2019年11月25日月曜日

2019年11月17日

2019年11月17日 降誕前第6主日礼拝説教要旨
  「天からの祝福で生きている」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 6:27~35節
【「ギムレットにはまだ早すぎるね」。清水俊二の初訳は名訳と言われる。・・・。『長いお別れ』が、数年前、村上春樹訳『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ文庫/2010)として出版された。(ただし、ミステリー文庫の清水訳も現役。どんな新しい訳が出ても、村岡花子訳『赤毛のアン』が絶版にならないのと同じである)】(斎藤美奈子の『文庫解説ワンダーランド』、岩波新書)。清水俊二は『長いお別れ』、レイモンド・チャンドラーに並々ならぬ思い入れがあり、また村岡花子もまた『赤毛のアン』、ルーシー・モード・モンゴメリに対する深い敬意と愛がありました。「これがないとだめなのよ」という特別な思いがあります。そうした特別な思い、夢中になることの尊さということを思う時に、「求めて生きていく」ということのすばらしさということを思います。  
イエスさまもまた「求めて生きていく」ということの大切さを、私たちに教えてくださっています。ヨハネによる福音書はキリスト教がユダヤ教から離れていく時代に書かれてあります。ユダヤ教から出ていくとなると、キリスト教はローマ帝国から宗教として認められていない状態になるので、迫害を受けるかもしれないですし、商売などをしていたら立ち行かなくなるかも知れません。イエスさまを信じると、飢えることになるかもしれないし、渇くことになるかもしれない。そうしたなかで、ヨハネによる福音書は読まれているということです。
イエスさまは群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。私たちは目先のことにとらわれてしまい、真摯な思いで求めることを辞めてしまうことがあります。ほんとうに自分にとって大切なことは何であるのかということを見失ってしまい、日常のことにだけこころが向いてしまうことがあります。
イエスさまは「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われ、神さまの方をしっかりと向いて歩みなさいと、私たちに勧めています。私たちに命を与えてくださり、私たちに賜物を与えてくださったのは、神さまです。私たちは「天からの祝福で生きています」。そのことをしっかりと思い起こし、そして誰の方を向いて歩むことが、たしかな歩みであるのかを、思い起こしたいと思います。


2019年11月18日月曜日

2019年11月10日

2019年11月10日 降誕前第7主日礼拝説教要旨
  「永遠のいのちへの約束」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 8:51~59節
 イエスさまは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。アフロ・アメリカン・スピリチャル、いわゆる「黒人霊歌」のなかには、世の終わり・終末、永遠のいのちについての歌が多くあります。「Soon Ah Will Be Done」(「もうすぐ終る」)もその一つです。黒人たちは奴隷として連れてこられて、つらい労働を強いられ、ひたすらものとして扱われました。そうした理不尽なことが終るときがくると歌われています。黒人霊歌に現れているアフロ・アメリカンの人たちの信仰は、私たちに世の終わり・終末、永遠のいのちの大切さを教えてくれています。世の終わり・終末、永遠のいのちを信じるということは、わたしの悲しみや苦しみをそのままにしておかれない神さまがおられるということを、わたしは信じているという告白であるのです。
 今日の聖書の箇所は「アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書は、イエスさまを信じている人々がユダヤ教にとどまるのか、とどまらないのかという問題をつきつけられている時代に書かれてあります。ユダヤ教にとどまると、安心した宗教生活が保障されました。しかしユダヤ教を出てキリスト教を信じると、迫害を受けるかも知れないということになります。
 ヨハネによる福音書は、「わたしはある」という言葉で、イエスさまが神さまの御子であることを表しています。神さまの御子であるイエスさまは、神さまの御心を知っておられる。イエスさまは神さまの御心を行なわれ、病気の人々をいやし、悲しみの中にある人々と共に、神さまがいてくださることを告げ知らせる。そして私たちの罪を担い、十字架につけられ、三日目に私たちのために復活をされる。そして死に打ち勝たれたイエスさまによって、私たちは罪許され、神さまの民として永遠の命へと招かれているのです。
 神さまの御子イエスさまは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10章28節)と言われました。この世にあって、私たちはいろいろな不安や悩みをもち、そして恐ろしくなるときがあります。しかしイエスさまはこの世のことではなく、私たちが永遠のいのちへの祝福を受けていることを、しっかりと受けとめて歩みなさいと、私たちを招いておられます。私たちは永遠の命の約束をいただいています。そのことに感謝しつつ、恐れることなく歩んでいきましょう。

2019年11月11日月曜日

2019年11月3日

2019年11月3日 降誕前第8主日礼拝説教要旨
  「あなたの罪はゆるされた」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 3:13~21節
今日は召天者記念礼拝を神さまのところに帰られた方々と共に、またご家族の方々と一緒に礼拝を守ることができ、神さまに感謝いたします。
みなさんは自分の大切にしているものを、大切な人にあげたことがあるでしょうか。わたしはこどものときに、自分が大切にしていた父のお土産の京都タワーのメダルを、引越していく友人にあげました。当時の宝箱の中に入っている宝物は、いまはわたしにとってガラクタになっています。しかし友だちにあげた京都タワーのメダルは、手元にないですわけですが、わたしにとって永遠の宝物になっています。
今日の聖書の箇所には、【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された】(JN0316)という有名な聖書の言葉が出てきます。神さまもまた大切なものを大切に人にあげられた方でした。神さまは大切な独り子イエスさまを、私たちにくださったのです。
イエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださいました。イエスさまは私たちを裁くために、来られたのではありません。私たちを救うために来られたのでした。私たちに神さまの深い愛を伝え、そして私たちに私たち自身の深い罪を伝えるために、イエスさまは私たちのところに来てくださいました。そして私たちの深い罪のゆえに、十字架につけられ、そして天に召されたのでした。私たちは神さまの独り子であるイエスさまの十字架を通して、私たちは滅びから、永遠の命へと導かれたのでした。
讃美歌21-300番に「十字架のもとに」という讃美歌があります。この讃美歌の詩は、スコットランドの讃美歌学者のエリザベス・クレーフェン(1830-1869)という人の詩です。クレーフェンは財産を売って貧しい人々を助ける、地元の人々から「太陽」と呼ばれるすばらしい人でした。しかし彼女は「はかりも知られぬ ひとの罪よ」と歌いました。地元の人々から太陽と呼ばれていた彼女も、自分のこころのなかのどうしようもない罪を見つめていたのでした。私たちはクレーフェンのように、自分の罪を見つめながらも、しかし罪赦されているということに感謝する者でありたいと思います。
【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された】。神さまの深い愛を信じましょう。神さまの深い愛に包まれていることを信じて、救い主イエス・キリストに希望をおいて歩んでいきましょう。

2019年11月5日火曜日

2019年10月27日

2019年10月27日 降誕前第9主日礼拝説教要旨
  「新しい一週間へ」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 1:1~14節
 先日、失念してほったらかしにしていた京都教区総会の補助書記としての、逐語録に近い記録を録音テープを聞きながら作っていました。改めて録音を聞きながら議事録を作成していて、自分がいい加減に聞いていた部分や自らの経験に照らし合わせて、元々の意図を歪める聞き方を多くしていたことに気づかされました。「言」の難しさを痛感しました。
 本日の聖書日課により示された箇所は、ヨハネによる福音書の冒頭にあって「言葉(ロゴス)の賛歌」と呼ばれる個所で、「言(ことば)」という単語が何度も使われています。賛歌という程なので、元々は歌として語り継がれていたものと考えられています。この部分では、「言」とはどのような意味が込められているのか考えてみたいと思います。ヨハネによる福音書はユダヤ人の中のキリスト教徒を対象として執筆されたと言われているので、ユダヤ教や旧約聖書の影響を強く受けていると考えることができます。旧約聖書で「ことば」というと、創世記において神が「ことば」によって天地創造をする場面が思い出されます。また、イザヤ書55章10節では、神が発した言葉は必ず使命を果たすものとして描かれています。旧約聖書で言葉とは、ダイナミックかつ人間に応答を求める者として描かれているのではないでしょうか。
 一方、今日の社会状況において言葉はどのように使われているでしょうか。インターネットを見ていますと、見るに堪えないような言葉がよく書かれています。匿名性に守られながら、他人に対する恐怖感や嫌悪感が助長されているように思います。私は「言葉」が持つ意味はどんどん軽くなる一方で「キツク」なっているように感じています。例えば、夜中に騒いでいる人を見たとき、イラッとしてしまう時もありますが「なるべく笑顔で少し静かにしてくれませんかと言えばたいていの場合はすむ話(岸政彦)」なのかもしれません。しかし私たちは直接的な対話をないがしろにして、恐怖感や嫌悪感に突き動かされて「ことば」を発してしまいます。これはネットの社会ではさらに顕著に表れているように思います。しかし聖書が語る言葉は愛ややさしさに満ち、躍動的でありながら私たちに応答を求める者として描かれています。聖書の言葉に立ちながら「ことば」の力を信じ、降誕日までの日々を過ごしたいと思います。