2021年7月30日金曜日

2021年7月25日

 2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

   「すべてのことは」 内山宏牧師

    ローマの信徒への手紙 8:26-30節

 私は出身教会の鳳教会で人生の5分の2を過ごしたことになります。その私にとって神学部大学院の2年間、派遣神学生として過ごした京都教会での経験はとても貴重なものでした。そこで出会った友人のY君から28節の御言葉を要約した「すべてのことは主にあって益となる」という言葉と、「クリスチャンは、意識している時だけではなく、意識していない時も、眠っている時だってクリスチャンなのだ」ということを教えられました。

 当時の私は自覚的であることをよしとし、「しなければならない」、「こうあるべき」という生き方を追い求めながら、しかし、そうではない自分に悩んでいました。そんな私にとって、彼の言葉とその言葉の通りに肩をはらず、しなやかに生きている友人の姿は実に新鮮であり、私の心を解き放つ出会いとなりました。

 彼のあり方自体が一つの信仰告白であり、証であったと思います。何故なら、信仰とは自分に何ができるか、どのような力があるかということが問題ではないからです。御言葉によるならば、聖霊が「弱いわたしたちを助けて」くださり、また「共に働いて」くださるからです。だから、私たちは「すべてのことを」、たとえ当面はマイナスに思えることも、取り除きたいと思う事を含めて、そのすべてが益となる、そのように変えられていきます。だから、私たちは神様がそのように働いてくださるという希望において、その時が来るまで、待つことができます。

 ただ、今はとても難しい時代です。本当に「すべて」ですかという問いを思わないわけにはいきません。けれども、御言葉はそれでもこう語るのだと思います。そうだ、すべてだ。万事が益となるように共に働く。神の歴史においてそうなのだと。

 今、目の前にある苦難、直ぐには解決できない困難な課題であっても、必ずそこに秘められた意味があるということを信じ、やがて神様ご自身が共に働いてくださり、すべてのことを益としてくださるという希望において、その場に踏みとどまりたいと思います。

 やがてはすべてを完成してくださる方がおられる、という信仰において、待ち望む。ここから今という困難な時代に向き合いながら、それでもしなやかに生きるあり方というものが現れてくるのではないでしょうか。


2021年7月23日金曜日

2021年7月18日

 2021年7月18日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

  「神さまのもとに生きている」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 8:5ー13節

 トマス・アクィナスは13世紀の中世ヨーロッパの神学者・哲学者です。『神学大全』を書きました。トマス・アクィナスはこう言います。【神が諸々の事物を存在にまで産出したのは、諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これ(善性)をこれら(の被造物)を通じて表現するためであった】(P.212)。【すべての被造物は神の善性を分有していて、所有している善を他のものへと拡散させる。なぜなら、自らを他のものへと分かち与えることが善の特質に属しているからである】(P.213)(山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』)。

 神さまは世界をつくられ、そして世界に神さまの善性を与えられた。だから世界は良きものであるのです。そして善というのは自ら善のままであるのではなく、善を広め、他の物と分かち合うという性質があるので、善はどんどんと世界に広がっていくのだと、トマス・アクィナスは言います。『世界は善に満ちている』わけです。なんとも幸せな気持ちになります。そこにも、ここにも、善が満ちあふれているのです。私たちは良き物を分かち合わずにはいられない神さまが作られた世界の中に生きています。そして善は世界に満ちあふれていく。私たちもまたそのためにつくられています。私たちは世界を治めておられる神さまの権威の下に生きているのです。

 イエスさまは自分の僕の病をいやしてほしいと願い出た百人隊長の願いをかなえられました。イエスさまは、「わたしは権威の下にある者だ」と言った百人隊長の信仰を誉められ、私たちが神さまの権威の下に生きていることをしっかりと受けとめるようにと願っておられます。私たちはだれのもとにいきているのか。私たちの中心軸はなんであるのか。私たちはだれにより頼んで生きているのか。そのことをしっかりとこころにとめることをしなければならないと、イエスさまは私たちに言っておられます。

 私たちは「神さまの権威の下に生きている」と言える者でありたいと思います。ついつい神さまのことを忘れてしまって、自分勝手なことばかりしてしまう、弱い私たちです。神さまから離れ、自分のことばかりに関心がいってしまう、私たちです。しかし神さまが私たちを愛し、私たちを導いてくださっていることを思い起こしたいと思います。


2021年7月11日

2021年7月11日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

  「神の御心を行う者になる」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 7:15ー29節

 ルーサー・バーバンクは『種の起源』で有名なイギリスの生物学者ダーヴィンが書いた『人間のそだてている動植物の変化』という本に感銘を受け、ジャガイモを種から育てて、たくさん収穫ができて、料理しやすく、保存もきく新しいジャガイモをつくりだそうとします。そうしてできたのが、「バーバンク・ジャガイモ」です。このジャガイモは、アメリカで爆発的に広まりました。のちに、このバーバンク・ジャガイモはアイルランドで起こった飢饉のときに、飢饉から人々を救うことになりました。(板倉聖宣著、楠原義一画『ジャガイモの花と実』、福音館書店)。

 ルーサー・バーバンクの話を読みながら、「わたしは努力や工夫や向上心が足りんなあ」と思わされました。わたしはすぐにあきらめてしまって、能力のなさや才能のなさを神さまに嘆くわけです。「主よ、主よ」と言いながら、じつは神さまを頼っているようで、ただ自分が努力をしていないだけではないかと思わされました。

 イエスさまはなかなかきびしいことを言われます。イエスさまは「良い実を結ぶ」ことにこだわっておられます。「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と言われます。いくら敬虔なふりをして、「主よ、主よ」と言っていてもだめだ。たとえ、御名によって奇跡を行っていたとしても、それが人から誉められるためであったり、人からすばらしい人だと認められるためにやっているのであれば、それはだめだと、イエスさまは言われました。

 使徒パウロは、「キリスト者というのはあきらめない人のことだ」と、コリントの信徒への手紙(二)4章8−10節でこう言っています「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。使徒パウロは、イエスの死を体にまとい、イエスさまの御言葉を土台として、その生涯を歩みました。

 あきらめたり、嘆いたり、弱さを抱える私たちです。しかし私たちはイエスさまの御言葉という確かな土台に立っています。そのことを覚えて、神の御心を行う者になりたいと思います。私たちのできる業は小さな業でしかないかも知れません。しかしそれでも、一つずつでも小さなことでも、神の御心を行う者でありたいと思います。

 

2021年7月9日金曜日

2021年7月4日

 2021年7月4日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

   「求めなさい。そうすれば与えられる。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 7:1ー14節

 「いまの日本に必要なのは啓蒙です。・・・。それはおれの趣味じゃないから、と第一印象でひいていたひとを、こっちの見かたや考えかたに搦め手で粘り強くひきずり込んでいくような作業です。それは、人々を信者とアンチに分けていてはけっしてできません」(東浩紀『ゲンロン戦記』、中公新書ラクレ)。分断が進む社会にあって、「あなたは正しくない」と裁いているだけでは、だめなのだと思います。

 イエスさまは「裁くな」と言われました。人を裁いていると、その周辺の雰囲気は悪くなります。だれもが裁くようになり、まただれもが裁かれることになります。もちろん不正や悪事を裁くということは大切なことです。不正や悪事が行なわれていることに対して、何も言わず、ただただやり過ごしたほうが良いというようなことを言っているわけではありません。ただ小さなことにこだわり過ぎて、大きなことが見失われてしまうということがあります。

 イエスさまは裁くことにこだわり、周りのことが見えなくなっている人々に対して、もっと大切なことがあるのではないかと言われます。それは「あなたが探していたものを探す」ということだと言われます。あなたは人を裁くことに一生懸命になり、人のことが気になって気になって仕方がなくなり、自分のことを忘れてしまっている。あなたが探し求めていたものがあったのではないのか。人のことを気にしすぎている間に、本来自分がしようと思っていたことが忘れ去られてしまっているのではないのかということです。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように、人のことを気にするのではなく、あなたが求めて生きていくということを大切にしなさい。それがあなた本来の生き方であり、神さまがあなたに託している大切なことなのだ。イエスさまはそう言われました。

 私たちは本来、神さまから私たち自身が求められている良き生き方を思い起こしたいと思います。私たちのできることは、ちいさなことかも知れません。しかし神さまが託してくださる良き業に励んでいきたいと思います。


2021年7月8日木曜日

2021年6月27日

 2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

   「人間の救い」 山下毅牧師

    マルコによる福音書 15:33-41節

 ユルゲン・モルトマンというドイツの高名な神学者がいます。第二次大戦にヒットラー・ユンゲントとして参戦しました。大変な苦難に会い、イギリスの捕虜収容所で聖書に出会います。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」との受難のイエスの言葉が、自分に語られたものだと、確信し、共に苦難を歩まれるイエスに出会います。救いを確信するのです。これは詩編22編の引用と言われていますが、神から捨てられた、罪深い人間の叫びを、イエスが代わって私たちの十字架を負い、絶望と見える棄てられた状況のどん底において、なおも固く神の御手に支えられていることを信じうる最後の依り頼みであり、イエスのこの叫びにおいて、人間の救いの道が開かれたのです。

 私どもはどんなに絶望しても、イエスほど絶望することはないのです。私どもの心は罪のために鈍くなっていますから、私どもは神に棄てられてしまうことがどんなに恐ろしいことか、分からないのです。私どもは絶望しても、主イエスのように絶望することはもうないのです。そしてわたしほどもう苦しまなくてもいいのだと言ってくださいます。まさにそのような意味において、心に深く刻み、愛唱すべき言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」が与えられていることを感謝するのであります。

 モルトマンは語ります。「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言う問いに対しては、本当にただ一つの回答は、復活だと述べます。「死は勝利に飲み込まれたのです」。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができるのです。このことは、古くからある知恵です。

 情熱を持って愛して下さるキリスト、迫害されたキリスト、孤独なキリスト、神の沈黙に悩むキリスト、死に際し全く私たちのために、私たちのゆえに全く見捨てられたキリストこそ、すべてをゆだねることのできる兄弟・友人のようなお方です。キリストの十字架にあって、希望が暗闇から再び生まれてきます。人々がそのことを心に刻んだものは、もはや暗闇を恐れません。その希望は固くゆるがないものとされ、復活されたキリストが共にこの世の旅路を歩んで下さいます。主を喜びつつ、感謝しつつ、祈りつつ、この世の旅路を歩みたいと思います。     


2021年6月20日

 2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

   「すなおにごめんって言えますか。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:21ー26節

 保育園の園長をしていたとき、ときどき園児のいざこざの仲裁をするというようなことがありました。両方の園児の言い分を聞いて、仲裁をするわけですが、いざ悪かったほうが「ごめんね」と言う段になると、「ごめんね」ということに納得せず、まだまだ仲裁は続くというようなこともあります。小さい子どもでもやっぱり「ごめんね」というのは大変なのかと思ったことがありました。

 イエスさまは争いごとを解決することについて、たんに律法や法律に書かれてあることを行なうだけで良いということだけでなく、人の内面を問題にされました。法律において裁くのであれば、「殺すな」ということで、殺していないのであれば、それで良いわけです。しかしイエスさまは人の内面を問題にされ、「あなたのなかにあるその憎しみとか怒り、裁かれることがないのであれば、殺してやりたいと思うその気持ちはどうなのだ」と問われました。そして「バカ」とか「愚か者」と言う者も、火の地獄に投げ込まれるのだと、イエスさまは言われました。

 船橋洋一は、【国を愛することは、日本と日本の過去を美化することではない。和解とは究極的には、それぞれの個人の心からしみ出す悔悟と、心からにじみ出る赦しの交差するところに生ずる潤いを必要とする営為であるに違いない。・・・。自分たちがどのような国民でありたいのか、日本をどんな国にしたいのか、後世、私たちはどのような民族として記憶されたいのか、という志の領域の話である】(あとがき『歴史和解の旅』)と言っています。

 「すなおにごめんって言えますか」と言われますと、「まあ、言えないなあ」と思います。「なんでわたしがあやまらなければならないんだ。あいつのほうが悪いじゃないか」と思えます。たしかにあいつも悪いのです。ただあいつもわたしも、神さまの前では、欠けたところの多い、おろかな人間なのです。互いに責め合うのであれば、欠けたところが多いわけですから、責めるところはたくさんあるでしょう。しかしそうした欠けたところを持ちつつ、わたしもあいつも、神さまにとっては大切な大切な一人であり、また一人の罪人であるのです。

 私たちは神さまを信じる者として、互いに欠けたところのある者ことを受け入れつつ、歩んでいきたいと思います。神さまの前で、すなおに悪かったことを悪かったと認めて、健やかに歩んでいきたいと思います。