2021年3月25日木曜日

2021年3月21日

 2021年3月21日 受難節第5主日礼拝説教要旨

   「敵でも味方でもない」 山下壮起

     マタイによる福音書 5:38ー48節

 昨年11月、大阪都構想をめぐる住民投票とアメリカ大統領選挙が行われました。この二つの結果は決して手放しで喜べるものではないと思います。なぜなら、大阪市もアメリカも半々に分断されてしまったからです。吉村府知事は「負けたから間違っていた」と語りましたが、数による勝敗は物事の正しさを証明するものであってはなりません。多数の人が選択したことが正しいことになるのであれば、群衆がイエス様を十字架に架けろといって殺した、あの出来事も正しいことになってしまいます。

 また、バイデンの「一致・結束」の呼びかけに対して、インターネット上で多くの黒人たちが「バイデンが勝った。これで通常の人種差別に戻るんだな」と書き込んでいました。白人男性であるバイデンの言う「分断の克服」が以前の社会を「一致・結束」したものと見るなら、それはこれまでずっと差別によって分断されてきたマイノリティの存在を無視するものだからです。

 今日の聖書箇所の背景にあるのは、ローマ帝国の植民地支配によってユダヤの人びとが虐げられ、搾取されていた状況です。この状況のなかで、イエス様は「手向かうな(武装抵抗するなの意)」「敵を愛せ」「徴用されたらそれ以上歩くように」と語ります。これらの言葉は支配を受け入れろというものでは決してなく、自分たちの人間としての尊厳を奪うことはできないことを示すものです。そして、尊厳をもって生きることを諦めないために「敵を愛する」生き方をイエス様は示しました。それは人びとを敵と味方に分断し、暴力によって支配する統治の在り方から離れることです。

 そして、そこには民衆を敵と味方に分断する政治によって見えなくされ、敵にも味方にもされず、社会から隔絶された人びとへの眼差しがあります。その人びとの視点に立つことから、分断を利用する支配の政治に翻弄されることから脱け出し、神の国を目指す歩みが始まるのだとイエス様は指し示しています。それゆえに、「貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人」は幸いであるという言葉が5章の冒頭に記されるのだと思います。

 目の前にいる人は敵でも味方でもない。神様に愛された一人の尊厳ある人間である。ただそれだけ。そのことを信じて生きていく。そのような信仰に立って生きていきたいと思います。


2021年3月19日金曜日

2021年3月14日

 2021 年 3 月 14 日 受難節第4主日礼拝説教要旨

    「この方についていく。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 17:1 ー 13 節

 冬の終りから、すうっと新鮮に素朴に美しく現れてきて、まるで流行や商売や政治の手練手管など何ひとつ存在しなかったかのように、じっと守られていた草むらの陽あたりのいい片隅からー曙のように無垢で金色で穏やかに春の初咲きのタンポポが、その信頼しきった顔を見せる。「初咲きのタンポポ」(「ホイットマン詩集」より)初咲きのタンポポのような、素朴で、うつくしく、穏やかに、そして人を信頼した歩みができれば良いなあと思います。イエスさまは初咲きのタンポポのような方だったような気がします。律法学者やファリサイ派の人々などの手練手管のある人たちに囲まれながら、それでもイエスさまはそうしたものに流されることなく、神さまの愛を素朴に語られました。頼りになる弟子たちではないですが、それでも弟子たちを信頼し、自分のあとを弟子たちに託されました。人を愛し、人を信頼し、そして神さまが計画された十字架への道を、イエスさまは歩んでいかれました。

 「イエスの姿が変わる」という表題のついた今日の聖書の箇所は、人間の考える栄光と、神さまが示された栄光について語っています。使徒ペトロたちは神々しいイエスさまの姿が栄光だと思いました。しかし神さまが示される栄光は、そうしたものではありませんでした。神さまが示された栄光は、イエスさまの十字架です。洗礼者ヨハネが人々から苦しめられて、ヘロデ王によって殺されたように、イエスさまもまた人々から蔑まれ、私たちの罪のために十字架につけられる。

 使徒ペトロたちは光り輝く雲に包まれたとき、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」との御声を聞きます。そしてその言葉どおり、モーセとエリヤは去り、イエスさまだけが使徒ペトロたちの傍らにおられるのです。人間の栄光は消え去り、神さまの栄光だけが残るのです。聖書は私たちに「これに聞け」と言います。わたしの愛する子、わたしの心に適う者である、イエスさまの言葉を聞きなさい。

 御声に聞き従い、イエスさまについて行きましょう。


2021年3月12日金曜日

2021年3月7日

 2021年3月7日 受難節第3主日礼拝説教要旨

    「与える幸い」 桜井希牧師

     使徒言行録 20:34ー35節

 使徒言行録の2,4,5章には初期の教会の様子が描かれています。弟子たちは出かけて行って病人を癒したので、多くの人々が病人を連れて集まり、そして病人は一人残らず癒されたと言います(5:16)。また弟子たちは罪人を招いて一緒に食事をし、自分の持ち物や財産を差し出して、必要な人に分け与えました。そのため教会には貧しい者が一人もおらず、飢えることもなかったことが報告されています(2:44-47,4:32-35)。一見すると、幸せそうな教会生活のようにも思えます。けれどもこのような教会の根底には、十字架へと向かうイエスを裏切って逃げ去った弟子たちの姿があるように思うのです。

 イエスを見捨てた彼らは、今度は自分が逮捕されるかもしれないという恐怖におびえながら身を潜ませていた。そしてイエスが処刑されたとのニュースを伝え聞いたとき、彼らは自分の罪深さを責めてやまなかったのではないか。イエスは殺され、見捨てた自分たちはこうして生きている。おそらく弟子たちは、今の自分に何の価値も認められず、これから何を目的としていきていくべきかもわからない、いわば生きながら死んでいるような状態だったのではないでしょうか。

 そのような弟子たちに、イエスはガリラヤに行くように告げています。ガリラヤは彼らが初めてイエスと出会った場所です。おそらく彼らは故郷に帰り、自分たちがイエスの弟子になった時のことを思い出したに違いありません。マタイによる福音書によれば、イエスは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じています。つまり、彼らにはもう一度人間をとる漁師となる人生が与えられる。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とは、「今度はあなた方の番ですよ」という、イエスからのエールなのではないか思うのです。弟子たちは今度こそ逃げることをやめ、イエスとともに生きていく人生を選びました。イエスの復活は弟子たちの復活に他なりません。彼らにとって教会はイエスとの共同生活の再現であり、生き直すための場ではなかったかと思うのです。

 こうした教会の交わりから私たちはそれぞれの現場へ、家庭や職場、地域社会へと遣わされていきます。私たちに託された使命の一つは、そこで教会と同じような交わりを築いていくことではないでしょうか。今日読んでいただいた聖書箇所はその指針となる言葉だと言えます。「受けるよりは与える方が幸いである」と言われると、私たちはこうあらねばならないと身構えてしまったり、今の自分にはそんなことはできないと思ってしまうこともあります。けれども振り返ってみますと、私たちは自分が辛くて苦しくて助けを求めていた時、孤独の中で打ちひしがれていた時に、寄り添ってくれた人、手を差し伸べてくれた人、共に泣いてくれた人がいたことを思います。そして今度は自分もそのような人でありたいと思わされたのではないでしょうか。与える幸せは尽きることがありません。もしも与えることによって人生が行き詰まったり、生きづらくなるようなことになれば、神は教会の交わりを通して必要なものを与えてくださる。そのような信仰をもってこれからも歩んで参りましょう。


2021年3月4日木曜日

2021年2月28日

 2021年2月28日 受難節第2主日礼拝説教要旨

   「イエスさまと一緒に働く喜び」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 12:22-32節

 イエスさまはファリサイ派の人々から、「イエスは悪霊の仲間だ。悪霊の力で悪霊を追い出している」というふうに言われました。それに対してイエスさまは言われました。悪魔が悪魔を追い出すというのであれば、それは内輪もめになってしまう。そうしたら悪魔の国は成り立たないだろう。悪魔は私たちのように愚かではないから、内輪もめなどしない。

 私たちの教会が属しています日本基督教団は、いろいろな教派が合同した、合同教会です。京都教区は比較的同じ教派・伝統の教会が多いですが、わたしが以前いました大阪教区はいろいろな教派・伝統をもつ教会があり、考え方も同じではありませんでした。でもいろいろな教派・立場の人たちがいるということの豊かさというのもあるわけです。

 日本での教会合同の話は、新島襄の時代にもありました。新島襄は、当時の教会の合同については消極的であったと言われています。ただ新島襄はこんなことも言っています。「教派や教義に相違があることは望ましいことかもしれない。しかし教派・教義は魂の救いのための主たる手段ではない。我らの救い主がなさったように、罪人たちに真理を与えること、これこそが先ずなされなくてはならない。真の敬虔さをもってそれをなす人は誰でも、教派、教義以上の存在だ。教派や教義に心奪われて、本質を見落とさないようにしよう」(P.237)(『新島襄365』)。

 私たちはこころの弱い者ですから、いつのまにか高慢になってしまい、人を傷つけてしまったりします。バカにされたような気になってしまい、思わず大きな声をあげてしまうというようなことがあったりします。また熱心のあまりに、その人の気持ちを考えることなく、「これが正しいのだ」と押し付けるようなことをしてしまうときもあります。謙虚な思いを忘れてしまい、自分だけが正しいとの思いに取りつかれてしまうこともあります。

 そうした弱さもある私たちですが、私たちはイエスさまと共に、神さまの愛を、神さまの御言葉を、世の人々に届けたいと思います。私たちはそのことのために、神さまによって教会に招かれているのです。私たちと同じように、神さまの愛を、神さまの慰めの御言葉を必要としている人々がおられます。慰めを待ち望み、心の平安を求めておられる人々がおられます。そうした人たちのところに、神さまのことを伝えていきたいと思います。