017年6月25日

2017年6月25日 主日礼拝説教要旨
「平和の神が共にいる」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章8~9節
 この書を書いた使徒パウロは、元々キリスト教徒を迫害する人物でした。それがキリストに出会って劇的な人生の変更をした人物なのです。迫害者からキリストのことを宣べ伝える人物となったのです。それ以来は全力で世界中を駆け巡り、イエスこそがキリストであると宣べ伝えて来ました。ですがそのような活動は、順風満帆と言えない時も多々あったに違いありません。しかしパウロは自分の人生について「喜んでいる」というのです。しかもこの手紙を書いている時は牢獄に入れられていたのです。パウロはフィリピの教会宛てにこう書いています。「すべて真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさい」と云うのです。
 この世界に果たしてそんなものがあるでしょうか。騙されているということは「これこそ真実なことだ」と思っていたのに、それがウソだということでしょう。だから私たちは苦しみ、辛く涙を流すのです。しかしパウロは、この世界にそれらがあると証言します。それは人間のことではなく、人間として生きて下さったイエス・キリストのことです。確かに裏切られ、だまされ、どうしようもない立場に追い込まれてしまった時、そして恨みや妬みが胸をかきむしるような時、「イエス・キリストのことを心に留めなさい」と云うのです。
 パウロは獄中で死を目前にしながらも、死への恐怖を感じさせない、それでいて穏やかな愛に満ちた手紙を書いたので、フィリピの信徒への手紙は「白鳥の手紙」とも表現されます。私たちの人生は何があるかわかりません。ヨハネ12:24「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒の麦のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」とあります。哀しみは変わらない、しかし、その哀しみの闇に光を与えることの出来る方、それが神なのです。イエス・キリストなのです。イエスを思う時、そしてイエスの御心を生きる時、神の平和があなた方を包むのです。

2017年7月3日月曜日

2017年6月18日

2017年6月18日 主日礼拝説教要旨
「主の平和を生きる」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章2~7節
 先ず2人の名前が挙げられています。この女性たちはかつては共に歩んでいたが、意見の違いから教会を離れていたようです。でも、パウロはこの2人を「支えて上げて下さい」と願うのです。もう一度イエスの前に戻れるようにと語っています。それに続いて「喜びの勧め」が語られますが、主において喜びなさいと云うのです。即ち、主イエスは私たち一人ひとりを愛して下さっているその事実に立ちなさいと語っているのです。
 私たちは哀しみや辛さを数えることは得意です。悔しさや不安で、眠れぬ夜を過ごすことも多々あります。しかし、パウロは「患難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む!」(ロマ書5:3~4)と云ったのです。この違いは何でしょうか。それは、パウロは愛されているという事を確信していたという1点です。だから「主はすぐ近くにおられます!」と語るのです。主において喜ぶこと、喜びの力とは、患難を希望に変える力なのです。憎しみを赦しに変える力なのです。
 キリスト者とは、その喜びの力を神からいただいていて、そして主の愛において希望を持つのです(6節)。「思い煩うな」は招きの言葉です。信仰に立って大胆に愛し、赦し、善を行うのです。そして私たちをその大胆な決断へと押し出す力、それが「祈り」です。パウロはどのような祈りをしていたのか、「感謝、願い、打ち明ける」という単語です。
 祈りには、私たちの目の前にあるどうしようもない現実を変える力があります。それでも変わらないかもしれませんが、自分を捉えて放さない心の鎖を解き放つ力があるのです。そこに神の世界が開かれていくのです。
 主に愛されていることを喜ぶこと、神の力を祈り求めること、それによって私たちは人知を越える平和と出会うのです(7節)。私たちの思いを越える平安の中に置かれるのです。そのことによって群れは守られるのです。


2017年6月12日月曜日

2017年5月28日

2017年5月28日 主日礼拝説教要旨
「しっかりと立ちなさい」 宇野 稔牧師
フィリピの信徒への手紙3章17~4章1節
 4章1節は3章のまとめというだけでなくフィリピ書全体のまとめであるとも考えられます。先ず目に付くのは「愛し」「慕っている」「冠である」というパウロの言葉です。過剰な表現であるという感じは否めませんが、それほど感極まってこの手紙を書いているのでしょう。故に、1節はパウロの思いがこもっているわけです。
 それにしてもフィリピの教会の人全てを愛しているとは云い難いのではないでしょうか。中には意見の合わない、パウロに反対する人もいたに違いありません。「すべての人を愛する」と聞いて、「それは理想論に過ぎない」と反射的に思い「わたしは全ての人を愛せるほど強くない」と自己弁護するのです。イエスは、私たちに何も資格がないのに私たちを愛して下さったのです。それは十字架によって示されているのです。それは能力のあるものを愛する愛ではなく、資格のないものを愛する愛なのです。そしてその神に従うならば、相手の状況や相手の事態ではなく、それを越えて「愛し合う」というのがキリスト者なのです。パウロの言葉はその信仰に基づいています。人間として生きる時、私たちは他者をなかなか愛することが出来ません。しかし、もし私たちがイエス・キリストの前にまっすぐに立つ時自分の好き嫌いを越えてすべての人は「愛するもの」であり「喜び」であり「冠」であるのです。なぜならばその人もまたイエスに愛されているからです。時に「赦せない」「愛せない」という思いに駆られる時、イエスによってすでに赦されており、愛されているという事実の前に立っているのです。
 フィリピの教会は、大きな群れではなくむしろ小さな群れでした。しかし決して臆することはないとパウロは云うのです。どんな困難な状況にあっても「しっかり立って」と勧めています。イエスの福音に生きイエスの愛を知っている以上この世界のどんな力よりも大きな出来事なのです。イエスの愛を心に携えて出ていくのです。「愛する者よしっかりと立ちなさい」イエスからの約束の言葉です。

2017年1月30日月曜日

2017年1月15日

2017年1月15日 主日礼拝説教要旨
  「祈りに支えられて」宇野稔牧師
   (フィリピの信徒への手紙1章8〜11節)

  パウロは投獄されています。不公正な裁判の場に引き出され「弁明」することを求められています。何と理不尽な状況でしょうか。しかし、驚いたことにパウロはそれを「恵み」だと云っているのです。
 何故でしょうか。彼にとって状況が良いか悪いかが問題ではなく7節は「福音を弁明し立証する機会」と云っています。彼にとって大切なことは、福音が述べ伝えられることであり、キリストの愛を一人でも多くの人に伝えることでした。それは恵みに与っていることだからと云うのです。
 パウロがもし自分にこだわって生きているなら、今ほど不幸なことはないと思います。しかし彼は「自分は使徒としてイエスのことを宣べ伝えるために生きている」と信じ切っていたのです。そう考えると嵐の中、苦難の時も、神が共にいて下さるのだから、投獄や裁判さえ恵みの時だと云えるのでしょう。恵みに与っているとはフィリピの教会との関係においてもいえることであり、お互いに向き合って祈っているかです。
 9節に「私はこう祈ります」それはフィリピの教会の「愛」が豊かになるようにであり、「知る力」のことです。頭の中の知識ではなく、体に染み付いているような知識のことです。神が共におられるということを実感していることが大事なのです。「見抜く力」は、苦しい状況にあっても神の意志を「見抜く」信仰が大切なのです。さらに11節に「救いの日にとがめられることのないものになる」と祈っています。
 私たちに出来ることは、主に結ばれている絆をあきらめないことです。自分にも、他人にも、この社会にもあきらめないことです。心を折ることなく、今のところから先ず一歩を歩み出すことです。それが神の愛への私たちの応答です。あきらめないために、心を折らないために、祈ることが大切なのです。相手を覚えて執り成しの祈りをすることが大切なのです。そして私たちは「お互いに祈りに支えられる」のです。



2017年1月23日月曜日

2017年1月8日

2017年1月8日 主日礼拝説教要旨
  「喜び、祈り、感謝」宇野稔牧師
   (フィリピの信徒への手紙1章3〜6節)

 今日は成人の日祝福礼拝です。2001年にこの平安愛児園を卒園された16名を覚えます。その内、本日は教会員家族に成人になられた方々を招き3人の方が出席されておられ、祝福いっぱいの礼拝です。
 3節でパウロは「思い起こす度に」というのは執り成しの祈りのことです。対立する二者の間に立って事態が好転するようにうまく取り計らうということで、祈っているというのです。しかも感謝していると云います。こういうことはしばしばあることで、誰かに祈られている事に気がついていないのです。パウロの執り成しの祈りは最終的には神に「委ねる」ことです。
 4節には、だから神に委ねたので、もう考えることは止めにしようというのでなく、逆に「いつも喜びをもって祈る」と書かれているのです。喜びの根拠をどこにおいているのか、私たちはキリスト教を信仰しつつも、その生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないか、どんなに困った状況の中からでも神は必ず道を備えて下さるという希望を持ちつつ、その事柄に関わっていくということなのです。
 5節は「福音にあずかっています」。「あずかる」は交わりと訳されるのですが、過去から今日まで神が招き入れてくださっていることを云うのです。
 6節は将来のことです。「救いを完成して下さるのもまた、神であると確信する」とパウロは云っています。私たちの将来にあるものは「救いの完成」という喜びの出来事なのです。
 私たちは自分のあまりの惨めさに、生きる力を無くしてしまうこともあります。勇気がもてなくなります。しかし、そのような時に共にいて下さる神を思い起こすのです。神は過去から現在までいつも私たちと共にいて下さいます。そして今も共にいて救いの完成へと導いて下さっているのです。「私の救いは神による以外にない」のです。私たちは確信をもって私の将来を神に委ねていくことが出来ます。そのしるしが「今日まで神は私たちを導いて下さった」という事実なのです。今を喜び祈り感謝して明日に向かって歩み続けましょう。

2016年11月28日月曜日

2016年11月13日

2016年11月13日 主日礼拝説教要旨
  「キリストに結ばれている」宇野稔牧師
  (フィリピの信徒への手紙1章1〜2節)
  パイオニア・オーシャン・ビュー(POV)教会交流礼拝

 姉妹教会としての歩みを始めるに当たり、5人のメンバーをPOV教会(アメリカ)よりお迎えすることが出来ました。心より歓迎し喜びいっぱいです。そういう意味で何故今朝はこのテキストでしょうか。
 この手紙はパウロの獄中からの喜びの通信と言われています。人間は幸福な時に喜ぶのは普通ですが、喜べない方が返っておかしいのです。しかし、喜ぶ事の出来ない時に喜ぶのは大変難しいのです。パウロは獄中でありしかも殉教を目前にして緊迫した状況にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜び」という字が多くあります。
 ここで教えられるのは、喜びの根拠をどこに置いているのかということです。私たちはキリスト教を信仰しつつもその生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないでしょうか。今日の箇所で「キリストの僕」パウロと「キリストに結ばれている」フィリピの教会という両者の関係がその喜びの内容なのです。 
 丁度、平安教会とPOV教会にもそのことが重なるのではないでしょうか。1節の「結ばれている」というのは「エン・クリスト」、即ち「キリストにある」であり、「キリストに出会う」と訳すと伝わりやすいのです。
 私たちはキリストに出会っているから「聖」なるものとされており、キリストによらなければ「聖」ではありません。この意味は立派というものではなく、「神のもの」なのです。私たちは能力や資格で結ばれているのではありません。私たちはキリストに結ばれて、教会に連なりそして、仲間となり友人となっているのです。人間的には弱く歪んだものです。しかしそういう私たちであるにもかかわらず、キリスト・イエスの十字架と復活に結ばれることによって「神のもの」とされたのです。これが原点です。苦しいときは励まし合い、感謝し、喜びあえるのはお互いがその原点をもっているからです。
 キリストに結ばれたものとして、広い大きな視野に立ち、共に歩き始めたのです。