2018年8月28日火曜日

2018年8月12日

2018年8月12日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨
  「真の平和を求めて」 村上みか教師
   マタイによる福音書 10:34~39節
 8月に入るとメディアでも戦争の問題が取り上げられ、私たちは改めて平和を願う時をもちます。戦争の悲惨な光景を目にするたびに、やはり戦争はだめだ、平和な社会でなければ、と多くの人が思うでしょう。しかし、この聖書の箇所には、平和を願う私たちの思いを打ち砕くようなイエスの言葉が記されています。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。」これは、伝道へ派遣される弟子たちに、この世で伝道することの困難を語ったイエスの言葉の一つです。信仰に生きることはこの世ではなかなか理解されず、人々と対立することになるだろう。信仰に生きるということは、したがってこの世の血縁関係や人間関係を断ち切って、自分の十字架を担い、キリストに従うことなのだ、というのです。
 私たちは、この世と葛藤して生きているでしょうか。この世の楽しみに案外満足し、できればこの世で平穏に生きたいと思っていないでしょうか。そのために神でなく、人間関係に多くを頼っているところもあるでしょう。しかし、そのような表面的な平穏ばかりを求めていると、私たちは聖書の教える真の平和とは関係のないところで生き始めてしまいます。その中で私たちにできることは、神から離れて安易な平穏に頼り、自分の命を得ようとする、そのような自らを知り、神の前で悔いるということ、まさに自分の十字架を担う、ということです。こうして神に立ち帰ることを知った人こそが、実は神に支えられて真の愛を実現し、真の平和をもたらす存在となるのです。
 「平和、平和と告げられるところに、平和はない。十字架、十字架と告げられるところに、十字架はない」(ルター「95箇条の提題」より)。平和というのは、それを単純に求めて実現されるものではなく、自らの十字架を担う人によりもたらされるのです。対立や争いが繰り返される現実の中で、私たちも真の平和を願い、それを作りだす者となりたいものです。

2018年8月20日月曜日

2018年7月29日

2018年7月29日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
   「『放蕩息子』のたとえ」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 15:11~32節
 イエスはファリサイ派、律法学者の人々と対話しておられます。そのテーマは誰が神の国に入れるのか?と言うテーマです。12、13節 弟の方が父親に、「私が頂くことになっている、財産の分け前をください」と言います。普通ユダヤ人社会では考えられない遺産相続ですが、父親はそのことを許します。遠い国、異邦人の国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまいます。何もかも使い果たした時、その地方に大飢饉がおこり、彼は食べるにも困り、豚の世話をし、いなご豆を食べて、飢えをしのぎます。豚飼はユダヤ人にとっては、これ以上落ちることのない零落した状態をさしています。弟はわれに帰って、最悪の状態から目を覚ました。息子は「お父さん、わたしは天に対して、またお父さんに対しても罪を犯しました――雇人の一人にして下さい」と、最初は心の中で、もう一度は、父の前で言い表します。悔い改めは心の中で思うと共に神の前で言い表さなければなりません。父親は、年長者である威厳を投げ捨てて、走り、息子に口づけし、「一番よい着物」、「指輪」、「サンダル」を与え、子牛を一頭屠って、宴会を開きます。この弟は悔い改めた者の象徴です。
一方、兄はこのことに怒ります。「わたしは何年もお父さんに仕えています、―― 子山羊一匹すらくれなかった」と、悔い改めた弟と一緒に宴席に入ることを拒否します。兄の最大の誤りは、自分を正しいとし、自分の業によって、父との関係は保たれると思っていることです。この侮辱的兄を、父親が出て来てなだめています。――イエスは、宴会(神の国)に入る唯一の方法は、自分の弱さと罪を認めることだと教えられました。神はわたしの最悪を最善に変えて下さいます。神は私たちを贖われたのは、私たちの資質や立派さや才能ではありません。全く放蕩息子のように、ボロをまとった姿の私たちを、破れたままの姿の私たちを、受け入れてくださいます。

2018年8月7日火曜日

2018年7月15日

2018年7月15日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
  「信じていればなんでもできる」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 9:14~29節
この一週間は、暑い一週間ではありましたが、西日本豪雨の被害が続々報告された一週間でありました。何もできない自分の無力さを改めて実感させられます。
今日読んでいただいた聖書箇所では、まずイエスの弟子たちが律法学者たちと議論している場面で始められています。そんなところにイエスがやって来るとある一人の人が「私の息子を癒してほしい」と駆け寄ってきました。この人の息子は霊に取りつかれていて、弟子たちに癒してほしいと言ったができなかったと話します。そして子どもが小さい時から病に苦しみ、「できるならば」「私たち」を助けてほしいと頼んでいます。しかしイエスは、「できるならば」と言った人を叱ります。ここでイエスに向けられた「できるなら」という言葉は謙虚そうに見えながら、何もできなかった弟子たちを前にイエスをも「できるできない」の価値観で図ろうとしている言葉なのかもしれません。
大船渡で医師として働く傍らで、ケセン訳の聖書も発行された山浦玄嗣さんは3・11の地震の後でインタビューを受ける中で「神様はなぜ、まじめな人たちをこのような目に合わせたのか」という事を何度も聞かれたと語っておられます。何度も何度も聞かれて非常に腹が立ったと書かれていました。私たちの発想からするとごく普通の問いのようにも思えてしまいます。山浦さんは、「なぜ神様はこのような事を起こしたのか」という質問は「お前たちが拝んでいた神様は、お前たちを見捨てたではないか」という意味を持つ言葉であると語っておられました。
「なぜ神はこのような事を起こしたのか」という質問と、今日の聖書箇所で出てくる「できるならば」という信仰には通じる部分があるのではないでしょうか。イエスはその人の苦しみをよく聞き、祈りを通して願うことの大切さを語っています。私たちは辛い時、なぜこんなことが起こるのかと神を疑いたくなる時もあります、また自分自身、色々なことが出来なくて失望するときもあります。災害があり、私たちの持つ力は小さいという事を実感する日々でありますが、何もしないという事ではなく、何もできない無力さを受け入れ信じ祈ることが大切なのではないでしょうか。