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2025年12月13日土曜日

2025年12月7日

 2025年12月7日 待降節第2主日礼拝説教要旨

「かけがえのない命」 大澤宣牧師

  1コリント 12:14〜26節

 平安教会創立149周年を心よりお慶び申し上げます。歴史を導いてくださった神様の御名を讃美いたします。そして、この歴史は、今日お集まりの皆様、そして、今日はここにおられない皆様が、主の導きに応えて編みだしてこられたものであることをおぼえさせられます。多くの方たちがこの教会に連なられ、歩んでこられたことを思います。そして、多くの先達たちが、今は天に召されて、主の栄光をたたえている群れに加えられていることを思います。私たちは、この先達たちと目には見えないつながりを与えられ、今も共にあることを覚えたいと思います。

 灰谷健次郎さんが書かれた『わたしの出会った子どもたち』という本の中に麻理ちゃんという女の子のことが書かれています。麻理ちゃんは、筋肉がマヒしていくという、体の不自由さをもっている女の子でした。笑っているのか、怒っているのか、ふだんから接している人でないと、表情を読み取ることができません。この麻理ちゃんに冷たい言葉を発する人がいました。灰谷健次郎さんは、その言葉をひどい言葉だと思いながらも、堂々と反論することができなかったのでした。

 何かが上手に出来ること、速くできること、力が強いこと、そういうことばかりに心が向いていると、見落としてしまうものがあるのではないかと思います。そして、人を切り捨ててしまうことになってしまうことを思わされます。速さや強さや効率の良さだけに目を奪われて、命を慈しむ心、人間としての優しさ、人間らしささえも失ってしまうことを思わされます。

 聖書の言葉は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と語ります。

 わたしたちはそれぞれの課題を抱え、重荷を抱えているものです。心細い思いをし、不安を感じつつ歩むものです。しかし、私たちの主イエス・キリストの言葉を携えて歩むことをゆるされている。その歩みは希望を持って進むことのできる道なのです。

 平安教会の皆様が、教会の大きなご計画を持たれ、希望をもって進もうとしておられることと思います。おひとりお一人の信仰の歩みの中に、課題があり、悩みがおありのことと思います。しかし、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださるのです。どのようなときにも、希望を持つことがゆるされています。いつも喜んでいること。絶えず祈ること。すべてのことに感謝すること。その歩みをすすめてまいりたいと思います。


2025年1月18日土曜日

2025年1月12日

2025年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「おぼろに見ている」 小笠原純牧師

  1コリント 13:1-13節

 パウロさんは大切なことが三つあると言いました。「信仰と希望と愛がとても大切」。それでこの三つの中でもっとも大切なのは、何なのか。パウロさんは「信仰の人」だったから、「もっとも大切なのは信仰だ」と言ってもおかしくないような気がするのですが、でもこう言いました。「その中で最も大いなるものは、愛である」。「愛は神さまがくださるものだから、やっぱり一番大切だ」と、パウロさんは思っていました。

 パウロさんは「人間ははっきりとものをみていない」と思っていました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と言っています。「自分のことは自分がよく知っている」というのであれば、自分の顔がどんな顔かはっきりと見ていてもいいような気がしますが、私たちは自分の顔を直接見ることはできません。私たちは自分の顔も「鏡に映ったものを見ています」。

 私たちは意外に自分のことを知りません。周りの人のほうがはるかにわたしのことを知っているということがあります。みなさんのお母さんは、みなさんがどんなにかわいらしく笑うかを知っています。みなさんのお父さんは、みなさんがどんなに気持ち良さそうに眠っているのかを知っています。みなさんの友だちは、みなさんがどんなにやさしい顔を友だちにむけてくれるのかを知っています。みなさんの恋人は、みなさんがどんなにすてきな瞳で自分をみつめてくれるかを知っています。

 「私たち人間が見ているものは、鏡におぼろに映ったものにすぎない」のです。だから私たちはお互いに謙虚にならなければなりません。私たちが真理を振りかざして人を問いつめようとしたり、人を裁こうとするとき、自分が絶対に正しいと思い込んでいるとき、私たちは自分たちが見ているものが「鏡におぼろに映ったものにすぎない」ということを思い起こさなければなりません。

 大切なことは神さまが私たちを愛してくださっているということです。自分がりっぱであるとか、自分がりっぱでないとか、そういうことが大切なのではない。神さまがわたしのことを愛してくださっているということが大切なのだと、パウロさんは言いました。

 私たちは大きな神さまの愛のなかに生かされています。神さまが私たちを守ってくださっています。私たちのことを愛してくださる神さまにより頼んで、神さまの愛に感謝して歩んでいきましょう。

 

2022年3月18日金曜日

2022年3月13日

 2022年3月13日 受難節第2主日礼拝説教要旨

 「我らは神と共に働く者なり」 梅田玲奈神学生

   コリントの信徒への手紙Ⅰ   3:7-9節

 昨年の7月より、派遣神学生として平安教会でお世話になっております、梅田玲奈と申します。約9か月という短い期間でしたが、平安教会の皆様にはとてもお世話になりました。子どもの教会を通して、みんなで働くこと、時には子どもたちにも動いてもらいながら物事を進めていくことの楽しさを学びました。

 今日お読みいただきました「コリントの信徒への手紙一」は、パウロがコリントの地に立てられた教会の人々へ宛てたものです。パウロはコリントの人々に福音を宣べ伝え、コリント教会が建てられました。その後、パウロはコリントを発ち、新たな伝道の地へと向かいました。パウロと入れ違うようにしてやって来たのは、聖書に詳しいアポロという人物でした。アポロによって、コリント教会はより大きなものとなりました。しかし教会の内部では、パウロ派やアポロ派のように分裂が起きていました。その対立を聞いたパウロが、「コリントの信徒への手紙一」を書きました。

 私たち人間は、誰が偉いのか、正しいかに心を奪われることがあります。しかし、本当に大切なことは、人間の成長を導く神様を信じて歩むことなのです。ヨハネによる福音書15章5節でイエス様は、“私たち人間がイエス様につながっていることの大切さ”を語っておられます。この言葉は信仰的に強い弟子たちに向けられた言葉ではありません。むしろ、これからイエス様を裏切ることになる弟子たちに向けられました。つまりイエス様は、私たち人間が弱いものであることを承知の上で、それでも「わたし(イエス様)につながっていなさい」と仰っています。

 私たちは、こうして教会に集い、これから一週間を歩むための、福音の糧を報酬として神様から受け取っています。私たちは信仰者として強いものではなく、弱さを抱えた存在です。ですが、それでも神様はここにおられるお一人おひとりを、導き、そしてイエス様と共に歩む者として、用いてくださっています。

 これから、私は横須賀学院中学高等学校という地で、伝道の働きの一端を担わせていただきます。平安教会の皆様とは、物理的な距離がありますが、どこにいてもイエス様に連なる者であり、神のために共に働く者でありたいと思います。


2019年1月29日火曜日

2019年1月20日

2019年1月20日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
  「みんなちがって、みんないい」 藤浪敦子牧師
    コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12:18~26節
 私たち一人ひとりの個性は神が与えてくださったものだから、互いに認め合い、受けいれあっていくことが大切だとパウロは伝えています。しかも、人の弱さや足りなさ、至らなさといった負の部分も、神が与えられた大切な個性であり、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)、その個性をその人に与えられたと記しています。自分自身の弱い部分、人よりも見劣りする部分、情けない部分を受けとめることは簡単なことではありません。人との関わりの中であれば一層難しいことです。自分自身の個性であれ、人の個性であれ、神が与えられた個性、お互いの違いをどう理解し受けとめていったらいいのでしょうか。
 違いを認め合うことの大切さ、人の弱い部分をも神が与えられた大切な個性であると記した、その後に続けて、コリントの信徒への手紙1の13章に「愛」について書かれていることは大切なことです。「愛」というと、私たち自身が愛を実践していくことが心に浮かびます。しかし「愛」の中心は、何よりもまず「神の愛」であることをパウロは伝えています。人の弱さや小ささをもありのままに受けとめ導いてくださる神の愛の確かさが、私たちの命の源、信仰生活の基にはあるのです。
 この神の愛の事実を思うとき、たとえ自らの信仰の正しさや熱心さでお互いの違いを受け入れること、個性を認め合うことができなかったとしても、私たち一人ひとりに注がれている神の愛を信じ、委ねてみることならばできるのではないでしょうか。そして、神の愛を信じ受けとめるところから、次第に私たち自身も神の愛を実践する者へと導かれていくことができたらと思います。
 与えられているこの命、人生、日々の歩みの中に込められている神様の深い配慮を信じつつ、自分の力、正しさや信仰の強さではなく、神様の愛のゆえに与えられているこの命であることを心に刻み、主を仰ぎ、これからも信仰の道を一歩一歩、大切に歩む者でありたいと願います。

2017年9月11日月曜日

2017年9月3日

2017年9月3日 主日礼拝説教要旨(振起日)
「弱さを抱えるあなたでいい」 宇野 稔牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ12:7~10節
 パウロは7節で「わたしの身に1つのトゲが与えられた」と云っています。このトゲは病気と解釈されますが、病気はパウロ自身だけでなく周囲の人々にとっても「試練」であったことです。一般的には「さげすんだり」「忌み嫌われる」可能性があったことが分かります。この苦しみが取り除かれるようにパウロは3回、主に祈ったと云うのです。3回祈るということは、イエスのゲツセマネの祈りを思い起こさせる言葉でもあります。「神様、どうかこの苦しみを去らせて下さい。取り除いて下さい。」しかし、それに対する神の応えは9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分発揮されるのだ。」というものでした。人間の弱さを神が必要としているのだと語りかけるのです。しかし、私たちの生きる社会は、その思想とは逆で動いています。弱いところイコール悪いところとして数え上げます。人間は弱さや悪いところを見せないように、取り繕おうとします。他人の前に常に良い自分であろうと努力します。弱さを持たない人など一人もいません。
 パウロは9節で「キリストの力がわたしの内に宿るようにむしろ大いに誇りましょう」と云います。誇るという言葉は「信頼を寄せる」「願いを託す」という意味があります。だからパウロは「自分の弱さ」をないものと考えたり卑下するのではなくそこにこそ願いを託してみよう、弱さこそキリストが用いて下さるのですから。
 私たちの人生は、全てうまくいくわけではありません。しかし私たちが挫折したように感じることがあっても自分の足りなさを嘆く時も、神が全てを完成させて下さるのだから満足することさえできるのです。パウロは力強く語ります「わたしは弱いときにこそ強いからです」この強いという言葉は神の力を表す「デュナトス」が使われています。私たちの弱さは余計なものではなく、私たちの弱さが神につながっているのです。イエスの十字架は私たちを愛するものです。弱さを抱える人に、もう苦しまなくてもいいよと伝え、自分の弱さに出会う時、それは神と出会うのです。

2016年12月27日火曜日

2016年12月11日

2016年12月11日平安教会創立140周年記念礼拝説教要旨
  「土台はイエス・キリスト」薛恩峰牧師
  (桜美林大学チャプレン・専任講師)
  (Ⅰコリント信徒への手紙3章1〜23節)

 私は平安教会で育てられた牧師です。本日、創立140周年記念礼拝を皆様と共に捧げることができた幸いを、まず父なる神に感謝申し上げます。
1876年12月10日、20名の信徒が集まって平安教会を発足させました。この教会で出会い、集う多くの先達の祈りと心が重なって、これまでの歴史は織り成されました。今、私たちに求められているのは、先達が遺した信仰の遺産を受け継ぐ決意を新たにすることではないでしょうか。
 二千年来、代々の教会は「説教」「信徒の交わり」「聖餐」「祈り」を最も大切なこととし、主イエスが復活された日を記念する礼拝を熱心に守り続けてきました。キリストの復活は我々に与えられた大いなる希望だからです。それゆえ、「私たちの国籍は天にある」と告白しているのです。「是非ともイエス・キリストの福音の根本的な意義を覚えなさい」。これは、本書簡の主題だけでなく、新約全体の主題でもあります。「教会の土台はイエス・キリストである」。教会は、この信仰告白の上に教立っているのです。パウロは、こう注意を促します。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(3:16)。
 もし教会の中に聖霊の臨在と信仰による敬虔さがないならば、教会の存在する理由はないのです。人々は教会に何を求めて来るのか。教会は万事お金の世の中にあって、お金で買えない聖なるもの、人を真に生かせる福音の宣教を神から委託されているのです。それを遂行するのが教会の使命です。聖霊こそは教会を元気づける源です。ぜひ聖霊の助けと導きを祈り求めてください。本日の記念に下記の聖句を皆様に贈ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5:22~23)。
創立140周年を迎えた今、主にある兄弟姉妹たちが教会と信仰の原点に立ち返って思いを新たにし、岩倉の地において神の栄光をいよいよ豊かにあらわしていくことができますよう願ってやみません。皆様の働きの上に主の祝福が豊かに注がれますように。ア-メン。

2016年8月23日火曜日

2016年8月7日


2016年8月7日 主日礼拝説教要旨
  「あなたがたは神の宮である」宇野稔牧師
  (コリントの信徒への手紙Ⅰ3章1〜9節)


 戦争が世界のどこかで絶え間なく続いていることを考える時、「何かの力によって戦うよう仕向けられているではないか」と思っています。その誘惑と力は私たちの中にも存在するのです。

 今日の箇所で描かれているのはコリントの教会の中での「派閥争い」です。パウロにつく、アポロにつく、この二大勢力の対立も激しかったのでしょう。そこでパウロは「アポロとは何者か。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは神である」と云うのです。

神がこの教会を育てておられるのに、争っているのは本当に情けないことだ。パウロはキリスト者とは聖霊によって生きる「霊の人」であるべきなのに、他の人と何ら変わらない「肉の人」ではないかと叱るのです。

 私たちは誰のために生きているのでしょうか。パウロは人々が生きるのは「神のため」であると云うのですが、そうだと窮屈な気がしてしまいます。自分は自分らしく生きてこそ、価値が有ると考えたいですし、またそのために生まれて来たと思ってしまいます。

 しかし人間は「自分のため」に生きているのでしょうか。時間と富を思う存分使って自分の楽しみだけを求めて生きたその結果、幸福になることはできるのでしょうか。私たちの周りで幸福そうに生きている人が増えたでしょうか。昨今、多くの高齢者、若者、女性、子どもが「孤独の中で苦しんでいる」という事件が多発しています。孤独は大人だけではなく確実に広がっているのです。犯罪を生み出す悲しみがなんと多いことでしょうか。

 けれども私たちが神のために力を合わせる時、あなたたちの人生は、実り豊かな畑であると云われます。イエスは「平和を実現する者は幸いである」と云います。世の中の諸悪の大きさを考える時、「自分一人がやっても」という思いになりますが、最悪の時代の中でも神の言葉に心を傾ける人がいる、それが平和への希望なのです。

 どんな時代にあっても平和を実現しようと祈り志している人がいます。それが平和を生み出す原動力なのです。私たちは神の宮です。「成長させて下さるのは神です」、信じて歩みましょう。