2020年12月31日木曜日

2020年12月27日

 2020年12月27日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

  「良き志のある世界へ」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 2:1ー12節

 POV教会のメンバーの金田義国先生からのメールには、ときどきアメリカ大統領選挙について記されていました。年があけ、1月20日にアメリカ大統領の就任式が行なわれます。第46代アメリカ大統領として、ジョー・バイデンが就任します。

 バイデンは勝利宣言演説で、こう言いました。【ののしり合いをやめ、頭を冷やし、互いを見つめ直し、互いの言葉に耳を傾け合う時が来たのです。前に進むためには、相手を敵とみなすことをやめなければなりません。敵ではなく、アメリカ人です。みなアメリカ人なのです。聖書は「なにごとにも時がある」と説きます。「建てる時、植えたものを抜く時、植える時、癒やす時」。アメリカは今、まさに「癒やす時」です】。アメリカは「アメリカ・ファースト」ではなく、「世界中で再びアメリカが尊敬される」ことを選びました。自分たちのことばかりを考えるのではなく、みんなで幸せになる道があるということなのでしょう。

 占星術の学者たちは、イエスさまのところを訪れたあと、主の天使の「ヘロデのところに帰るな」というみ告げに従って、別な道を通って、自分たちの国に帰っていきました。「ヘロデのところに帰るな」という言葉は、とても象徴的な言葉です。ヘロデの世界はどういう世界なのでしょうか。それは力の強い人々がいい思いをする世界です。また社会倫理の低い、腐敗の多い世界です。そしてヘロデの世界は幼子を踏みにじる世界でした。

 ヘロデは巧みに誘います。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。何気ない言葉で私たちを誘ってきます。いろいろなところで、私たちは誘惑にかられることがあります。「いまのご時世だから仕方がないのではないか」などと言われると、「そうかなあ」と思ったりします。しかし誘惑の先にあるものは、悲惨なヘロデの世界なのです。

 「新型感染症が世界中に広がり不安だ」と言われるときであるからこそ、私たちは「ヘロデのところに帰るな」というみ言葉を、しっかりとこころにとめたいと思います。私たちは占星術の学者たちのように、幼子のところに集いたいと思います。

 クリスマス、私たちは救い主イエス・キリストをお迎えしました。お迎えした幼子イエス・キリストと共に、新しい年を歩み始めましょう。


2020年12月25日金曜日

2020年12月20日

 2020年12月20日 待降節第4主日礼拝説教要旨

   「神は我々と共におられる。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 1:18ー23節

 クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。どんな困難な中にあっても、主イエス・キリストは私たちのところに来てくださり、私たちと共に歩んでくださるということを、いま一度、こころにとめたいと思います。新型感染症のために、悲しい思いをしておられる人たち、つらい思いをしておられる人たち、苦難の中にあって苦闘しておられる方々のところに、主イエス・キリストがきてくださることを、私たちは信じています。そしていまも戦争や貧困、迫害や抑圧の中にあって、苦しんでいる人々のところに、主イエス・キリストは希望となってお生まれになられたことを覚えたいと思います。

 フランスの経済学者で、ヨーロッパ復興開発銀行の初代総裁を務めた、ジャック・アタリは、新型感染症のなか、「生き残りを望むなら、利己主義ではなく、利他主義が自分の利益になることを意識すべきだろう」(日本経済新聞デジタル)と言っています。ジャック・アタリの言葉は、「自分一人が幸せになる道ではなく、みんなで幸せになる道がある」ということを、私たちに教えています。

 イエスさまをみごもったマリアと、「ひそかに」離縁をしようとした「正しい人」ヨセフのところに、主の天使が夢の中に現れます。主の天使は、生まれてくる子どもは、イスラエル全体、世界全体の救い主なのだから、この子と一緒に歩みなさいと、ヨセフに言いました。世界全体の正しさということがある。あなたは「正しさ」という自分が幸せになる道を選ぼうとしているけれども、あなたを含めてみんなで幸せになる道があるのだ。その道は「神、われらと共にいます」という道なのだと、主の天使は言いました。

 世界中で新型感染症が広がり、とても不安な年でありました。「利己主義ではなく利他主義へ」というジャック・アタリは言いました。しかしそのことは、もうすでに私たちが昔から、聖書の言葉として伝え聞いていることです。私たちはずっと、自分の利益になることだけ考えるような、自分勝手なことばかりを大切にする世の中ではなく、共に分かち合い、共に支え合う世の中でなければならないと信じてきました。

 クリスマス、主イエス・キリストは、神さまが私たちと共にいてくださることの証しとして、私たちのところにきてくださいました。お迎えしたイエスさまと共に、恐れることなく、神さまを信じて歩んでいきましょう。


2020年12月19日土曜日

2020年12月13日

 2020 年 12 月 13 日 待降節第3主日礼拝説教要旨

   「主にあって喜ぶ」 小﨑 眞牧師

    フィリピの信徒への手紙 4:4-9 節

 2020 年度は感染症(COVID-19)拡大の猛威に襲われ、グローバル社会の脆弱さに対峙させられた。地域精神医学の専門家によれば、感染症拡大時に人々が抱く感情には、主に“不安”と“恐怖”があるという。この二つは似て非なるもので、“不安”は対象がはっきりしない際の感情であり、対処が難しいとのこと。一方、“恐怖”は対象が明らかなものを恐れる気持ちであり、対象を「排除」することで“恐怖”は取り除かれるとのこと。結果、私たちは不安をコントロール(制御)するため、不安を恐怖へ転化(=仮想敵の想定)する傾向へ陥るとのことである。関東大震災の時の在日韓国・朝鮮人虐殺などの実例を挙げることができる(太刀川弘和「AERAオンライン限定記事」参照)。

 “不安”の対処に関して聖書に学びたく思う。クリスマス物語はマリアやヨセフを始め、人々の“不安”がその中心に据えられている。不安に対峙すべく、聖書日課に従い、パウロの獄中書簡と語られてきたフィリピの信徒の手紙に傾聴する。当時、パウロは過激なユダヤ人やユダ人キリスト者から、獄中同様の不安を強いられていた。その只中で、「主にあって、いつも喜びなさい」(聖書協会共同訳)とフィリピの教会を励ます。「主にあって」とは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない(フィリピ 3:3)」姿勢を示唆している。換言すれば、己の腹(自身の過去・成果など)を神としない姿勢である(ロマ 16:18)。さらに「広い心(寛容な心:聖書協会共同訳)」へ招いた。「寛容さ」は「キリストの王的主権」とは異なる寛容さであり、自分の正しさや強さからの解放を示唆している。人間が築いた規則や法律が最終の切り札ではなく、適法以上のものがあることへの招きである。

 宣教の出来事(救い)は人間が制御し得るものではない。自らの不完全性、不十分さの只中に主が介入してくる。ゆえに主の降誕を前に、自身を明け渡す時(「待つ」という時間)が備えられているのかもしれない。哲学者の鷲田清一氏は「待つ」ことを人間の営みの根底に据え、その姿勢への感受性の意義を提示した。「待つ」、それは自身の時間をはじめ、自分自身を他に明け渡すことである。換言すれば、周囲を自己へ同化するのではなく、そのような「貪欲で自己愛的な自我」を放棄すること。そこに異なる他者への広がりが創出する。「主にあって」こそ、自身の期待と異なる真の希望が現れる。


2020年12月11日金曜日

2020年12月6日

 


2020年12月6日 待降節第2主日礼拝説教要旨

   「良き知らせを宣べ伝える。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 13:53ー58節

 私たちの平安教会は、1876年12月10日に創立し、今年で教会創立144年を迎えます。「平安教会百年史」には、私たちの教会の歴史について書かれてあります。私たちの信仰の先達は自分たちの教会の基礎が定まっていないうちから、近隣の教会との交流、そして地方への宣教・伝道活動を大切にしていました。自分たちの教会のことだけを考えるのではなく、近隣の教会・地方の教会の宣教・伝道のことを考えていたということは、私たちがこころにとめておきたいことだと思います。

 平安教会は烏丸三条に会堂があったわけですが、1973年に岩倉に移り、1973年9月23日に新会堂の献堂式が行なわれています。1973年度の定期教会総会の「教会活動計画」の「1.基本方針」の「2.姿勢」にはこうあります。【a、聖霊の助けにより、すべての人への宣教の責任を果たす教会の形成】。岩倉へ会堂を移したとき、私たちの信仰の先達がしなければならないと考えたことは、「すべての人への宣教」ということです。

 イエスさまは生まれ故郷のナザレに行かれました。ナザレの人々は小さい頃から、イエスさまのことを知っているので、イエスさまのことを信じようとはしませんでした。聖書は【人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった】と記しています。「まあそう言わんと、奇跡を行なってあげたら良いのではないでしょうか」と思いますが、でもそういうものなのだということです。人々が不信仰だと、神さまの霊である聖霊が働かず、あまり奇跡が行なわれない。

 私たちはそんなに力のある者ではないですから、すぐに不安になります。しかし私たちはやはり安易に不信仰に陥ってはだめだと思います。良き思いをもち、神さまを信じて歩むときに、神さまは良き道を備えてくださるのです。

 教会創立記念日を覚えて、私たちはもう一度、思いを新たにして、神さまが私たちに託しておられることを、しっかりと受けとめたいと思います。何のために、私たちの教会がこの岩倉の地に立っているのか。私たちは神さまの御言葉を宣べ伝えること、神さまの愛を隣人に届けていくことを、神さまから託されています。


2020年12月4日金曜日

2020年11月29日

 2020年11月29日 待降節第1主日礼拝説教要旨

   「さあイエスさまをお迎えする準備をしよう」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 24:36ー44節

 アドヴェントに入りました。クランツのロウソクにも灯がともり、ああ、もうすぐクリスマスだなあと思います。今年は新型コロナウイルスのために、大勢で集まることができず、クリスマスの行事の持ち方も、従来とは違います。しかしこころを込めて、イエスさまのご降誕をお祝いしたいと思います。

 昔、馬屋飾りを買ったとき、羊の足が欠けていたことがありました。壊れているので交換してもらおうと思って除けていたのですが、でも考え直しました。「そう言えば、私たちも欠けたところをもっている。そして欠けたところをイエスさまに傷をいやしてもらったり、欠けたところをおぎなってもらったりして、教会に集まってきている。だから欠けていた羊さんは、私たちだ」。欠けていた羊をよけていたなんて、わたしは自分がちょっと傲慢になっていたのではないかと思いました。

 アドヴェントの時期、世の終わり・終末の聖書箇所が読まれます。「アドヴェントとは来臨の意で、主の受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準備の時にもなった」(「キリスト教大事典」、教文館)。アドヴェントは、イエスさまの誕生をお祝いするための準備のときであり、また世の終わりの時にイエスさまがやってこられるのを待ち望むときという意味もあるわけです。

 世の終わり・終末は、ノアの洪水のときのように突然、襲ってくる。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい」と言われています。ぼんやりと生活しているのではなくて、イエスさまがいつ再び来られてもいいように、備えていなさいと言われます。

 私たちは欠けたところを持ちつつも、しかし「心して」、イエス・キリストを待ち望みたいと思います。すばらしいことはできないかも知れないし、欠けたところだらけかもしれないですが、それでも救い主イエス・キリストを待ち望むという思いだけは、はっきりと持ちたいと思います。そして何もお献げすることはできないかも知れないけれども、「ずっとあなたを待ち望んでいました」と言える者でありたいと思います。


2020年11月28日土曜日

2020年11月22日

 2020 年 11 月 22 日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

「わかちあいの世界にようこそ」 小笠原純牧師

 マタイによる福音書 25:31 ー 46 節

 世の終わり、終末のときに、神さまから私たちは自分たちが歩んできた歩みについて問われます。そしてできることであれば、神さまの前で、自分の歩んできた小さな良き歩み、それは本当に小さな歩みに過ぎないかも知れないですけれども、でも神さまにお伝えしたいと思うのです。

 イエスさまは【わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。】と言われました。わたしに直接してくれたことではないけれども、あなたたちの世の中で苦しんでいる人、困っている人、つらい思いをしている人、悲しんでいる人、そういう最も小さな者の一人に、なにか手を差し伸べるということは、わたしにしてくれたことになるのだ。この最も小さい者の一人を大切にしてほしい。そういう世の中であってほしい。わかちあいの世界であってほしい。イエスさまは私たちにそのように言われました。

 最近、「自助、共助、公助」という言葉をよく見かけます。東八幡キリスト教会の牧師で、NPO 法人抱樸の理事長である奥田知志牧師は、菅総理大臣の言われる「まずは自分でやってみる」ではうまくいかないと言います。【「私(自助)」が決壊する前に、「共助」、いや、なによりも「公助」が活用できること。それが、ほんとうの意味で、菅氏が言う「自助」の尊重となる】と言われます。

 私たちはここ数十年の間に、「自己責任」という奇妙な言葉に振り回されて、私たちの世の中が、さみしい世の中になってしまったような気がいたします。私たちクリスチャンは自己責任の世界に生きていません。私たちは私たちの罪の問題を、自己責任として解決することができないからです。私たちの罪は、主イエス・キリストが十字架によって取り除いてくださったのです。

 神さまが育ててくださり、神さまが養ってくださっている。収穫を感謝するこの日、私たちは「わかちあいの世界に生きている」ということを、もう一度思い起こしたいと思います。

 神さまが私たちを愛してくださり、私たちの罪を許してくださいました。イエスさまが私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちは神さまの溢れる愛の中に生きています。神さまに愛され、赦されている者として、イエスさまが喜ばれるわかちあいの歩みでありたいと思います。


2020年11月20日金曜日

2020年11月15日

 2020年11月15日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

    「見つけてしまう」 浅野献一牧師

      マタイによる福音書 13:44-44  節

 この神の国のたとえで一番に伝わってくるものは驚きと喜びです。偶然お宝を発見する驚き。そして本当に嬉しくて飛んで帰り畑を買ってしまう雇われ農夫。「宝」事体がいのちの言葉と愛、解放の姿。またこの見つけた人の心躍る姿・驚き躍動しながら帰っていく様が、まさに「天の国(愛の基本の世界)」の在りようを指し示しているたとえです。

 ここでは、自分の功績や業績、わたしの努力とは、全く別に、生の歩みの中に、宝=愛が隠されていると言われます。

 この宝箱を見つけてしまった農夫は、大喜びで今まで彼の生活の支えていたすべてのものを売り払って、その畑を買います。その意味は今まで頼ってきたいのちの基盤・人生でよって立つ基(もとい)を換えたということに他なりません。それは、わたしを支え、安心をもたらすと思っていたモノ(家・お金・土地・保証など)からの脱却・解放です。さまざまな縛り、思いわずらいから解き放たれて、新しい愛の埋まっている新しい土地で生きていく。信じあい、望みあい、愛しあうことを基本の世界に生きようとする。その内容は、信じることの平安さであり、望むことの明るさであり、愛することのまことの喜びといのちに他なりません。その解放は、またわたしの人生をわたし自身のものとして取り戻すことも意味しています。人生・いのちの主人は、組織や物やお金、保証ではなく自分自身です。

 わたしの人生も、わたしの目・人間の目からすれば、痛み多く、みすぼらしい、恥ずかしいばかりの人生にしか見えないかも知れません。土くればかりで、何も良いものはない貧相な地にしか見えないかも知れません。しかし、その地に、いや、わたしの人生にこそ、宝=愛=いのちが埋められていて、ある時輝きだすのです。

 むしろ人生の困難な痛む時にこそ、宝を見つけて、まことのいのちの道へと、本当の自分の道へと向かうことが出来るのかもしれません。その土くれに中にこそ、いのちは芽吹いてくる。いえ、もう既に「神の国」「愛の支配」は始まっている。

  主イエスは言われました。その「畑に宝が隠されている。」

2020年11月11日水曜日

2020年11月8日

 2020年11月8日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

   「力強い神さまの選び」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 3:7ー12節

 「あしたのジョー」で有名な漫画家のちばてつやは、「浦沢直樹の漫勉 NEO」のなかで、「脇役を描くのが好きだ」と言っています。ちばてつやは「教会は、ぼくのマンガに大きな影響を与えている」(「信徒の友」)と言っています。ちばてつやは洗礼を受けたクリスチャンではないのですが、日曜学校に通い、教会の中の交わりの中で大きくなりました。神さまが一人一人を愛してくださっているということをが、なんとなく染みついているのです。だから漫画で描く登場人物、一人一人に愛情があるのだと思います。一人一人に個性があり、そしてその人生があるということが染みついているのだと思います。

 洗礼者ヨハネはユダヤの人々に、悔い改めを迫り、洗礼を授けていました。【『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな】という言葉は、なかなか激しい言葉です。ユダヤの人たちは、自分たちの先祖であるアブラハムが神さまから特別の祝福を受けたということを信じていました。そしてその子孫であるということが、神さまからの祝福の源であると思っていました。しかし洗礼者ヨハネは、「アブラハムの子孫であるということなど関係ない」と言いました。「自分たちが特別である」などと思って、高慢になってはいけないと、洗礼者ヨハネは言いました。

 洗礼者ヨハネが、強い言葉で人々に悔い改めを迫るのは、必ず救ってくださる方がおられるという確かな信頼の裏返しでもありました。どんなにだめな私たちであったとしても、私たちを赦し、私たちを愛してくださる神さまがおられる。洗礼者ヨハネはこのことを信じていました。

 神さまは私たちを愛してくださっている。私たちもまたこのことを信じています。一人一人、神さまは私たちを選び、私たちを神さまの愛で充たしてくださいます。私たちは、神さまの愛を受けるべく選ばれ、一人一人、愛を受けるべく作られています。

 イエスさまはこのことを、「迷い出た羊のたとえ」として話されました。私たちの神さまは、迷い出た一匹の羊を大切にされる方です。一匹くらいいなくなってもかまわないと思われる方ではありません。迷い出た一匹の羊を大切にされるのです。私たちはそうした力強い神さまの選びの中に生きています。「ぜったいにこの人を救う」という神さまの選びの中に生きています。


2020年11月7日土曜日

2020年11月1日

 2020年11月1日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

   「永遠の命にあずかる。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 23:25-36節

 今日は召天者記念礼拝です。毎年、召天者記念礼拝は多くのご親族の方々と共に礼拝を守っています。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。キリスト教は天上と地上の両方で礼拝がもたれていると信じています。今日もまた天に帰られた私たちの信仰の先達は、天上の礼拝で神さまを賛美しています。そしてご家族の皆さんが、地上の礼拝で共に、神さまを賛美しておられるのをとても喜んでおられると思います。

 イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人々に対して、「蛇よ、蝮の子らよ」と言われます。律法学者たちやファリサイ派の人々は、聖書の中で、イエスさまのことを悪く言ったり、イエスさまをとらえて殺そうとしたりします。ですから私たちはイエスさまから律法学者たちやファリサイ派の人々が「蛇よ、蝮の子らよ」と非難されると、ついつい「そうだ。そうだ。悪いのはあなたたちだ」と声をあげてしまいそうになります。私たちはいつのまにか、イエスさまの側につこうとしてしまいますけれども、実際は、イエスさまを十字架につける側の人間です。律法学者たちやファリサイ派の人々に語られている非難の言葉は、私たち自身に対してかけられている言葉です。

 イエスさまは「杯の内側をきれいにせよ」と言われました。私たちはこころのなかにどろどろとした思いを抱えて生きていく者です。私たちのなかに、どうしてこんなに思い上がった気持ちがあるのだろう。こんなさもしい気持ちがあるのだろう。そうした恥ずかしい思いがいたします。しかしそうした弱さをもつ愚かな私たちを愛してくださいました。そして私たちに永遠の命につながる者としてくださいました。

 あなたたちには永遠の命が与えられている。天に帰られた信仰の先達である方々も、このことを信じて歩まれました。イエスさまを信じ、イエスさまに付き従って、その生涯を歩まれました。その人生の中で、戸惑うような出来事、つらい出来事もあったことと思います。また自分の弱さを抱えて、どうしたら良いのかわからないというような魂の悩みに向き合うこともあったことと思います。しかしそうした中にあっても、イエスさまがわたしのことを愛してくださり、わたしに永遠の命を与えてくださるということを信じて歩まれました。そして天に帰られ、そして神さまから豊かな祝福を受けておられます。私たちもまた天に帰られた信仰の先達の歩みを受け継いで、イエスさまを信じて歩んでいきたいと思います。


2020年10月29日木曜日

2020年10月25日

 2020年10月25日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

   「だから、恐れるな」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 10:28ー33節

 「テントウ虫のサンバ」という歌で有名なチェリッシュは、「なのにあなたは京都へゆくの」という曲でデビューしています。「私の髪に 口づけをして/「かわいいやつ」と 私に言った/なのにあなたは 京都へ行くの/京都の町は それほどいいの/この私の 愛よりも」。そしてその次に出した曲は、「だから私は北国へ」でした。どちらも、「なのに」と「だから」という接続詞の効いた曲名となっていて、歌以上によくできた題名だと思いました。

 今日の聖書の箇所にも「だから」という言葉が、何度か出てきます。「だから」は理由を表す接続詞です。理由があるわけです。イエスさまは「だから、恐れるな」と言われました。単に「恐れるな」「怖がるな」ということではなくて、恐れない理由が、恐れない根拠があるということです。

 とるにたらない一羽の雀も守られ、私たちの知らない私たちの髪の毛の数さえも知ってくださっている神さまがおられる。「だから、恐れるな」。私たちには恐れる必要のない確かな理由がある。確かな方が、私たちを守ってくださるのだから恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっているのだから。

 「だから、恐れるな」と言われても、恐いものは恐いと思ってしまいます。恐いときはイエスさまから離れてしまうような気がします。使徒ペトロもイエスさまのことを三度知らないと言いました(マタイに福音書26章69-75節)。しかしそうした弱さを持っているペトロを、そして私たちのことを、イエスさまはよく知っておられます。その上で、私たちに語りかけておられます。

 「だから、恐れるな」。私たちには恐れる必要のない確かな理由がある。私たちには神さまが共にいてくださる。私たちは弱く乏しい者だけれども、しかし神さまは私たちのことをすべて知った上で、私たちに救いの御手を差し伸べてくださっている。「だから、恐れるな」。

 臆病者であった弟子たちは、のちにイエスさまの言われた「だから、恐れるな」という言葉を、心から受け入れることになりました。私たちも弟子たちのように、「だから、恐れるな」というイエスさまの御言葉を確かに受け取って歩んでいきましょう。


2020年10月23日金曜日

2020年10月18日

 2020年10月18日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

   「ここにあった。神さまの愛が。」 小笠原純牧師

    ヨハネによる福音書 17:13ー26節

 『オズの魔法使い』は1900年、いまから120年前に書かれました。アメリカ人によってかかれた、はじめてのアメリカの本格的ファンタジーと言われています。ドロシーは竜巻によって飛ばされて、オズの国にやってきました。ドロシーはカンザスに帰るために、とうもろこし畑のかかし、ブリキのきこり、おくびょうなライオンと一緒に、願いをかなえてくれると言われるオズの魔法使いのところに行きます。かかし、きこり、ライオンに、オズの魔法使いは、「もうあなたたちはすでにそれらをもっているじゃないか」と言います。かかし、きこり、ライオンは自分にはないものと思い、旅をしているわけですが、でも実際にはもうすでにそれをもっているのです。

 私たちもどちらかと言いますと、「オズの魔法使い」の、かかしや、ブリキのきこりや、おくびょうなライオンのような感じがします。「わたしって、だめだなあ」「わたし、やっぱりどうしようもない悪い人間じゃないのかなあ」「わたしは神さまからの祝福からもれているのではないだろうか」と思えることが多いです。

 そんな気持ちになってしまう私たちですけれども、イエスさまは「あなたたちは神さまの愛の内にあるのだ」と言われます。あなたたちはすぐに神さまから見捨てられているのではないかとか思うけれども、そうではない。あなたたちは神さまの愛の内にある。イエスさまは【父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください】(ヨハネ福音書17章21節)と祈られました。

 神さまがイエスさまの内におられ、私たちもイエスさまと神さまの内にいる。神さまとイエスさまと私たちは一つである。神さまの愛が私たちと包み込んでいる。あなたたちは鈍感なので気がついていないけれども、ここに神さまの愛がある。

 「神さまの愛が、ここにある」と、イエスさまは言われます。そうした大いなる祝福のうちに、私たちが置かれていることを、感謝をもって受け入れたいと思います。そして神さまの平安のうちを安心して歩んでいきましょう。


2020年10月14日水曜日

2020年10月11日

 2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

   「勇気を出せ」 村山盛葦牧師

     コリントの信徒への手紙2 5:1-10節

 同胞ユダヤ人との軋轢、国家との軋轢、キリスト教会の問題、様々な困難(難船、飢え渇き、寒さ、盗賊など)を使徒パウロは経験していました。さらに持病を患い健康状態も良くありませんでした。「土の器」の脆さ・弱さ・限界を嫌というほど思い知らされたと思われます。しかしパウロは、四方八方から困難がふりかかってきても、決してへこたれなかった。それは、神が保証として与えてくださった「霊」(プネウマ)が生きて働いていたからです。

 霊(プネウマ)は、大気中や宇宙、そして人間の体内をダイナミックに活動し作用を及ぼす実在物として信じられていました。中国思想や東洋医学に出て来る「気」と似ているかもしれません。気の流れが良いとか、悪いとか言いますが、私たちにも馴染みがあります(「合気道」の「気」、「気合を入れる」の「気」、「元気」の「気」、「病気」の「気」など)。パウロは手紙の中で約120回もプネウマという用語を使い、キリスト信仰と神の働きとの関係を述べています。プネウマは、私たち信仰者の中で働き、共にうめき導いてくれる「神のエネルギー」なんです。ただ、そうは言うものの、私自身を振り返ると、霊的体験やドラマチックな回心体験もありません。むしろ、日常の苦労や辛さ、時には恐怖や怒り、さらには「いずれ人は死ぬ」という現実を見つめると、私の中に神のエネルギーなど、どこにあるのかと思ってしまいます。

 ナウエン神父は、「愛をほとんど経験したことがないとしたら、どうやって愛を選ぶことが出来るでしょうか。機会あるごとに、愛の小さな一歩を踏み出すことで、私たちは愛を選びます。微笑み、握手、励ましの言葉、電話をかける、カードを送る、抱き締める、心のこもった挨拶、助ける仕種、注意を払う一瞬、手助け、贈り物、財政的な援助、訪問、これらのものはみな、愛に向かう小さな一歩です。それぞれの一歩は、夜の闇の中で燃えている一本のろうそくのようなものです。それは闇を取り去ることはありませんが、闇の中を導いてくれます。」(『今日のパン、明日の糧』213頁)と語っています。

 私たちは、滅びゆく「地上の住みか」である幕屋、日々衰えていく「外なる人」、「土の器」に生きていますが、しかしそのただなかに偉大な神の宝・霊が与えられているのです。それは、目の前の闇を完全には取り去ることはできないけれども、闇の中を共に導いてくれる。今日の箇所でパウロは、「わたしたちはいつも心強い」(6節、8節)、と繰り返して述べていますが、「心強い」という単語の、もともとの意味は、「元気である、勇気がある」です。小さな一歩、小さな勇気、灯の霊が、すでに神から与えられている。そこに私たちの存在を賭けて行きたいと思います。主イエスに喜ばれる者でありたいから、それぞれの地上の住みかで小さな一歩・勇気を積み重ねていきたい。それは終末の報いにつながるのですから。


2020年10月8日木曜日

2020年10月4日

 2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

    「良い業を行なう」 小笠原純牧師

      ヨハネによる福音書 10:31ー42節

 『すばらしい新世界』というアンチ・ユートピア小説で有名なオルダス・ハクスリーの名言に、「生涯を通して人間の問題に関心を持ち続け、最後に忠告として言えるのが、『もうすこしだけ親切にしよう』だけでしかないのは、少し恥ずかしくもある」というものがあります。この「少し恥ずかしくもある」というのが良いですね。わたしは「親切にする」ということをもう少し広げて、「小さな良き業に励む」という歩みでありたいと思っています。まあどれだけできているかは別ですけれども。

 イエスさまは自分のことを信じないユダヤ人たち対して、「わたしは神さまの業を行なっている。その業でわたしのことを判断しなさい」と言われました。わたしが行なっていることを見れば、神さまがわたしのうちにおられること、わたしが神さまのうちにいることを知ることができるだろう。そうしたら、わたしのことを信じることができるようになるだろう。

 クリスチャンは昔からずっと、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25章40節)との御言葉を大切にしてきました。

 小さな良き業に励むことは、世の中にとって良いことであるのと同時に、自分自身にとっても良いことです。私たちの心の中には良き思いと、悪い思いがあります。やさしい思いと、いじわるな思いがあります。小さな良き業を行なっていると、自分の中にある良き思い、やさしい思いを養っていくことになります。

 私たちの世の中は、神さまが望んでおられないこと、神さまのみ旨に反するようなことが起こります。腹立たしいことも起こりますし、私たちの意に沿わないようなことも起こります。そうしたなかにあっても、やはり私たちクリスチャンは落ち着いて、神さまが喜ばれる良き業に励みたいと思います。それは小さな、小さな業かも知れません。しかし神さまが喜んでくださる良き業です。人を励まし、人を支え、打ちひしがれた人のこころに愛を届ける歩みでありたいと思います。


2020年10月2日金曜日

2020年9月27日

 2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

   「聞く耳をもって歩む」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 10:22ー30節

 昔、「今日、耳日曜」というギャグがありました。日曜日は休日ですから、耳日曜で耳もお休み、「聞こえない」「聞いてない」という意味です。しかし私たちクリスチャンにとって、「今日、耳日曜」というのは、「聞こえない」「聞いてない」ということではなく、「しっかりと聞いている」ということです。日曜日はしっかりと聞く日です。

 ユダヤ人たちはイエスさまに「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と言います。それに対してイエスさまは、「「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と言われ、「あなたたちはわたしが何を言ったとしても信じないのだから、もういいではないか」と言われます。

 ユダヤ人たちはイエスさまの声に聞き従うことはありませんでした。イエスさまの声に耳を傾けた人々は、この世で重荷をおっている人々でした。病気の人や徴税人であったりしました。彼らはイエスさまの慰めに満ちた言葉に耳を傾けました。またイエスさまの言葉を聞くことによって、自分の罪深さと出会いました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とイエスさまが言われたとおり、彼らはイエスさまの声をしっかりと聞き、従いました。

 キリスト教のメッセージの中には、「そのままでいいんだよ」というメッセージがあります。『アナと雪の女王』の主題歌の「ありのままで」ということです。そしてもう一方、「そのままでいいのかな?」ということです。イエスさまの時代の人々も、救いを求めてイエスさまのところにやってきたのです。私たちはそのままでいいわけないのです。「そのままでいいんだよ」というメッセージは「そのままでいいのかな?」というメッセージも含んでいるのです。キリスト教はこのことを、「人は罪人である」という言葉で表わしてきました。神さまに救いを求める罪人である私たちは、聞く耳をもってみ言葉を聞かなければなりません。

 イエスさまは言われました。【わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない】。私たちはイエスさまの羊として大いなる祝福をいただいています。しっかりとイエスさまのみ言葉に耳を傾ける者でありたいと思います。


2020年9月25日金曜日

2020年9月20日

 2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

   「イエスさまの声が聞える」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 10:1ー6節

 中学校の英語の教科書に、ジョン・万次郎の話が出てきます。「Manjiro learned English by ear. He had a very good ear, so he learned English very quickly」。このフレーズを読みたびに、わたしは「あー、万次郎はええなあ。とても良い耳を持っていたから。わたしの耳はあかんなあ。だからいつまでたっても英語ができんなあ」と思えます。

 今日の聖書の箇所も、またわたしにとってはうらやましい話で、羊は良い耳をもっているという話です。ファリサイ派の人々は、イエスさまの批判の声に耳を傾けるということもありませんでした。イエスさまの声が聞えていないのです。しかし羊であるユダヤの民は、羊飼いであるイエスさまの声を聞いていました。イエスさまの声を聞き分け、イエスさまを信じました。

 そしてイエスさまは良き羊飼いとして、羊飼いが羊の名を知っているように、一人一人の民のことを知ってくださり、その喜びを共に祝ってくださいます。また苦しみ、悲しみも共にしてくださり、共に歩んでくださいます。

 「耳なし芳一」などの『怪談』で有名な、明治の小説家・日本研究家である小泉八雲、ラフカディオ・ハーンは、ある少女の「おやすみなさい」という言葉が、生涯、自分のこころの中に残っているというエッセイを書いています。ラフカディオ・ハーンのこの文章を読みながら、わたしはイエスさまの声が私たちの思いを超えて、私たちに突き刺さってくることがあるのだと思いました。

 私たちの耳が良いとか、悪いとか、そうしたことを超えて、絶対的な声として、イエスさまの声は私たちに届くのです。もちろん良い耳をもって、イエスさまの声をいつもしっかりと聞くに越したことはないわけです。ただ私たちは弱いですから、ときにイエスさまの声を聞くことができず、迷子になってしまうこともあると思います。しかし私たちが迷子になって、イエスさまのことを忘れてしまっていても、あるときまたイエスさまの声が私たちのこころに響いてくるのです。

 イエスさまはいつも私たちを招いておられます。私たちがあっちを向いたり、こっちを向いたり、イエスさまと関係のない生き方をしていても、イエスさまは私たちを招いておられます。イエスさまの招きに応えて、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2020年9月13日

2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

   「神に属する者」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 8:37ー47節

 深澤真紀『平成男子図鑑 リスペクト男子としらふ男子』(日経BP社)によると、「平成男子」の世代は、「リスペクト男子」なのだそうです。【リスペクト男子は、自分の地元や友達や家族をけなす人を、けっしてリスペクトしません。彼らときちんと付き合うためには、まず自分たちが他者をきちんとリスペクトすることから始めるべきでしょう】。

 「イエスさまもリスペクトしていました」と言いたいところですが、今日の聖書の箇所を読んで、目が点になりました。イエスさま、けんか腰です。ヨハネによる福音書のイエスさまは、キリスト教がユダヤ教から独立していくという事情が反映されています。他の福音書のイエスさまに比べると、激しくユダヤ人たちやファリサイ派の人々を批判しています。

 ヨハネによる福音書には、「イエスさまに従うのか」「イエスさまに従わないのか」の二つに一つという語りが多く出てきます。「今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている」「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」。真理に従うのか、従わないのか。神さまに従うのか、悪魔に従うのか。

 しかしこの【神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである】という言葉は、「神に属するか」「神に属さないか」という問いかけであるのと同時に、「あなたたちは神に属する者である」という宣言でもあります。イエスさまは私たちに、「あなたたちは神に属するものなのだ」と言っていられます。だから神さまの言葉を聞く幸いに預かっているのだと、イエスさまは言われます。

 私たちは神さまに属する者として、神さまの祝福を受けた者として創られています(創世記1章)。そういう意味では、私たちはひとりひとり「リスペクト」された者として創られているのです。私たちは神さまの「良きものができた」との祝福の中で創造され、そして神さまに似せて創られたのです。

 イエスさまは【神に属する者は神の言葉を聞く】と言われました。私たちは神さまに属する者として、神さまの言葉を聞きつつ歩んでいきましょう。


2020年9月18日金曜日

2020年9月6日

 2020 年 9 月 6 日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

   「命の光を持とう」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 8:12-20 節

 昔、わたしは左のポケットに300円が入っているのに、右のポケットに入っていた30円を取り出して、300円が30円になったと大騒ぎしたことがありました。なんともなさけない体験でしたが、この体験、わたしの神さまに対するあり方と、よく似ていると思いました。わたしは神さまからいろいろな祝福を受けていながら、自分で「ない、ない」と思い込んでしまうのです。いろいろな祝福を受けていながら、それに気づかず、「なんでわしだけがこんな目にあわんといかんのや」と思ったりします。

 ファリサイ派の人々は、イエスさまに「あなたは自分勝手に自分のことを証ししている」と言いました。「あなたは『わたしは世の光だ』なんて格好のいいことをいうけれども、だれもあなたのことを保証してくれる人がいないじゃないか」というわけです。しかしイエスさまは「わたしはどこから来て、どこへ行くかを知っている」と言われ、神さまの御子としてのご自分について証しされました。私たちは神さまから多くの祝福を受けていながら、それに気づかず、「なんでわたしがこんな目にあうのだ」という思いを持って、自分を見失ってしまうこともあります。自分には重すぎる課題を抱え、悩みの中で、「どうして、神さまは・・・」との思いをもつこともあります。

 しかしイエスさまは私たちが命の光を持っていると言われます。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。私たちの救い主であるイエス・キリストは、私たちがどこから来て、どこに行くのかを知っておられる方です。私たち以上に、イエスさまは私たちのことを知っていてくださる方です。私たちの喜びも悲しみも、弱さもつらさも、私たちの生も死も、イエス・キリストは知っていてくださいます。

 イエス・キリストは世の光となって、私たちのすすむべき道を照らしてくださっています。イエスさまに導かれて歩んでいきましょう。

2020年8月30日

 2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

   「言葉以上の沈黙」 桝田翔希牧師

   ヨハネによる福音書 8:3-11節

 平安教会から洛陽教会に転任して、早くも半年が経とうとしています。皆さまはいかがお過ごしでしたでしょうか。この半年を思い返すと、新型コロナウイルスによる生活の変化は大きなものであったと思います。かくなる私も、外出を控え何かにつけて敏感な日々をすごし「ウイルスに怯える人」になっているように思います。外出自粛の中で孤独な時間も増えました。今年の4月に、「B面の岩波新書」というサイトの「パンデミックを生きる指針(藤原辰史)」という記事が話題になりました。ここではウイルスの危機だけではなく、「ウイルスに怯える人」についても言及されていました。ウイルスによる生命の危機を顕著に感じる社会にあって、過剰な言動や差別、分断が起こっています。

 ヨハネによる福音書8章では姦通の現場でとらえられた女性が、イエスを中心に多くの人がいた場所に連れてこられます。当時の考えで姦通は宗教的な罪とされていましたが、この行動はイエスを政治的に貶めるためにとられたものでした。おそらくこの場は騒然となったことでしょう。わかりやすい罪を前に、正義が暴走した風景も想像できますし、イエスを殺そうとする人たちも相当な熱気があったことでしょう。しかしイエスはしゃがみ込み沈黙でありました。そして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とだけ言われ、誰もいなくなりました。この物語でキーパーソンと言える女性は、最後の方でようやく言葉を発しています。このことは、女性が「人格」ではなくイエスを貶め入れる「道具」であり、罪を責めるための「道具」でしかなかったということではないでしょうか。

 日々新型コロナの報道を見ながら、怯える生活の中で私たちは数字の向こうに生きる「人格」にどれだけ想像力を持てているでしょうか。「ウイルスに怯える生活」は私たちから多くのものを奪っています。しばらくはこんな生活が続きそうですが、孤独な時間、沈黙の時ともいえるこの期間が、裁きの時ではなく、他人を受け入れるやさしい時であってほしいと願いたいと思います。


2020年8月26日水曜日

2020年8月23日

 2020年8月23日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

  「いまだかつてない神の御子」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 7:40-52節

 孔子は「論語」の中で、「信ナクンバ立タズ」と言っています。でもこの「信ナクンバ立タズ」という言葉は、片山智行『孔子と魯迅 中国の偉大な「教育者」』(筑摩選書)によると、「指導者が」ということよりも、「民が」ということのようです。「民、信ナクンバ立タズ」ということです。国は成り立たせているのは、信義をもっているまっとうな民である、私たち一人一人であるということを忘れないでいたいと思います。

 「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」というのは、まあずいぶんな偏見に満ちた言葉です。ファリサイ派の人々は偏見に満ちていて、正常に判断することができなくなっています。しかし世の中に「ガリラヤからは預言者は出ない」という偏見が満ちていても、でも自分で見て考えて、「いや、やっぱりこの人は預言者ではないか」と思う人がいました。ファリサイ派の人々がイエスさまを捕まえようと派遣した下役たちです。下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」と、はっきりと言うのでした。下役たちは信義をもったまっとうな民であるのです。

 イエスさまは「いまだかつてない神の御子」として、私たちの世に来てくださいました。「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」という人間の差別や偏見を超えて、ガリラヤ出身の「いまだかつてない神の御子」とし、私たちの世に来てくださいました。私たちの差別や偏見に打ち勝つ神さまの御子として、私たちの世に来てくださいました。

 高慢になったり、自分勝手な考えに取りつかれて、人を傷つけてしまうような愚かな私たちですけれども、主イエス・キリストはそうした私たちを愛してくださり、私たちを神さまの愛へと導いてくださいます。謙虚な思いになって、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2020年8月20日木曜日

2020年8月16日

 2020年8月16日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

   「神さまのみ心を行なう。」 小笠原純牧師

    ヨハネによる福音書 7:1-17節

 公民権運動の母と言われるローザ・パークスは、いろいろな脅迫を受けるなかで、神さまへの信頼こそが自分を支える力であったと言っています。世の中は神さまの御心に反して、神さまが喜ばれないような有り様をすることがあります。人を傷つけたり、人を差別することが公然と行なわれたりすることがあります。そうしたなか、「世の中は神さまの御心に反している。しかしわたしは神さまの御心に従って歩みたい」と静かに祈りつつ歩もうとする人たちが出てきます。

 「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(ヨハネ7章15節)という言葉は、現代において広がりをもってくる聖書の言葉だと思います。「聖書をよく知っている」ということは、いったいどういうことであるのかということです。ただ聖書に書かれてあること、その言葉や考え方を正確によく理解しているということなのか。

 イエスさまは「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と言われました。イエスさまは神さまの御心を行なうということが大切なのだと言われます。神さまの御心を行なうということと関係なしに、聖書をよく知っているということはあり得ないと言われます。

 神さまの御心に従って歩んでいく。素朴な思いでありますが、やはり大切なことだと思います。自分のしていることが、いったいそれは神さまが喜ばれることであるのか。いろいろなときに、私たちは立ち止まって考えてみます。

 欠けたところも多く、弱さをもつ私たちですから、高慢になったり、卑屈になったりと、神さまにふさわしい歩みでないことをしてしまいます。しかしそれでも、神さまの御心に少しでも近く歩んでいきたいと思います。神さまが喜ばれるような、やさしく誠実な歩みでありたいと思います。


2020年8月13日木曜日

2020年8月9日

 2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

  「私たちのために十字架につき」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 6:41-59節

 先日、飼ってきた金魚が調子悪くなりました。それで金魚の病気を治すお薬を買いに行きました。店で金魚の病気を治すお薬をみて、値段をみると1200円でした。「1200円か、たしか金魚600円で買ってきたんだったなあ」と思いました。・・・。「オレ、ひどいやつやなあ」と思いました。わたしが命について、極度の経済合理性を求めることについて反対であるのは、わたし自身がとても合理的な考え方をする人間だからです。そしてその合理性というのは、やはりとても危険なことであると思うので、なおさら気になるのです。

 命は神さまに属することです。命の源は神さまです。人がいのちを作り出すわけではありません。人間が軽々しく踏み込んでいってはいけないところだと、わたしは思います。そして私たちクリスチャンは、イエス・キリストによって永遠の命へと招かれていると信じています。命は神さまに属する事柄なのです。

 人は人生の中で自分の罪に出会います。良き者でありたいと思いながらも、弱さのゆえに思うように生きることができません。自分勝手になったり、自分を蔑んでみたり、人のせいにしてみたり、自分や人を傷つけることによって、自分を保とうとしたりします。自分の弱さに出会い、そしてまさに自分は「死すべき者」であることに気づきます。自分は永遠なる者ではなく、神さまによって命を与えられ、そして神さまによって生かされているものであることに気づかされます。

 神さまは私たちのところに御子イエス・キリストを送ってくださいました。私たちの罪を贖う神の小羊として、イエスさまを私たちのところに送ってくださいました。イエス・キリストの十字架によって、私たちは神さまが備えてくださる永遠のいのちへの営みへと招かれています。

 イエスさまは「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と言われました。イエスさまの招きに応えて、主イエス・キリストを信じて歩みましょう。


2020年8月5日水曜日

2020年8月2日

2020年8月2日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨
   「平和の君と共に」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 6:22-27節
 八月に入りました。8月6日に広島の原爆記念日、8月9日に長崎の原爆記念日を迎えます。八月、私たちの国ではこのとき、平和について考えるときとなっています。1945年8月15日に、私たちの国はアジア・太平洋戦争で敗戦国となりました。それからことしで75年となります。
 最近、手にした本で、庭田杏珠・渡邉英徳(「記憶の解凍」プロジェクト)『AIとカラー化した写真でよみがえる 戦前・戦争』(光文社文庫)というのがあります。白黒の写真を加工して、戦争の時代の写真をカラーの写真にしていくというものです。カラー化されるとその写真は、とても身近な出来事のような感じがしてきます。この本の庭田杏珠は、広島女学院の出身の方だそうです。若い世代の人たちの平和についてのたゆまぬ努力があることを知るときに、私たちもまたクリスチャンとして神さまの平和を求めて歩みたいと思いました。
 イエスさまは「朽ちる食べ物のためではなく、・・・、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。パンは食べたら、なくなってしまう。食べることにだけに一生懸命になってしまったのでは、やはりだめだろう。あなたたちには神さまから託された、もっと大切なことがあるはずだ。神さまはあなたたちに、永遠の命を用意してくださっている。あなたたちは、この世のパンだけでなく、永遠の命にいたる歩みを大切にしてほしい。互いにわかちあい、自分のためだけでなく、隣人のことをこころにとめて生きていく。神さまが喜ばれる生き方をしてほしい。
 パンやお金のことばかりに心を向けていると、大切なことを見失ってしまうと、イエスさまは言われます。パンやお金のことばかりに心を向けていると、命のことを忘れてしまうと、イエスさまは言われます。
 私たちの主イエス・キリストは、私たちの命の源であり、私たちに永遠の命を与えてくださる方です。朽ちるものを求める生き方ではなく、神さまが喜ばれる歩みでありたいと思います。私たちの中にある良き思いを大切にして、平和の君である、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。

2020年7月30日木曜日

2020年7月26日

2020年7月26日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

  「イエスさまが来てくださる」 小笠原純牧師
  ヨハネによる福音書 6:16-21節

 ことさら差別している気がなくても、社会システムが差別を下支えしているようなこともあります。映画の撮影などのときに、照明が使われますが、こうした照明は、白人を基準に合わせられることが多いそうです。白人の俳優を基準に照明が当てられると、アジア系の俳優はくすんで見えるそうです。
 イエスさまの弟子たちは、自分たちだけで舟にのり、ガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムに出かけます。しかしそのとき強い風が吹いて、湖が荒れ始めました。弟子たちが不安になったとき、イエスさまが湖の上を歩いて、弟子たちのところにきてくださいました。
 弟子たちと同じように、私たちもいろいろな不安にかられることがあります。私たちはまじめなところがありますから、自分の力で何とかなるのではないかと思って、一生懸命に頑張ります。しかし自分の力では何ともならないような出来事に出会い、やっぱり不安になることがあります。
 不安な私たちに光を当ててくださり、見守ってくださっているイエスさまがおられます。まさにイエスさまは「わたし」のところに来てくださるのです。わたしが救いを求めて、「イエスさま、きてください」と祈るとき、イエスさまはわたしのところにきてくださるのです。映画撮影の照明とは違って、イエスさまの救いの光は、わたしに当てられているのです。
 新型コロナウイルスの感染の拡大は、世界中でなかなかおさまる気配がありません。大国と言われる国は、このときにも自分の国の勝手で支配力を強めようとしていたり、世界のいろいろなところで暴力的な差別事件が起こったりします。
 しかし、イエス・キリストは私たちに言われます。「わたしだ。恐れることはない」。私たちはこの言葉を信じて歩みたいと思います。イエスさまは必ず、私たちのところにきてくださり、不安な私たちに御手をのべてくださり、私たちを守ってくださいます。

2020年7月22日水曜日

2020年7月19日

2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
  「自分のためでなく」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 5:19-36節
 「何の保証もない」ということは、不安なことです。ですから世の中の人々は、保証を求めます。しるしを求めていけば、結局、さらなる保証が、さらなるしるしがほしくなります。もっともっと大きな保証が、もっともっと大きなしるしがほしくなります。そして不安が大きくなります。
 私たちは「神さまが私たちのために何をしてくださるのか」ということを問うことが多いですが、イエスさまは私たちに「あなたは何かしてもらうために生きているのか」と問うておられます。
 イエスさまは自分の誉れを求めようとはされませんでした。イエスさまは自分の栄光のためではなく、神さまの栄光のために歩まれました。イエスさまは自分の栄光のためではなく、私たちの罪をあがなってくださるために歩まれました。
 私たちは不安なとき、さみしいとき、「あの人はわたしに・・・をしてくれなかった」ということが気になります。私たちが「あの人はわたしに・・・をしてくれなかった」という思いをもち続けているとき、私たちの心は平安ではありません。傲慢な意味ではなくて、「あの人の力になってあげることができた」という思いをもつときに、私たちの心は平安です。
 自分のためではなく、神さまのために、そして私たちのために歩まれたイエスさまが、「わたしに着いてきなさい。永遠の命を与えるから」と、私たちを招いてくださっています。
 私たちはさまざまな不安を抱えて歩んでいます。しるしを求めたり、保証を求めたり、「・・・してくれたら」との思いをもつことも多いです。不安なときはなおさらのことです。しかしイエスさまは私たちのために、永遠の命を与えてくださり、神さまは私たちを御手のうちに置いていてくださっています。私たちは自分のために生きているのではありません。神さまのあわれみのうちに生かされているのです。神さまの大きな祝福のなかにあることを信じて歩んでいきましょう。

2020年7月15日水曜日

2020年7月12日

2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨
  「ただ信じて生きていく」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 4:43-54節
 音楽美学、ポピュラー音楽の研究をしている増田聡(大阪市立大学)さんは、ツイッターでこうつぶやいていました。【あいみょんを通して聞いてますが、今一番売れてる女性歌手が「モテない私」を基盤に若い人たちに支持されるのは面白いというか文化的デフレが定着した時代だなあと感じる。椎名林檎も宇多田ヒカルもaikoも20世期末に出た人はまだ「付き合ってる状態から開始」が歌詞の前提でなければならなかったのです】。
 悩んだり、自分のことが嫌だと思えたり、また人を羨んでみたりと、そうしたあまり人から見られたくないような姿であったとしても、そうした姿をバカにしたりさげすんだりすることなく、いとしいと思えるというのは、とてもすてきなことだと思います。
 役人はイエスさまに息子をいやしていただくことをお願いします。イエスさまは「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言われ、役人はその言葉を信じて帰っていきます。そしてその帰り道に、僕から息子がいやされたことを知らされました。
 イエスさまは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われました。人は何かすごいこと、なにかすごい人に心が奪われてしまうということがあります。政治家が「やってる感が大切なんだよ」というのも、よくわかる気がします。しかしイエスさまはそうしたことはなさいませんでした。そうしたことは、本質的なことではないからです。役人の息子さんをいやされるということのなかでは、本質的なことは「あなたの息子は生きる」ということです。イエスさまは役人に、真実の言葉にこころを傾けて、「ただわたしを信じなさい」と言われました。
 私たちをとりまく騒がしいいろいろな出来事の中で、私たちは右往左往させられるということがあります。しかし私たちは私たちに命を与え、私たちを生かしてくださっている方に、心を向けて歩んでいきたいと思います。イエス・キリストは私たちと共にいてくださり、私たちを永遠の命を与えてくださいます。

2020年7月5日

2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨
  「感謝をもって生きていく」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 4:27-42節
 私たちにはいまいろいろな自由が保証されています。そうしたことは先人たちによって戦いとられたものです。今日の聖書の言葉にありますように、「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」世の中に私たちは生きているということです。
 弟子たちは「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」と言っている、しかし実際は「色づいて刈り入れを待っている」状態だと、イエスさまは言われます。世の中には救いを必要とする人たちがたくさんいて、救われるのを待っている。神さまのみ旨に従い、神さまの御心に従い、神さまの救いの業を行なうということは、それは一人で行なうことではなく、バトンを渡しているようなことなのだと、イエスさまは言われます。「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」「別の人が種を蒔き、そして別の人が刈り入れる」。
 私たちは「自分で」生きているということの大切さと、「おかげで」生きているということの大切さを、忘れないで生きていかなければなりません。私たちは神さまの前に立つときに、やはり一人で立ちます。しかし一方で、私たちはいろいろな人の「おかげで」生きているのです。私たちはつながりの中で生きています。
 私たちは感謝をもって生きていくということを大切にしたいと思います。神さまが私たちに豊かな恵みを備えてくださいます。サマリアの人々が、サマリアの女性を通して、イエスさまのことを知ることができたように、人はいろいろな形で、人のお世話になります。神さまが人を通して備えてくださる恵みを、感謝をもって受けとめたいと思います。
 そしてまた私たちも自分たちのできることで、良き働きを行ないたいと思います。それは小さな小さな働きであるかも知れません。しかし神さまが私たちに「なせ」と言って備えてくださっているわざを誠実に行なっていく者でありたいと思います。私たちはイエスさまを中心とした豊かな交わりへと招かれています。神さまから豊かな恵みに感謝しつつ、互いに尊敬しあい、助け合うことできますようにとの祈りをもちつつ歩んできましょう。

2020年7月1日水曜日

2020年6月28日

2020年6月28日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨
  「霊と真理をもって礼拝する」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 4:5-26節
 小さな時はいまひとつわからなかったような微妙なことというのが、大きくなってからすこし理解できるようになるということがあります。人はそれぞれにいろいろな悩みをもっていて、それは端からではわからないということがあります。サマリアの女性も、また悩みを抱えた女性でした。
 サマリアの女性は周りの人々から「あれ、あれ、あの人よ」というような目で見られていました。そのことをよく知っていましたし、「フン!、なによ。わるい」という気持ちももっていました。
 サマリアの女性は、イエスさまに対して初めはひねたようないい加減な対応をしていました。しかしイエスさまの言葉を聞きながら、だんだんと自分が本当に望んでいることを、イエスさまに問うようになってきます。サマリアの女性が気になっていたことは、じつは自分と神さまとの関係でした。
 イエスさまは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と言われました。「まことの礼拝」というのはどんな礼拝なのでしょうか。第一に、このサマリアの女性が参加できる礼拝ということです。水をくみにくるのも人を避けて正午ころにやってくる女性が参加できる礼拝ということです。救いを求める人ならだれでも来ることができる礼拝ということです。そしてまた救いを求めてやってくる人は、真剣な思いをもってこころから礼拝するということです。いいかげんな気持ではなくて、素直な気持ちになって、神さまの前に立つということです。そして素直に神さまに救いを求めるということです。
 私たちも「霊と真理をもって」神さまを礼拝したいと思います。それは形式的ではなく、心から感謝をもって礼拝するということです。神さまは私たちが心から礼拝するのを豊かに祝福してくださいます。
 イエスさまは「わたしを信じなさい」と言われました。このことからすべてのことが始まります。イエスさまの招きに応えて、救いの道への歩みを確かなものといたしましょう。

2020年6月21日

2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨
 「イエスさまを信じて、永遠の命を得る」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 3:22-36節
 ミュージシャンの竹内まりやは「幸せのものさし」という歌の中で、「隣の芝生が青く思えたら、この庭に花を植えればいい」と歌っています。「ああ、そうなんや」と思えますが、それでも隣の芝生が青くみえるのが気になるもので、やはり人と比べてしまうということがあるわけです。
 バプテスマのヨハネは、「自分はメシアではない」と言いました。自分は救い主ではない。それは自分の仕事ではない。人は神さまから与えられた役割を、感謝をもって行なっていく。救い主がこの世に来られるのであれば、それはとても嬉しいことであり、そして自分と比べられているイエスという人が、救い主であるのであれば、それはとてもうれしいことだ。わたしは花婿を迎える介添人のように、花婿のそばに立って、みんなと一緒に花婿が来たことを喜ぶだろう。わたしと比べられているイエスという人、あの人は特別な人である。そしてあの人は栄え、わたしは衰えなければならない。
 自分は役割を終え、自分は衰えていく。世間的に見ればそのことはさみしいことに思えるだろうし、「惨めだ」というふうに自分のことを見る人もいるかも知れない。しかしそうした人からの評価というのは、どうでも良いことだ。大切なのは、神さまが何をなさるのかということだと、バプテスマのヨハネは言います。
 神さまが何をなさるのかということが大切なことであり、神さまのご計画が進んでいくのだ。人からどのように評価を受けるのかということには、わたしはそんなに関心がない。神さまのみ旨に従って、私たちの世に来てくださった御子を信じて歩んでいく。イエス・キリストこそ、神の御子である。
 私たちにとって大切なことは、神さまが私たちを愛してくださっているということです。人の評価ではありません。私たちはイエス・キリストを信じて、そして永遠の命を受け継ぐ者として、神さまによって招かれている。神さまの大きな祝福のうちに歩んでいることに感謝して、安心して歩んでいきましょう。

2020年6月17日水曜日

2020年6月14日

2020年6月14日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨
   「新しく生まれる」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 3:1-15節
 わたしが大学生をしていたときは、上野千鶴子などのフェミニストが活躍をしていた時代でしたので、聖書の読み方などについても、とても大きな影響を受けました。ちょっとおおげさな言い方になりますが、今日の聖書の言葉のように、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」というような感じのことであったような気がします。
 イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。そして「わたしを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる」と言われました。わたしを信じて、新しく生きるのか。それともいままでと同じように生きるのか。永遠の命を得るために、わたしのところにきて、新しく生きよう。そのようにイエスさまは言われました。
 イエスさまは根本的なことを問われたのに対して、ニコデモは小手先で信じようとしました。ニコデモはイエスさまのことを神さまのもとから来られた教師であることを知っていました。しかしニコデモは「夜」、イエスさまを訪ねてきました。半分はいままでの世の中に身を置いて、そして半分はイエスさまを信じてと言うように、ニコデモは小手先でイエスさまを信じようとしました。
 イエスさまが言われる「新しく生まれる」ということは、自分の力によって生きる生き方から、神さまにより頼む新しい生き方をするということです。人はうまくいっていると、あたかも自分の力で生きているかのように思ってしまうことがあります。わたしはこれだけ努力しているのだからうまくいって当然だ。わたしはわたしの力で生きている。しかしじっさい多くの大切なものは、神さまから与えられたものであったり、先人のつくってくれた社会的な保護であったりします。
 神さまが私たちに命を与えてくださり、私たちは生きているのだ。だから私たちはわかちあい助け合う、神さまが望まれる生き方をしたいと思う。イエスさまはそのように言われました。私たちは謙虚な思いになって、神さまにより頼む生き方をしたいと思います。神さまが私たちを愛してくださり、私たちを神さまの民として祝福してくださっています。神さまの愛のうちを、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。

2020年6月7日

2020年6月7日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨
   「聖霊に守られて」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 14:8-17節
 ソニーの創業者の井深大は、日本基督教団富士見町教会で洗礼を受けたクリスチャンです。学生のときは早稲田大学の近くの友愛学舎というYMCAの寮に住んでいました。「たとえその人員はわずかで、その施設は乏しくとも、その運営はいかに楽しきものであり、その成果はいかに大であるかを考え、この理想を実現できる構想を種々心の中に描いてきた」(『東京通信工業設立趣意書』井深大起草)というのは、なんとなく教会的だなあと思います。
 「身の回りの人間的なちいさな問題を、自らの責任において引き受けることだけが、この苦境を乗り越える第一歩となる」という「小商いのすすめ」(平川克美)は、クリスチャンの歩みに似ています。「こつこつと福音の種を蒔き続ける」「自分のできる良いことを誠実に行っていく」。クリスチャンは「小さな良き業に励む」ということに尽きると、わたしは思っています。
 ペンテコステ、弟子たちに聖霊が降り、神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝え始めました。聖霊は私たちにも降り、私たちは聖霊に満たされて歩みます。聖霊に満たされるというのは、神さまが私たちの内におられるということです。よく考えてみると、それはなんともうれしいことです。神さまが私たちの内におられるのです。
 神さまが私たちの内におられるということは、神さまが人間を創造されたときに、もうすでに神さまがご計画なさっています。創世記2章7ー8節にはこうあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人は神さまの息が宿ることによって生きる者となりました。まさに神の息である聖霊が宿ることによって、人は生きる者となったのです。
 聖霊に守られて、小さな良き業に励みましょう。神さまは私たちを豊かに祝福し、私たちに必要なものを備えてくださり、私たちを神の民として用いてくださいます。

2020年6月10日水曜日

2020年5月31日

2020年5月31日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨
   「私たちをつないでくださる聖霊」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 14:15-27節
 ペンテコステ、おめでとうございます。弟子たちが聖霊にみたされて、神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝え始め、教会がたてられるようになります。ですからペンテコステは教会の誕生日と言われます。私たちクリスチャンは聖霊に導かれて、聖霊の御守りのうちに歩んでいます。聖霊が私たちをつないでくださり、私たちの交わりを聖なるものとしてくださっています。
 「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。そのようにイエスさまから言われると、とてもうれしいし、イエスさまが言われるようなことだったら、とってもいいよなあと思えます。でも一方で、自分のことはよく知っているわけで、そんなりっぱな人間でもないわたしが、そんな大きな恵みのうちに入れられていて良いのだろうかと思います。そんなに世の人と違うようにも思えないわたしなのに。
 そのような心配をする私たちに、イエスさまは「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われました。あなたは曲がりになりにも、わたしの言葉を守ろうとして生きているではないか。
 私たちは心の弱い者ですから、イエスさまの御言葉を聞きながらも、すこしすると忘れてしまって、自分勝手な思いで生きていたりします。しかしそんな私たちにイエスさまは「大丈夫、あなたたちに聖霊が働くから」と言われます。【聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる】。あなたたちは聖霊によって、また思い直して、わたしの言葉を守って生きる力が与えられる。安心して歩みなさい。聖霊の導きによって、平和が与えられ、平安な気持ちになって、あなたたちは恐れず、歩んでいくことができる。
 「心を騒がせるな。おびえるな」と、イエスさまは言われます。弱い私たちですけれども、聖霊の力を信じて歩んでいきましょう。

2020年6月4日木曜日

2020年5月24日

2020年5月24日 復活節第7主日礼拝説教要旨
  「わたしの渇きをいやしてくださる方がおられる」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 7:32-39節
 新型感染症のためマスクをしている人が多いと思います。これからの季節、熱中症にも気をつけなければなりません。熱中症は自分が気づかないうちに、熱中症の状態になってしまいます。熱中症は、渇いていることに自分が気づかないのです。「渇いているのに気づかない」というのは、熱中症の場合だけでなく、人は自分の心の渇きということについても、なかなか気がつかないということがあります。
 ファリサイ派の人々や律法学者たち、ユダヤ人たちは、自分たちが渇いているということに気が付きませんでした。イエスさまから「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない」と言われ、そして彼ら自身も「イエスは遠くに逃げていくのか」というようなことを言っています。しかし同時に、彼らは「その言葉の意味はどういう意味なのか」と、イエスさまの言われた言葉が、すこし気になるということを言っています。ちょっと気になるのです。イエスさまの言葉を拒否しているにも関わらず、しかし彼らもまたイエスさまの言葉が気になるのです。それは彼ら自身が「渇いている」からでした。
 イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。イエスさまは「だれでも」と言われます。あなたはファリサイ派の人だからだめだとは言われない。あなたは律法学者だからだめだと言われない。もしあなたがた「わたしは渇いている」と気づいたのなら、「だれでも」わたしのところに来て飲みなさいと、イエスさまは言われました。「あなたの内から生きた水が川となって流れ出るような世界があるのだけれど、あなたはその世界に来ないか」。「あなた自身もあなたの周りの人々もみんな渇くことがない。あなた自身が神さまの良き泉となって、人々の渇きをいやすことができる。わたしのところに来て、永遠の命へ至る水を飲まないか」。イエスさまはそう言って、私たちを招いておられます。
 わたしの渇きをいやしてくださる方がおられます。イエスさまの招きに応えて、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。

2020年5月14日木曜日

2020年5月10日

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝説教要旨
  「イエスさまを証し、イエスさまに従う。」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 15:18-27節
 NHKの朝の連続テレビ小説「エール」の主人公のモデルになっている、古関裕而についての本を読みました。辻田真佐憲「古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家」です。古関裕而は関西では、「六甲颪」で有名な作曲家です。古関裕而はたくさんの軍歌をつくったために、戦後、「それはあまりいいことではなかったのではないか」ということが言われています。古関裕而がその時代の雰囲気に流されてしまって、なんとなく戦争に協力をしていくというのは、なかなか考えさせられます。
 なんとなく世の中の流れに流されていくと、よくない方向へと向かっていくということがあります。私たちクリスチャンは戦争中に迫害をされたという歴史をもちます。また迫害をされるのが恐ろしくて、戦争に積極的に協力をしていったという歴史もあります。
 初期のクリスチャンたちは、イエスさまのことを、神さまのことを宣べ伝える時に、人々から迫害を受けるということがありました。ローマ帝国という国家から大迫害を受けるということもありましたし、またイエスさまを信じているということで、日常生活においても嫌がらせを受けるというようなことがありました。そうしたなか、初期のクリスチャンたちは、世の中が神さまのみ旨から離れているということを世の人々に伝えていきました。
 イエスさまは【あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである】と言われました。イエスさまはあなたたちが世の人々から迫害される理由ははっきりしていると言われました。それはあなたたちが世に属しているのではなく、わたしに属しているからだ。
 私たちは主の祈りのなかで、「御国が来ますように」と祈ります。神さまの国が来ますように。神さまがのぞまれる世の中に、私たちの世の中も近づいていってほしい。神さまが望まれるような世の中になりますようにとの祈りをもちつつ、私たちはイエスさまのことを信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。

2020年5月7日木曜日

2020年5月3日

2020年5月3日 復活節第4主日礼拝説教要旨
   「神さまがわたしを用いられる」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 21:15-25節
 そのときはとても良いことであったとしても、あとから考えると、ちょっとあまり良いことではなかったかもしれないというようなことも起こってきます。私たちはこうしたことを、「人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄の如し」「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」と言ったりします。そして「しかしまあ、人生、沈んだり、もぐったり、沈んだり、もぐったりやな」「それ、ずっと沈んで行ってます」というような冗談を言いながら、慰めあって私たちは生きていきます。
 ペトロはイエスさまから三度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われています。それはペトロが三度、「イエスを知らない」と言ったからでした。一度目も、二度目も、三度目も、ほぼペトロの答えは同じです。何もかもご存じの方がおられる。わたしの弱さを、わたしのなさけなさを知っていてくださる方がおられる。そしてそのうえで、わたしを赦し、わたしを救ってくださる方がおられる。その方にわたしはすべてをお委ねする。そういう意味で、ペトロは「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と応えます。
 「うまくいかない」「思うようにならない」「なんかだめだ」と思っているあなたを用いてくださる神さまがおられると、聖書は私たちに告げています。聖書は、【ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである】と記しています。ペトロも、自分の天への召され方が、神さまの栄光を現すことになるとは思っていなかっただろうと思います。
 周りの人を見回すと、りっぱな働きをしているから、神さまに愛されて、もしかしたら神さまから特別に愛されているので、あの人は死なないのではないかと思えるときがあります。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。そんな感じで、自分は取るに足らないつまらない者であるように思えるときがあります。しかし、イエスさまは言われます。「あなたの生涯は祝福されている」「あなたの生涯は、神さまの栄光を現すものである」。
 私たちは、一喜一憂するのではなく、淡々と、神さまの大きな祝福のうちにあることに感謝をして歩んでいきたいと思います。神さまが私たちを神さまの御用のために用いてくださいます。神さまの大きな御手のうちにあることを信じて、感謝をしつつ歩んでいきましょう。

2020年5月2日土曜日

2020年4月26日

2020年4月26日 復活節第3主日礼拝説教要旨
   「恥かしがらずに生きる」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 21:1-14節
 その場にふさわしい服装というのがあると言われます。今日の聖書の箇所は「上着をまとって湖に飛び込んだ男の人」のことが語り継がれています。上着を着て湖に飛び込むわけですから、あんまりふさわしい服装ということでもないようです。
 シモン・ペトロが服を着たまま湖の中に飛込んだのは、イエスさまと出会ったからでした。ペトロは裸であったのをわざわざ、上着を着て、湖の中に飛込んだのでした。やはりイエスさまのところにいくのに、裸でいくわけにはいかないと考えたからです。ここにペトロのイエスさまに対する敬虔な気持ちが、よく現われているのです。
 ペトロのそうしたイエスさまに対する敬虔な気持ちというのは、とても大切な気持ちだと思います。そうしたイエスさまに対する敬虔さを忘れたところでは、私たちは自分が傲慢になってくるからです。でもペトロはやはり裸でイエスさまのところにかけつけてもよかったのではないかという気がします。
 ペトロたちは湖からあがって、イエスさまと食事をします。弟子たちはイエスさまから「子たちよ、何か食べるものがあるか」と言われています。イエスさまの気遣いに対して、弟子たちは素直に「ありません」と答えています。自分たちに力がなかった、努力したけどできなかったということを素直に認めています。聖書は「イエスさまに対してへんな遠慮や痩せ我慢をするな」と教えてくれています。自分たちでできなかったら、「一生懸命やったけれども、やっぱりできなかった」と、はっきり言えばいいと教えてくれています。
 ですから、ペトロは裸でイエスのところにかけつけてもよかったのです。私たちも、私たちの中にあるいろいろな弱さや恥かしさをみんなもって、イエスのところに集まってくればいいのです。私たちはこんなことは「恥かしい」というふうに思い、無理をして生きるのではなく、イエスさまにすべてを委ねて、恥かしがらないで生きてゆけばいいのです。
 私たちのことをすべて受けとめて、私たちを愛してくださる方がおられます。弱い私たちを招き、私たちを導いてくださる方がおられます。私たちはイエスさまにすべてのことをしっかりとお委ねし、希望を持って歩んでいきましょう。

2020年4月24日金曜日

2020年4月19日

2020 年 4 月 19 日 復活節第2主日礼拝説教要旨
「赦赦力」 小笠原純牧師 ヨハネによる福音書 20:19-31 節

 「あの人だけは赦せない」というような話を聞かされることがあります。「わたし はあいつにこんなひどい目にあわされた」「ぜったいにあいつのことは赦せない」と 言うので、「それっていつのことか」とたずねると、学生時代の話であったりするこ とがあります。もう35年前の話であるのに、昨日、起こった出来事のように話さ れるのを聞いていると、「ああ、やっぱり人を赦すというのはむつかしいものだな あ」と思ったりします。  「わたしが、わたしが」という思いが強くなっているとき、私たちは「自分が神 さまから赦されている」という大切なことを忘れがちになります。今日の聖書の箇 所であります、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は 赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とい うことは、とても大切な聖書の言葉です。この言葉は、わたしはキリスト教の根幹 にかかわる言葉だと思います。
 「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。神さまは人 の罪を赦されるのです。しかしそれにもかかわらず、わたしたちが人の罪を赦さな いならば、赦されないまま残るのです。罪が残るのは、だれのせいかというと、赦 さないわたしのせいなのです。わたしのせいで罪がこの世に残るのです。なんとも 責任の重い話であり、まさに私たちに「あなたは人を赦すことができるか」と問わ れているのです。
  老人力とか女子力とか、「力」のつくはやりの言葉というものがありますが、よみ がえられたイエスさまが弟子たちに望まれたのは、「赦赦力」ということでした。弟 子たちはお互いに赦しあわなければならなかったのです。お互いに赦しあうことな しには、一緒に進んでいくことができなかったのです。イエスさまは弟子たちに、 赦しあう力を与えると言われました。
 わたしは神さまから人を赦す力が与えられているということに、とても励まされ ます。人を恨んだり、人を赦すことができないと思うことがありますが、しかし神 さまは私たちに人を赦す力を与えてくださっているのです。荒ぶる心を静めて、祈 りたいと思います。あの人とわたしの間に、イエスさまが立って、和解へと導いて くださいますように。どうか互いに赦しあい、新しい歩みをすることができますよ うに。神さまに罪赦されて生かされていることに感謝して歩んでいきましょう。

2020年4月18日土曜日

2020年4月12日

2020年4月12日 主日礼拝説教要旨
  「永遠の命を生きる」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書28章1-10節

 イースターおめでとうございます。主イエス・キリストの復活を、こころからお祝いいたします。
 歌人の林あまりさんは『わたしにとって「復活」とは』(日本キリスト教団出版局)という本の中で、つぎのような復活についての短歌を詠んでおられます。 「おはよう」と のんびり明るい声がする 道の向こうで待っているひと
 なんだろう このいい香り 先生のほほえみのたびに、まばたきのたびに  もう死など死ではなくなり いつだってあなたはわたしと共におられる  復活のイエスさまに出合い、私たちはすべての恐れから解き放たれて、私たちはイエスさまと共におられる幸いをこころから感じられることができます。「私たちには希望が与えられている」。世の中にはいろいろな不安や恐れが満ちあふれているけれども、私たちには復活されたイエスさまが共にいてくださり、私たちには永遠の命の希望が与えられている。イースターは私たちにとって、私たちの根底を支える希望の出来事です。
 それぞれの福音書において記されているイエスさまの復活の出来事は、若干の違いがありますし、またそれぞれに味わいがあります。復活については聖書にいろいろと書かれてありますから、いろいろと言うことができるわけです。これはどうだろう。あれはどうだろう。このことはどう説明すればいいだろう。このことについて聖書はどのように書いてあるだろうか。このことは信じられるか、あのことは信じられるか。取り上げると、いろいろと言うことはたくさんあります。ただそうしたものは次第に消え去っていきます。そして本質的な問いが、私たちの前に立ち上がってくるのです。【「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」】。  私たちはみなこの世において死を迎えます。しかしイエス・キリストは復活であり、命です。私たちはイエス・キリストを信じることによって、私たちはイエス・キリストに連なることによって、永遠の命を生きるのです。イエスさまは「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。私たちはみな永遠なるものへと招かれています。  イースター、よみがえられたイエスさまと共に、こころ平安に歩みましょう。イエスさまは私たちのすべての恐れを取り除いてくださり、私たちに希望を与えてくださいます。


2020年4月6日月曜日

2020年4月5日

2020年4月5日 主日礼拝説教要旨
  「イエスさまはろばの子に乗って」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書12章12-16節
 こころがぎすぎすとしているなあと思えるようなとき、わたしはお気に入りの映画のDVDを見て、こころを整えることにしています。こころ休まるお気に入りの映画というのが、いくつかわたしにはありますが、よく見るのが、中山美穂主演、岩井俊二監督の「Love Letter」という映画です。この「Love Letter」という映画は、亡くなった人の思い出が語られていくという点で、聖書の福音書に似ています。聖書の福音書も、イエス・キリストという亡くなった人について書かれた書物であるからです。そして福音書には、イエス・キリストの良き思い出が記されています。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが天に帰られたあと、イエスさまとの良き思い出を思い起こしながら、イエスさまの歩みを人々に伝えていきました。その良き思い出の一つが、棕櫚の主日、イエスさまがエルサレムにやってこられたときの思い出です。
 棕櫚の主日の出来事は、ただ十字架への道を思わせる悲しみの出来事であるのかというと、それだけはないような気がします。大勢の群衆が、イエスさまがエルサレムに来られるのを聞いて、なつめやしの枝をもって迎えました。そしてみんな「ホサナ、ホサナ。私たちを救ってください」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言いつつ、迎えます。もちろん移ろいやすい人々であり、支配者によってだまされたり、弱さを抱える人々であることを、イエスさまは知っておられただろうと思います。しかしそうした人々を裁かれるのではなく、イエスさまは愛をもって、人々を受け入れられました。そしてその証しとして、イエスさまは軍馬に乗るのではなく、ろばの子に乗って、エルサレムにやって来られたのです。そしてそのことによって、どんなときも神さまの愛の中にあることを、イエスさまは私たちに教えてくださいました。
 イエスさまはどんなに愚かな私たちであったとしても、私たちを赦し、私たちの代わりに、私たちの罪のために十字架についてくださいます。そしてその証しとして、イエスさまはろばの子に乗って、エルサレムにやって来られました。軍馬に乗って、私たちを裁くために来られたのではなく、ろばの子に乗って、私たちを暖く迎えてくださるためにきてくださいました。  イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちを神さまの愛のうちに招いてくださっています。私たちは生涯、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と誉めたたえつつ、歩んで行きましょう。

2020年4月4日土曜日

2020年3月29日

2020年3月29日 受難節第5主日礼拝説教要旨
「川の流れのように」 桝田翔希伝道師
マルコによる福音書4:26~32節
 3年間の任期が終わり転任することとなりました。この間、多くの方々に助けていただき感謝しています。本当に楽しい3年間でした。この日にあって神の国が説明されている「『からし種』のたとえ」とされる箇所を選ばせていただきました。旧約聖書の中で神の国を連想させる「鳥が巣をつくる」豊かな木のイメージがあり、それらは樹高が30メートル以上にもなる立派な「レバノン杉」を通して描かれています。しかしイエスは、そのような樹木ではなく、そこらへんに生えていて、しかし普段の生活を養ってくれる、「からし種の木」を神の国のイメージとして用いられました。人間の思いや理想を越えた場所にある神の国の姿を、挑戦的に提示しているのかもしれません(山口里子、2017年)。
 1911年に創立35年を覚えてラーネッド先生が平安教会に書いた手紙が教会に残されています。平安教会は第三公会として1876年に結成されましたが、この二週間前には、宣教師のラーネッド宅にて第一公会が結成されています。後に第一公会は合併となり平安教会が形成されました。手紙の中には同じく宣教師であるディビス先生が、エゼキエル書の47章に基づき説教をしたことが記されています。エゼキエルがエルサレムの神殿から水が湧き出て、東に流れる幻を見ています。その水は死海の水でさえきれいにして、生き物にあふれさせました。ラーネッド先生は「当時は本当に小さな教会でした。エゼキエルが見た幻のように、川の始まりのようなものでした。しかし、わたしは豊かさの中にある教会を見ることができ、感謝でいっぱいです。」と書いておられました。キリスト教禁制が解かれて間もない京都での伝道は困難を極め、時にはうっとうしがられ、辛く、不安で仕方なかったと思います。しかし、20人から始まった第三公会は川の流れのように大きくなっていったのです。
 私たちは社会で生きる中で、どうしても物質的な豊かさを求めてしまいます。しかし今日の状況は人を人とは思わないものへと変わっています。しかし、そのような常識を超えたところにある「神の国」をイエスは語りました。私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。川のほとりに植えられた、からし種の木のようでありたいと思うのです。そして、長い歴史の中で様々な困難の中にあっても、京都の地にあって、多くの鳥が集うように、豊かに人が交わる平安教会の歩みが、これからもますます祝福されますように祈ります。

2020年3月25日水曜日

2020年3月22日

2020年3月22日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「良い香りが満ちた教会」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書12章1-8節

 ヨハネによる福音書では、ラザロの姉妹のマリアが、イエスさまの葬りの備えとして、ナルドの香油を用いたという話になっています。マリアは大切な兄弟であるラザロを生き返らせてくれた感謝の気持ちを表すために、特別にイエスさまの足に高価なナルドの香油を注ぎ、そして自分の髪でイエスさまの足をぬぐったのでした。
 そうすると「家は香油の香りでいっぱいになった」と聖書には記されてあります。イエスさまに特別な仕方で感謝をささげる女性がいて、そして部屋中がナルドの香油の良い香りで満たされている。とっても幸せな気持ちに、みんながなったことだと思います しかしその幸せな感じをぶち壊すことを言う人が出てきたわけです。それはイスカリオテのユダでした。
 わたしは合理的に考えることがどちらかと言えば好きですので、この「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉に引き寄せられてしまいます。合理的な判断ということから考えると、ひとりの人の足に300万円のナルドの香油を注ぐよりも、まあ貧しい人々のために300万円使ってもらうことの方が良いような気がします。ただイエスさまは言われます。「この人のするままにさせておきなさい」。イエスさまは合理的な判断を大切にされたのではなく、マリアのこころからの感謝の気持ちを大切にされました。わたしはこのナルドの香油の物語をよむときに、合理的だけど・愛のない自分がいることに気づかされます。
 「あのときマリアがナルドの香油を、イエスさまの足にかけてあげて、葬りの備えをしてあげてよかったよね。ほんと良かったと思う」。「イエスさまの十字架のときは、十分なことがしてあげられなかったもんね」。「あのとき部屋のなかにナルドの香油の香りがいっぱいになって、みんなとっても幸せな気持ちになったよね」。多くの人々がそういう気持ちを持っていたからこそ、このナルドの香油の物語は、2000年たっても色あせることのない素敵な出来事として語り伝えられているのです。
 私たちの教会はナルドの香油の香りがいっぱいになった家のように、良きイエスさまの香りのする教会でありたいと思います。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という叱責が響き渡る教会ではなく、イエスさまの良き香りのする教会でありたいと思います。そしてイエスさまの良き香りに導かれて、イエスさまが大切にされた歩みを、私たちも歩んでいく、そうした私たちの歩みでありたいと思います。

2020年3月24日火曜日

2020年3月15日

2020年3月15日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「みんなが去っても、わたしは去らない」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 6:60~71節
 ヨハネによる福音書が書かれた時代は、ユダヤ教との決別という、クリスチャンとしてとてもはっきりとした決断をしなければならない時代でした。しかしユダヤ教から独立するということは、なかなかむつかしい問題がありました。ユダヤ教はローマ帝国のなかで、活動することのできる宗教と認められていました。ですからキリスト教がユダヤ教の一派であるのであれば、キリスト教は自由に活動することができるわけです。しかしユダヤ教から独立すると、ローマ帝国から認められていない宗教ということになるので、活動することが非常に困難になるのです。ですからキリスト教の中でもユダヤ教に留まる人たちと、ユダヤ教から独立する人たちに分かれるという困った出来事が起こりました。そうした事情がこの箇所には反映されています。
 使徒ペトロたちは多くの弟子たちがイエスさまから離れ去ったときに、「みんなが去っても、わたしは去らない」と言ったのです。しかしイスカリオテのユダだけでなく、他の十二弟子たちも結局、イエスさまから去っていくことになりました。
 「『みんなが去っても、わたしは去らない』とおまえはりっぱなことを言っていたではないか。あれは嘘だったのか。みんなの前で格好のいいことを言っていただけなのか。おまえは友人を大声で裁いていたではないか。『おまえは去っていくのか。わたしは去らない』と」。以前、私たち自身がそうであったように、人は冷酷で容赦のない言葉を言い捨てて去っていくのです。
 しかしそのときに、私たちは「みんなが去っても、わたしは去らない」とのイエスさまの御言葉を聞くのです。そうした惨めで弱く、また冷酷で容赦ない私たちのために、イエス・キリストは十字架についてくださったのです。私たちの罪をあがなってくださったのです。そして「みんなが去っても、わたしは去らない」と、私たちに慰めを与え、私たちの隣人となってくださるのです。イエスさまは私たちと共にいてくださいます。「みんなが去っても、わたしは去らない」。わたしは決してあなたを見捨てることはない。だから安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。
 イエス・キリストは私たちと共に歩んでくださいます。イエスさまは復活されたあと、去っていった弟子たちをまた呼び集めてくださいました。私たちは傷つけあったり、去っていったりする弱さをもつ者ですけれども、イエスさまはそんな弱い私たちをまた呼び集めてくださいます。私たちが共に和解し、手をとって歩み始めることができるようにと、私たちを呼び集めてくださいます。イエス・キリストと共にまた歩み始めましょう。

2020年3月17日火曜日

2020年3月8日

2020年3月8日 受難節第2主日礼拝説教要旨
   「過去に目を閉ざす」 桝田翔希伝道師
     ヨハネによる福音書 9:13~41節
 ヨハネによる福音書9章では、生まれつき目が見えなかった男性がイエスによって見えるようになるという奇跡物語が描かれています。私たちは、奇跡物語を読むとどうしても「どのように奇跡が起こったのか」という瞬間的な事に注目してしまいがちかもしれません。しかし41節にわたり書かれているこの物語の背後には、奇跡だけでは終わらない神の働きが描かれています。物語の初めで、弟子たちは目の見えない人を見て、「見えないのは、この人が罪のせいなのか、それとも親の罪のせいか」とイエスに尋ねます。即ち、病の原因を気にしています。罪のせいで病が現れるという因果応報のような考えは、当時のユダヤ教社会で一般的に考えられていたことでした。しかしここでイエスは原因に注目するのではなく、どの人にも神の業が現れるということを語られます。注目するべきは、瞬間的なものではなかったのです。
 これを知った人たちは大議論を始めます。目の見えない人を癒す奇跡というのは、旧約聖書の中では救い主だけがすることができる奇跡とされ、これを行うことができた人はいませんでした。イエスを救い主と認めざるを得ない状況でありました。信じたくなかったファリサイ派の人たちは奇跡の起こった人にしつこく質問します。しかし最後には「あなた方もイエスの弟子になりたいのですか」と言い返されてしまい、腹を立てその男性を会堂(社会・議論)の外へと追いやってしまいました。イエスの弟子になるとはどういうことなのか、それは奇跡を受けることではなく、神の愛の中で変わっていくことなのかもしれません。目が見えるようになった人が追い出された後、再びイエスが現れこの人と対話をしています。
 私たちが生きる社会では、病気の原因が罪であるとは考えませんが、大きな変化の中を生きています。弟子たちのように「この人の罪のせいか」と問うことはありません。しかしここでイエスが示されたのは、救いへの課程であったのではないでしょうか。イエスが示しておられる方向性を考えながら歩むものでありたいと思います。



2020年3月10日火曜日

2020年3月1日

2020年3月1日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「神さまが養ってくださる」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書 4:1~11節
 2月26日(水)から、レント・受難節に入りました。イエスさまの御苦しみを覚えつつ、また自らの心の中の罪に向き合いつつ、しっかりとこのレント・受難節のときをすごしたいと思います。
 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、第二次世界大戦の時代に、ナチス・ドイツと戦った牧師です。アドルフ・ヒトラーの暗殺計画に加わりました。ただ「牧師として人を殺す計画に加わって、ほんとうにそれでよいのか」という悩みや迷いが、ボンヘッファーにはあっただろうと思います。
 最近、話題になっている検察官の定年延長についての事柄も、いろいろと考えさせられます。こうした誘惑を前に、「いやそれはおかしなことだと思うので、定年延長されても、63歳で辞めます」とわたし自身言えるかなあと思うと、ちょっとこころもとない気がします。できれば、こんな誘惑、目の前に現れないほうが良いのにと思うのですが、誘惑というのは、ときに私たちの目の前に現れて、私たちを苦しめます。人はいろいろな誘惑の前に立たされて悩みます。そして魂を売り渡したような決断をしてしまったあと、大きく後悔をするというようなことがあります。
 イエスさまは公的な活動をされる前に、悪魔から誘惑を受けられます。マタイによる福音書は、たまたま悪魔の誘惑に合われたのではなく、イエスさまが悪魔からの誘惑を受けるために、荒れ野に行かれたと記しています。イエスさまが悪魔の誘惑にあわれるというのは、人間を代表して、悪魔の誘惑にあっておられるのです。私たちが誘惑にあわれるのと同じように、イエスさまは誘惑にあわれるのです。
 イエスさまは誘惑を前にして、人は何によって生きているのかをはっきりさせた方が良いと言われます。そうすればその誘惑の前にかしずくべきなのかどうかが見えてくると言われます。イエスさまは、人は「神の口から出てくる一つ一つの言葉で生きる」。人は神さまの御言葉によって生きているのだと、イエスさまは言われました。人は神さまの「生きよ」という言葉によって生かされているのです。人は自分の力で生きているのではなく、神さまによって生かされているのです。
 私たちは弱いですから、日々の小さな誘惑を前にしても、どきどきしたり、誘惑を跳ねのけることもできず、あとで後悔したり、どうしてこんなに心が弱いんだろうと嘆いたりします。自分のことが恥ずかしくなることもあります。しかし、神さまによって生かされていることを、神さまが私たちをその愛でもって包み込んでくださっていることを、感謝をもって受けとめたいと思います。私たちを養ってくださっている神さまを信じて、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。

2020年3月2日月曜日

2020年2月23日

2020年2月23日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
  「命と糧と分かち合い」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 6:1~15節
 5000人以上の人々を前にしたイエスが、「この人たちを食べさせるにはどれくらいの金額がかかるか」と問うと弟子のフィリポは「200デナリオンよりもっとかかる」と答えています。ここで5000人とは男だけの数でありました。男性中心の意識が今より強かった時代状況を伺うことができます。そしてフィリポが「よりもっとかかる」と言ったのは、数えられない人たちがいたことも示唆させます。そして子どものが持っていたわずかな食料に頼らざるを得ないほどに、弟子(人間)たちは無力でした。この物語は様々に解釈されてきたように思いますが、聖書に書かれていることは非常に限定されており、どのようなことが起こったのかを想像する力が要求されます。
 今日よりも経済的に貧しかった当時にあっては、「食事」というものの意味合いは今よりも強く、また宗教的な意味合いも強くありました。夕食の時には必ず家族が集まり、祈りがささげられてから食べたのだそうです。一方、私たちが生きる現代で、食事の意味は大きく揺れ動いています。徳冨蘇峰と共に働いた松原岩五郎というジャーナリストは『最暗黒の東京』(1893年)には、当時の東京に「残飯屋」があり士官学校や繁華街の残飯が取引され、それを利用せざるを得ない人々の様子が記録されています。繁栄する東京とは対照的に「最暗黒」に置かれた人たちがいました。また、文明批評家のイヴァンイリイチは男性中心の社会にあって「家事労働」は重要視されないことを指して「シャドウ・ワーク(影の仕事)」と言いました。また、ナチスドイツ下のユダヤ人収容所では少ない食事でやせ細りながらも働かされた人たちがいました。このような「安価な労働力」によって成長した企業もありました。一方で現代に生きる私たちはどのような食事をしているでしょうか。社会が経済的に発展しようとするとき、労働者が人間であることを忘れることがあるのです(藤原辰史、2014年)。私たちの社会の中にも、「人間であることを忘れさせる」ような力の中で、隠されていたり気づいていないことがたくさんあることを思わされます。
 パンと魚を巡ってどのような奇跡が起こったのか、私たちには分かりません。イエスを中心に分かち合いの連鎖があったのかもしれません。しかし聖書は、2匹の魚と5つのパンで人々が、確かに満たされたことを伝えています。ここには無力にも思える人間が確実に持つものを活かしてくださるイエスの姿があります。私たちは弱い存在です。社会の大きな力を前に多くのことを忘れ去ってしまいます。しかし知りえない部分を想像する中で、私たちの力を活かしてくださる神の力を信じ、祈り歩みましょう。

2020年2月24日月曜日

2020年2月16日

2020年2月16日 降誕節第8主日礼拝説教要旨
  「ひとつの信仰」 井上正道牧師
   マタイによる福音書 25:31~46節
 マタイ福音書25章31~46節は、羊とヤギを「右」と「左」に分けて話が展開していきます。その内容は、右側にいる者たちには「天地創造のときからお前たちに用意された国」(34節)。左側にいる者たちには、「私から離れ去り悪魔とその手下のために用意してある永遠の火にはいれ。」(41節)と「天国と地獄」に分けられるお話となっています。そして、裁きの判断基準は、40節に書かれている「最も小さい者の1人にしたことは私にしてくれたこと。」と「最も弱くされた者」に対して行う施しだと教えます。それは、イエスは神のみを見る「特別視」ではなく、小さい者と同等の「一体視」する信仰を求めたのでした。
 私自身、この箇所を読むと尊敬する一人の医師の言葉を思い出します。それは、私が医師に「イエスってどこにいるんですかね?」と質問しました。それに対して、「イエスという存在は、自分の中にいるのではなくて、人の心の中にいるもんだと考えている。私が医者を目指して、医者をしていられるのも、患者さん一人ひとりの中にイエスがいて、導かれ、自分がしなくてはならないことが自然と与えられている。…精神病の患者さんの中でも100人いたら9割の人はなんとか自分の力でやり過ごすことができる。しかし、残りの1割の患者は、自分の力ではどうしようもできないほど病んでしまっている。その1割を見つけて、その人々に寄り添っていくことこそが課題であって、目標でもある。」と教えてくれたのです。その先生の言葉はイエスという存在は、全てが同じではなく、一人ひとりの中に備わる想いによって異なるものが「イエスという存在」であると気づかされたのでした。
 現代では、「特別視」という視点が社会の中心におかれ、「特別な何か」を持った人間が注目されています。しかし、重要なのはそこではないのです。私たちは、これから信仰の道を歩む上で、見えない神だけを見つめるのではなく、イエスの求めた「一体視」となる弱くされた者と共に歩みたいと思うのです。そして、人が心の中に持つイエスにそれぞれが導かれ、共に信仰を通して語り合い平等に歩んで行きたいのです。

2020年2月17日月曜日

2020年2月9日

2020年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
  「汚れつちまつた悲しみに」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 8:21~36節
 中原中也は洗礼を受けたクリスチャンではありませんが、「近代詩人中まれにみる宗教詩人である」(河上徹太郎『わが中原中也』)と言われています。中原中也は、「罪」「悲しみ」「後悔」「孤独」というような、人間の魂の出来事を掘り下げ、素直に詩で表現しました。「汚れつちまつた悲しみに」という言葉など、ちょっと歌謡曲のような感じで、なかなかいいなあと思います。
 殺伐とした世の中になり、「汚れてもいいじゃないか」と開き直るような世情のなかにあって、やっぱり「汚れつちまつた悲しみに」というような思いは大切なことだと思います。自分が抱える罪に気づくのは、たましいの気高さというものがあるからでしょう。自分の歩みを振り返って、「汚れつちまつた悲しみに」と、ため息をつく。そして自分の心の中をしっかりと見つめるときに、私たちは自分の罪に出会います。
 ユダヤ人たちは、自分たちは律法を守って、天に召されると神の国にいくことができると思っていました。「だって、私たちは律法を守っているんだから」。ユダヤ人たちは、律法を守って正しい生活をしている私たちが、神の国に行けないはずはないと思っていたのです。
 イエスさまを信じないユダヤ人と、イエスさまを信じたユダヤ人の違いは、自分の罪に出会うかどうかということでした。「私たちはアブラハムの子孫であり、ユダヤ人は選ばれた民である」と思っている間は、イエスさまに出会うことはありませんでした。「汚れつちまった悲しみ」がないわけです。汚れているのに、汚れていることに気がつかず、自分はきれいだと思っている。自分はアブラハムの子孫だ。神さまにつながる者だと思っている。
 自分が罪人であるということに気がついたときに、はじめて本当の意味での神さまとの出会いがあるのです。自分の罪の大きさに気づいたとき、その罪をあがなってくださったイエスさまの十字架の愛の広さに驚き、私たちはただ神さまに頭を垂れる者へと導かれていきます。「人みなを殺してみたき我が心その心我に神を示せり」という中原中也の句の通りであるわけです。赦されない罪が赦され、裁かれなければならない者が救われる。イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださり、私たちは自由な者とされたのです。
 私たちは自由にしてくださったイエスさまに感謝しつつ、悔い改めの気持ちをしっかりとこころにとめて、歩んでいきたいと思います。私たちの罪を贖ってくださったイエスさまと共に希望をもって歩んでいきましょう。

2020年2月9日日曜日

2020年2月2日

2020年2月2日 降誕節第6主日礼拝説教要旨
  「とけていく社会に抗して」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 2:13~25節
 二人の娘たちが小さいころ、一緒に積み木で遊ぶということをしていました。積み上げていくということは、希望のわく作業です。私たちの社会のイメージというのも、いろいろな良くないことを良いものに変えて、そして良き社会を作り上げていくという、ある意味、積み木に似たような感じがあるような気がします。
 わたしはここ十数年で、日本の社会は大きく変わったような気がしています。わたしの感覚では、悪くなった気がします。以前は個別の政治家の資質の問題であるのではないかと思ったりしていたのですが、社会全体がもうすでに大きく変わってしまい、倫理的な基盤そのものが、失われてしまっているような気がしています。政治家の心ない悲しい振る舞いをみるときに、わたしは「私たちの社会がとけていく」というふうに思います。私たちの社会はとけていっているのです。壊れていくのではなく、とけていくのです。
 この神殿で商売をしている人々を神殿から追い出されたという出来事は、とても象徴的な出来事です。神さまに献げ物をする、そうした場所さえも、この世的な価値観に支配されてしまっているということを表している出来事が、神殿での商売ということでありました。
 イエスさまは羊や牛を神殿の境内から追い出しなら、私たちの問うておられます。「あなたたちは本当に、神さまのみこころに反した社会で良いのか」。イエスさまは両替人の机をひっくり返しながら、私たちに問うておられます。「あなたたちは、あなたたちの社会が、このままどんどんととけてしまってよいのか」。
 私たちはこころの弱い者ですけれども、とけていく社会に抗して生きていきたいと思います。私たち自身が良き歩みを求めて生きたいと思います。とけていく社会を変えていく唯一の方法は、私たちがまっとうに生きていくということです。うそに満ちている社会においてどのように生きるのか。人をさげすむようなことが広がっている社会でどのように生きるのか。人にいじわるをしておもしろがる社会でどのように生きるのか。
 それは、うそはつかない。人をさげすむようなことはしない。人にいじわるをしない。私たちクリスチャンは、そうした当たり前の倫理的な歩みを大切にしたいと思います。イエスさまが歩まれたように、愛に満ちた、やさしさに満ちた歩みを求めて歩んでいきましょう。

2020年2月3日月曜日

2020年1月26日

2020年1月26日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「祝福された時を共にする」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 2:1~11節
 歴史学者の小島道裕さん(国立歴史民俗博物館)によりますと、一揆とは「同じ目的で意思を統一した人々が集団を結ぶことを意味してい」るのだそうです。一揆ということで大切なのは、志が同じであるということです。身分が高いとか低いとか、が大切なわけではありません。そうしたことを形に表すために、作り出された書式形式が円卓会議方式だと言われています。真ん中に、「まる」を書いて、そのまるに沿って、名前を書いていく方式です。
 一揆というのは、私たちの教会のあり方とよく似たものだと思いました。私たちはイエス・キリストの恵みを大切にするという目的で集まり、そして集まった私たちの中では、だれがえらいとかそういうこととではなく、みんな神さまに等しく恵みを受けた人として集っています。そして私たちは、イエスさまが言われたことを行なうということを大切にして、自分がしたことで、周りの人々から「すごいね」と言われることを求めるわけではありません。  
 イエスさまが最初の奇跡を行われたのが、ガリラヤのカナで開かれた婚礼であったと、ヨハネによる福音書は記しています。それは、幸いはイエスさまからやってくるということです。婚礼というとても幸いなときに、イエスさまが最初の奇跡を行われるのです。
 そして、私たちはイエスさまによって祝福された時を共にするという恵みに招かれているということです。【このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった】。召し使いたちはイエスさまから言われて、水を大きな水がめに入れて、それを世話役のところに運んで行ったので、それがぶどう酒になったことを知っていました。召し使いたちは周りの人々から誉められるということはないのですが、しかし召し使いたちは、イエスさまによって祝福された時を共にしているのです。
 カナの婚礼の召し使いたちがそうであったように、私たちもまた、イエスさまによって祝福された時を共にしているのです。私たちはイエス・キリストこそ、私たちの救い主であり、私たちの希望であることを知っています。イエスさまが教えてくださったので、私たちは私たちが神さまの民としての大きな祝福を受けていることを知っています。イエスさまによって祝福された時を共にして、イエスさまに従って歩んでいきましょう。

2020年1月27日月曜日

2020年1月19日

2020年1月19日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
   「共に歩み出す」 桝田翔希伝道師
     ヨハネによる福音書 1:35~51節
 洗礼者ヨハネの導きによりイエスの後をついてきた二人は、「どこに泊まっておられるのですか」と問いかけます。「泊まる」という言葉はヨハネによる福音書の中でよく用いられると同時に、ふたつの意味が込められることがある言葉です。この言葉は、15章の「イエスはまことのぶどうの木」とタイトルの付いた箇所でも印象的に用いられています。「わたしにつながっていなさい(4節)」、「私の愛にとどまりなさい(9節)」イエスの活動は神の愛の内に留まるものでありましたし、イエスの言葉は次第に弟子たちの内に留まるようになりました。そのようなイエスの生き方を想起させる問いかけを、弟子たちはここでしているのです。
 そして、イエスは一見すると「頼りない人」や「この世的な価値観に生きている人」を弟子へと招きます。この出会いの場面には、イエスがどのような出会いを大切にしていたのか見ることができます。シモンは洗礼者ヨハネの下で生活していた兄弟とは違い、この世的な生活を送っていました。しかしイエスは岩という意味の「ケファ」という名前を授けます。ナタエルはイエスという人が現れたことを聞いた時、「田舎からそんな人が現れるわけがない」と言います。しかしイエスは、そんな頑なな心の持ち主にも否定することなく出会い、その心を解きほぐしていきました。ここには、明らかな間違い、欠けのある人間でありながらも、それを否定することなく受け入れ共に歩み出したイエスの生き方が描かれています。
 ネパールで医療活動や生活改善の取り組みをしておられた岩村昇医師は、「Go to the People(人々の中へ)」という詩を大切にしておられたそうです。「人びとの中に行き 人々と共に住み 人々を愛し 人々から学びなさい 人々が知っていることから始め 人々が持っているものの上に築くのだ…」というこの詩は、海外協力の中で自分たちの正しさを押し付けるのではなく、現地の人々に学び共に働くことが示唆されています。
 私たちの生活を振り返ると、考えの違う人や文化の違う人をついつい拒絶してしまうこともあります。自分の考えを押し付けようとしてしまう時もあります。しかしイエスの出会いは、明らかな間違いがあっても否定することなく共に歩まれました。そのような歩みの中で、弟子たちの心の中にもイエスの言葉が留まっていったのです。私たちの中にもイエスの言葉が留まっていることを覚えながら歩んで行きたいと思います。

2020年1月20日月曜日

2020年1月12日

2020年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
  「世の罪を取り除く神の小羊」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 1:29~34節
 小羊はキリスト教のなかでよく用いられたシンボルです。迫害のなかで十字架の像を広めることのできなかった初期のキリスト者は、その代わりに小羊の像を用いたりしました。イエスさまと初めて出会ったバプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと、ヨハネによる福音書は伝えています。
 イエスさまは十字架によって殺され、天に召されました。しかしそのなきがらは、兵士によってはずかしめられます。なんともむごたらしい話です。もう死んでいるのに、死んでいるのか確かめるために、イエスさまはわき腹を槍で刺されたのです。人間とはなんとも言えず、非人間的になることができます。私たちの世の中は、そういう世の中です。そうした悲惨な世の中で、イエスさまは世の罪を取り除くために、十字架につけられました。
 社会自体も罪の多い社会ですが、私たち自身もまた罪深いものです。「心を合わせて祈ろう」と言っても、いつのまにか心のなかに人間的な思いが出てきます。「あんなやつのために祈れるか」。そんなふうに思ってしまいます。「自分も神さまから赦されている罪人でしかない」。そのように思いつつも、思わず爆発してしまうので、「あの人だけは許せない」。大声で叫びたくなります。「あの人だけは許せない」。
 私たちは私たち自身で、私たちの罪を解決することなどできないのです。きれいになんかなれないのです。しかしだからこそ、イエスさまは世の罪を取り除く神の小羊として、私たちのところにきてくださったのです。だからこそ、わたしは世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストを讃えたいのです。「この方こそ、世の罪を取り除いてくださる方だ。この方こそ、わたしの罪を担ってくださる方だ」。その思いはたしかな思いです。
 私たちの世の罪を取り除く神の小羊が、私たちと共にいてくださる。私たちは自分の罪のゆえに、自分で自分をどのようにすればいいのかわからないけれども、しかし私たちとともに、イエスさまはいてくださるのです。
 神の小羊イエス・キリストがたしかに、この世の罪を取り除いてくださるのです。私たちはこのことを信じて、この方に依り頼んで歩んでいきましょう。世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストをほめ讃えましょう。

2020年1月13日月曜日

2020年1月5日

2020年1月5日 降誕節第2主日礼拝説教要旨
  「満ちあふれる豊かさの中で生きている」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 1:14~18節
 クリスマス、御子イエス・キリストは、何も特別なものをもたない私たちのところに来てくださいました。マリアの賛歌のなかで、イエスさまの母マリアは、そのことを次のように言っています。ルカによる福音書1章47-48節にはこうあります。【わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです】。イエス・キリストは特別でない私たちのところに、神さまの御子であるにも関わらず来てくださいました。私たちは豊かな恵みをいただいて生きています。
 ヨハネによる福音書は、【律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである】と言っています。モーセの時代が終わり、イエス・キリストによって、人は救われるということです。モーセの時代に神さまから与えられた約束は、律法を守ることによって救われるということでした。しかし人は弱さのゆえに、律法に従って生きることはできず、律法は「裁き」を生むことになります。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように、律法を用いて人々を裁く人たちが出てきます。しかしイエスさまは、人はみな神さまの愛のうちに生きている。神さまの憐みのうちに生きていると語り、神さまが私たちを許してくださっていることを語りました。
 私たちはいま、イエス・キリストの恵みと真理のうちに生きています。「これができていない」とか「これではだめではないか」という裁きの世界に生きているのではありません。人を傷つけたり、人をののしったりする裁きの世界に、私たちは生きているわけではありません。私たちはイエス・キリストの恵みと真理のうちに生きています。私たちは裁きではなく、恵みの世界に生きています。神さまの愛、神さまの憐みによって生きている私たちは、思いやりを大切にして、互いに尊敬しあい、互いに助け合って生きていきます。「あなたは大切な人なのだ」「あなたがいてくれて本当によかった」と、互いに感謝しつつ歩みます。
 新しい一年も、神さまに愛され、イエスさまに励まされながら、感謝をもって歩みたいと思います。イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中に歩んでいることに感謝して、神さまの民として胸をはって歩んでいきましょう。

2020年1月7日火曜日

2019年12月29日

2019年12月29日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
  「世界中に知らされた」 桝田翔希伝道師
    マタイによる福音書 2:1~12節
 クリスマス礼拝、燭火讃美礼拝を恵みのうちに無事に終えられましたこと、神さまに感謝いたします。2019年最後の礼拝ですが、この一年はどのようなものであったでしょうか。元号が変わり、天皇についての報道が繰り返しなされた年であったように思います。天皇のことは教会から見れば、「外側」のことかもしれませんが、私たちが今一度問われている事ではないでしょうか。
 公現日を控えたこの日にあって、聖書日課では「占星術の学者たちが訪れる」とされる箇所が選ばれていました。ここでイエスを訪ねて礼拝した学者たちというのは、どのような人たちであったのでしょうか。「星」は肉眼で見えるものは8,600個ほどあるのだそうです。現代のような技術もない時代にあって、星を観察して記録するというのは膨大な知識を伴うことであったでしょう。当時にあって学者たちはエリートとされる存在でした。一方でエルサレムにいた学者やヘロデも、聖書の知識は十分持ち合わせた人たちでした。エルサレムの人たちも救い主の誕生を知識として知っていましたが、学者たちのように礼拝しようとはしませんでした。ここに、「知識」と「生活(信仰)」が必ずしも結びつかない姿が描かれています。さらに知識的なエリートであった学者たちでしたが、その道のりは知識のみではなく、星(神)による不思議な導きによるものでした。
 救い主が生まれたことは、外国の学者たちによってエルサレム中に知れ渡ったようです。しかし、ヘロデはその救い主が礼拝すべき存在であると知りながら、保身のために殺すことを考えました。救い主の誕生は世界中に知らされたものでありましたが、それと同時にエルサレムにあったそれまでの生活(信仰)が外国から問われた瞬間でもありました。同じように、日本の教会の歴史を振り返っても、外部から問われるということが何度もあったように思います。戦時中には、国家という教会の外部の言いなりになり、戦争に加担していきました。「外側」からの問いかけに、私たちはどれほど心を開けることができるでしょうか。また、イエスが活動された場所の多くは、都のような中心・内側ではなく、辺境であったり疎外された場所であったことを聖書は記録しています。
 知識を越え、星に導かれた学者たちは、イエスという「生きた希望の生命」に出会いました。降誕節にあって、私たちもまたこの生命に出会っています。学者たちの物語を思い出す中で、この出来事は様々な問いかけの中を生き、どのように私たちが応えるのかということが語られているのではないでしょうか。