平安教会 説教アーカイブ

                    毎週の説教要旨を掲示しております。

2017年12月26日火曜日

2017年12月10日

2017年12月10日 待降節第2主日(アドベント)礼拝説教要旨
  教会創立141周年記念「確実な教えを受け継ぐ」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 1:1~4節
 なぜルカは新しい福音書を書いたのでしょうか。マルコとルカを読み比べて見ると、ルカはマルコを下敷きにしながら多くの物語を書き加えていることが解ります。ルカは福音というものを、イエス・キリストと出会うことだと確信していたのであり、生き生きとしたイエスとの出会いの物語で願っていたに違いないのです。もう一つの視点は、順序正しくということです。ルカはクリスマスの起こった年を世界の歴史の中で明確に書こうとしています。さらにイエスの出来事がこの世界の中に、歴史の中に事実として起こったということを強調しているのです。福音というのは時代の中に位置づけられなければならないということです。イエスを救い主として生きるならば、この世界から浮き上がってはなりません。地に根を張りながら、心を高く上げて終わりの日に向かって生きるのです。そして預言者的人として語っていかねばなりません。
さて確実なもの(4節)とは何なのでしょうか。私たちは確実なものを持っているでしょうか。日本には土地神話、銀行神話、原発神話等があります。値下がりしない、つぶれない、安全で事故を起こさない。すべて神話がもろくも崩れ、今も私たちを脅かしています。確実なものは何もないことをひしひしと感じます。実はルカ福音書は80年代に書かれており、十字架の出来事から50年後のことです。イエスを直接知っている者もおらず、弟子たちも皆死んでいます。ユダヤ教から憎まれ、仲間はずれにされ、ローマ帝国から敵視される。これがルカの属していた教会の状況だったのです。不安と焦りの中にいる教会に、ルカはこの福音書を書くことで伝えたかったのです。「何も変わらない!」イエスが歩んだ時代を共に生きた弟子たちと、今ここで教会を形づくっている自分たちは何も変わっていないのです。
イエスが弟子たちと共にいて下さったように、私たちの共同体の中に一緒にいて下さるのです。その福音は「確実な教え」であると伝えるためにルカ福音書はあります。不変なものを信じるに足りるもの「神」であり「イエス・キリスト」です。確実な教えそれが福音です。平安教会の141年の歩みがその証なのです。


投稿者 heian 時刻: 20:22 0 件のコメント:
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2017年12月18日月曜日

2017年12月3日

2017年12月3日 待降節第1主日礼拝 説教要旨
「光の中を歩もう」 宇野稔牧師
イザヤ書 2:1~5節
 今日のイザヤの言葉は、それまでのイスラエル民族は自分たちにはヤハウェという神がいて、その神は自分たちを守ってくれると信じて来たのです。ところが今彼らが見ているものは選民であるはずのイスラエル民族が滅び、歴史から消し去られてしまうという事実なのです。南ユダ王国の人々は、大国の圧力に怯える日々を過ごしていたに違いありません。その時イザヤは、終わりの日が来ることを語りだしたのです。
 終わりの日が来るということは、今が終わりの時ではないのです。終わりの日を定められるのは神のみであって、我々は苦難に会うかもしれないけれど、滅ぼされるのではない。この時を生き延びて、やがて主の定めた終わりの日を迎えるのだ、と預言したのです。終わりの日は救いの完成の日なのです。国々はこぞって主の神殿の山に来て神を礼拝することを意味しています。今は迫害している民も、やがてイスラエルが礼拝する神こそが礼拝に値する神であるということを知るのです。そして彼らも主の道を歩み始めるのです。
 終わりの日が来たら平和が訪れるのです。戦いのために備えることもありません。すべての人が剣を鋤に、槍を鎌に変え戦いの道具を耕すための道具に変えるのです。人間は奪う存在から育てる存在に変わり、独り占めに固執する存在から分かち合い、共に食する存在へと変わるのです。私たちが終わりの日があるということを知っているのは、素晴らしいことなのです。終わりの日にすべての人間を救うと神は意図しています。それは神が愛をもって導いていることを知っており、私たちは光の中にいるのです。イザヤは闇の中にいると感じていたイスラエルの人に向かって「あなたは恐れてはなりません、光の中にいるのです」と語ります。
 主の光の中を歩もう。たとえ悲しみや苦しみの中にいると感じても真っ暗闇の中にいるわけではありません。主の光は私たちの闇の中に輝いているのです。イエスはそのために来て下さいます。


 
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投稿者 heian 時刻: 16:58 0 件のコメント:
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2017年12月11日月曜日

2017年11月26日

2017年11月26日 降誕前第5主日 収穫感謝日合同礼拝説教要旨
「悪い土にも」 桝田翔希伝道師
マルコによる福音書 4:1~9節

 平安教会にきて、農園部の活動に参加させていただき、はじめて畑というものに関わりましたが、思っていたよりも大変なものでありました。なぜ大変と感じたかというと、畑の土が非常に硬いのです。粘土質で非常に土が硬いのです。雨の降らない日が続くと土は水分を失い、カチカチに硬くなってしまいます。こんな土で野菜が育つのかなぁと思っていたのですが、そんな土でもしっかり世話してやると、大きな実りが与えられることを教えられました。さて今回の聖書箇所では種蒔きを通した話が紹介されています。良い土地に蒔かれた種は多くの実りが与えられるが、悪い土地に蒔かれた種はあまり実りをもたらさなかったことが語られています。
イエスが生きた時代、田舎の土地は都会の大金持ちに支配され始めていました。自分たちが働いた分だけ生きるという生活ではなく、働いた分以上の収入を得る人たちが現れ、一方では不当な商売に巻き込まれる人たちが多くいたようです。そのような社会にあってイエスは田舎で生き、多くの貧しい農民たちと過ごしていたことが考えられます。この話が語られた背景には、良い土地に種をまきたいけれども、金持ちの地主や借金のせいで、悪い土地にしか自分たちの食べるための種をまくことが出来なかった人たちの生活があるのではないでしょうか。イエスは悪い土地からでも与えられる恵みも語っていたのかもしれません。
 私たち自身を神のみ言葉を聞く畑であると考えますと、自分自身に貧しい気持ちを覚え、貧しい畑のように思える時も多いのではないでしょうか。しかし決して良い土とは言えない私たちであっても雨が降り、陽が注がれるなかで実を結ぶのです。実を結ぶまでには、様々な手入れが必要かもしれません。しかし、あきらめずに耕し続けることが大切なのではないでしょうか。作物も、私たちの良い心も、全て神が与えて下さるのです。
投稿者 heian 時刻: 22:17 0 件のコメント:
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2017年12月4日月曜日

2017年11月19日

2017年11月19日 降誕前節第6主日礼拝説教要旨
「ともし火を高く上げよう」 宇野稔牧師
ルカによる福音書 8:16~18節

 2000年前の人々は経験的に、闇の中に輝くともし火の力を知っていたのでしょう。ですからイエス・キリストがこの世界に来て下さったという喜びの知らせを「ともし火」と表現しました。16節で語られていることもそのことです。ともし火を隠す人はいないはずです。一見当たり前のことを述べているのですが、ここにはイエスの当時の社会に対する批判が込められているのです。ともし火は神の御旨だったに違いありません。本来神のことを語るべき大祭司たち、ファリサイ派や律法学者たちは、その神の愛を人々から隠してしまっていたのです。ともし火は消えるかもしれないという可能性をはらんでいます。それが当時の社会の状態でした。厳しい迫害の中でこの福音書は書かれているのです。福音は文字通り風前のともし火だったのです。歴史の風の中で消えていく可能性を感じさせる程に弱い存在だったと云ってもよいでしょう。
 しかし、その迫害の中でもルカが確信しているのは、風前のともし火のように弱い存在に映るかもしれないが、福音こそが闇の世の中に輝くともし火であるということです。ともし火、つまり福音の言葉は「どう聞くべきか」が大事なのです。「ともし火」自体が問題なのではなく、それをどう受け止めるかという私たちの側の問題として、ルカは「どう聞くべきか注意しなさい(18節)」と語ります。福音を聞く時に、それは「決して諦めない」ということです。ともし火は、この世界の中では小さく弱いものに見えます。福音がそうであるように愛や平和も「ともし火」のような存在です。時代の強風の中に怯えるような心境になることもあります。でも諦めてはいけません。ともし火をかかげ続けるのです。
 神は愛であり、その愛こそ最も偉大なものであることを啓示されているのです。やがてこのともし火が、愛と平和がこの世界を包み込むのです。故に一層ともし火を高くかかげ、諦めないで粘り強く、希望と信仰をもって愛と平和のともし火をかかげ続けましょう。

投稿者 heian 時刻: 18:00 0 件のコメント:
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2017年11月27日月曜日

2017年11月12日

2017年11月12日 夕礼拝説教要旨
「待 望」 宇野稔牧師
マルコによる福音書 1:1~8節

 4つの福音書を読んで一つ不思議に思うことがあります。それはどの福音書にもバプテスマのヨハネのことは記されているということです。マルコ福音書などは主イエスご降誕をさえ省略しているのに、このバプテスマのヨハネのことは記されています。これは一体どういうことなのでしょうか。バプテスマのヨハネは、エルサレムから遣わされてきた人々から「あなたはどなたですか」と質問を受けた時「私は預言者イザヤが云ったように『主の道をまっすぐにせよ、荒れ野で呼ばれる者の声』である」と答えています。聖書に書かれているのは、彼が偉大な人物であったからでもなければ、すばらしいことをしたからでもありません。
彼が4つの福音書に等しく記されている訳は、ただ一つ彼が「主の道を備えよ、その道をまっすぐにせよ」と叫び声があったからなのです。このことは、イエス・キリストを信じる者としての「備え」の大切さを示しているのです。旧約のヨシュア記でヨシュアは7章13節において神から「あなたは身を清めて明日のために備えなさい」という言葉を聞いています。また預言者のアモスは神の助けを求める者は自ら備えを必要とすると述べています。
キリスト教の暦は降誕前節の時に入り降誕節となります。待降節はクリスマスを待望すると共に、再び来たり給う救い主を待ち望む期間であります。備えの伴わない待望は本当の待望ではありません。主は「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつであるかあなたがたにはわからないからである。」と戒めています。「主の道を備えよ、その道をまっすぐにせよ」との言葉は、換言すれば悔い改めよということです。悔い改めとは、世事に埋没しないで、主の前に己が道を備えることなのです。この世のことに埋没されやすい自分がしっかりと目を覚まし、語り給う主に備えるのです。それが待望の時なのです。
投稿者 heian 時刻: 12:39 0 件のコメント:
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2017年11月21日火曜日

2017年11月5日

2017年11月5日 聖徒の日・召天者記念礼拝
「神の家族」 宇野 稔牧師
マルコによる福音書 3:31~35節
 愛する家族が皆さんに残されたものは何だったのでしょうか。その事を考えるのです。この所で特に目を引くのが「外に立つ」家族です。イエスが民衆を前に話している時、イエスの家族は外に立っていたのです。それには意味があって、ここでイエスは多くの弱く小さく貧しい人々から熱烈な支持を受けていましたが、指導的立場であったファリサイ派の人々はイエスを抹殺してしまおうとするのです。家族は、そのイエスの活動に不安を感じ、それを止めにやって来たと云うことでしょう。「外」という言葉は場所的空間的な意味以上に心情的な意味が強いのです。家族に対してイエスは「母とはだれか、兄弟とはだれか」と。
 イエスにとって新しい家族の創造それが34節「ここにいる」という宣言と「みこころを行う」事に決定的な要素をもつと云うのです。神のみこころを行う家族とはどのようなものでしょうか。それは先ず「神のみこころ」を知ること、一番明確にされる点はイエスの十字架に収斂されていて、その内容は愛です。家族の崩壊が叫ばれる今日にあって、この現象の根底にあるものは本当の愛の深さを知らないということなのです。本当の愛を知らないから突っ張った生き方しかできないのです。本当はそんなことは願っていないのに、傷つけ傷つけられて疲れ果てるような歩みをしているのです。
 この時代に「私のみこころを行う者こそ私の家族だ」というイエスの言葉は新しい響きを持ちます。イエスは家族の絆の本質が「愛」にあることを示されたのです。家族が崩壊しているということは、愛を見失っているということです。愛することがどういうことか判らなくなってしまっているのです。イエスはそのような私たちに「私のもとに来なさい。私のみこころを行いなさい」と奨めています。
 今日皆さんは家族を覚えてここに集いました。皆さんの愛する家族が残されたものは「愛」に違いありません。
投稿者 heian 時刻: 7:22 0 件のコメント:
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2017年11月14日火曜日

2017年10月29日

2017年10月29日 礼拝説教要旨
「平和の福音」 李 相勁牧師(福知山教会)
エフェソの信徒への手紙2:14~22節
主の平和がありますようにお祈りいたします。
教区の講壇交換をとおして、主にあって共につながり、分かち合う恵みに感謝いたします。わたしたちは、礼拝と祈りのなかでそれぞれが自分と向き合い、歩みをかえりみる時が与えられて、かけがえのない一人ひとりが神に愛され、大切にされる存在であることに気づかされます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)などのみ言葉は、苦しい思いを強いられている人々に、すべての人々に与えられた平和の福音であります。小アジアの商業都市といわれるエフェソは、多くの人々が集うところでした。そのエフェソでは互いの違いによる葛藤や対立などがありましたが、信仰共同体においてもそのような課題を抱えていたと思われます。イエス・キリストは、隔ての壁である、考え方や体制を乗り越える、二つのものを一つにしている平和の福音を告げ知らせ、互いに認め合い、支え合う、多様性のなかで共に生きる大切さを示してくださいました。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14~16)かなめ石であるイエス・キリストにおいて、建物全体が組み合わされて成長し、共に建てられていく、すべての人々は平和の福音にあずかり、神の家族であることに励まされます。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェソ2:19)
投稿者 heian 時刻: 9:57 0 件のコメント:
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ラベル: (N10)エフェソの信徒への手紙

2017年11月6日月曜日

2017年10月22日





2017年10月22日 礼拝説教要旨
「我が涙よ、歌となれ」 宇野稔牧師
ルカによる福音書 7:11~17節
 イエスがナインという村にやって来ると、そこに葬儀の列が来ます。若い母親が先頭に立って多くの村人達がそれについて泣きながら棺を担ぎ出したところでした。彼女は生きがいの一人息子を亡くしてしまったのです。突然の理不尽な不幸が訪れたのです。ただ泣くだけの絶望的な毎日でしかなかったのです。イエスはその様子を見「憐れに思い」(自らのはらわたを痛める程という意味)母の悲しみを思われたのです。イエスは人間以上に人間の悲しみを悲しまれ、激しく自分自身が痛たまれ、心を動かされるという神だったと聖書は語っているのです。
 イエスはその後、息子を生き返らせます。私たちはイエスの能力に目を奪われますが、私たちがこの物語で本当に驚かねばならないのは、人間の悲しみを自らの悲しみにして下さる神の姿なのです。死という絶望、その中にある人間の無力感、悲しみの中にあるもの、それらのものを神自らが哀れみ、走り寄り、神自らが逆転を起こして下さり、そして死を越えてある力を私たちに示して下さったというのがこの物語の意味なのです。そのカギとなっているのが、悲しみの中にある母に向かって云われた「もう泣かなくてよい」というイエスの言葉です。またこの言葉は今悲しんでいる私に向かって云われている言葉でもあります。即ちこれは、悲しみの中に輝く神の厳粛な宣言なのです。
 原崎百子さんというキリスト者はガンで召された方ですが、告知されてからわずか44日で召されたのです。どんなに失望し落胆し涙を流されたことでしょうか。最期の礼拝に出られた時「我が涙よ、わが歌となれ。主をほめまつる我が歌となれ」と歌を残しておられます。涙が歌となるのです。その事を可能にできるのは、神以外にはありません。私たちが信じる神は私たちの悲しみを共に悲しみながら「もう泣かなくてよい」と宣言して下さる神です。そこには、神の重大な決意があります。神自らが十字架に向かうという決意です。
投稿者 heian 時刻: 18:17 0 件のコメント:
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2017年10月30日月曜日

2017年10月15日

2017年10月15日 礼拝説教要旨
「神と共に歩むヨブ」 山下毅伝道師
ヨブ記 19:23~27節
  人生には、苦しみ、悲しみ、痛み、災いに満ちています。神がお創りになったこの世の中に、これらの苦しみがあるのは、一体どうしてと、問うことが、私たちの生活に満ちています。ヨブ記の主人公、ヨブは正しい人です。だが、ヨブは息子娘たち、使用人達を失い禍に見舞われたあげく、ひどい皮膚病になります。しかし「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」「わたしたちは、神から幸福をいただいたから、不幸もいただこうではないか」と語りますが、ヨブはやがて口を開き「自分の生まれた日を呪った」と突然語り出します。その徹底さ、強烈さに圧倒されます。ここに3人の友人が来てヨブを慰めますが、皆、四つの観点から、ヨブを攻めます「ヨブは何か過去に悪いことをしたから、その報いがおこった」「ヨブは善人ではなく、悪人だから神が滅ぼされるのだ」「神によるヨブへの懲罰である」「ヨブは被造者として、罪をおかした」と語ります。しかし、ヨブはそれらの言葉をしりぞけ、神に逆らいつつ神に期待します。生の土壇場において、ヨブは肉体の限界状況の中で、彼を贖い出す、神に期待します。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもってわたしは神を仰ぎみるであろう」と、苦しみのなかでなおヨブは神を求めます。最後にヨブに対して神は声をかけられ、大変な苦難の中でも神を信頼し続けるヨブを肯定し、3人の友のために執り成しの祈りと、父なる神に対する全幅の信頼から来る祈りを聞かれた父なる神は、ヨブを祝福されます。
 神を信じ、イエスを信じている人であっても、「こんな苦しみがなぜ?」という問いへの答えは持っていません、しかし、信頼を持って苦しみに立ち向かうことはできます。かえってイエスの苦しみにあずかるように、選ばれたことを喜ぶことさえできます。
投稿者 heian 時刻: 16:05 0 件のコメント:
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2017年10月23日月曜日

2017年10月8日

2017年10月8日 礼拝説教要旨
「み言葉をください」 宇野 稔牧師
ルカによる福音書7:1~10節
 一人の百人隊長が出ています。9節によればこの人は「これほどの信仰はユダヤ人の間でも見たことはない」と、イエスが云うほど信仰を証しした人です。悪名高いヘロデからも高い評価を受けていたのです。具体的には5節、ユダヤ人を愛し会堂を建てたともあります。善行の人だからイエスがその信仰を誉めたと受け取りがちですが、よく聖書を見ると、百人隊長の行動ではなく伝言に含まれていた内容です。即ち7節「わたしの方からお伺いすることさえふさわしくないと思いました。一言おっしゃって下さい。」この言葉が中心であることは確かです。この言葉を英語の聖書を見ますと「say the word」「speak the word」と訳されています。つまり、言葉があるだけではなく「話す」、「声に出す」ということが強調されているのです。百人隊長が求めたものは「あなたの言葉を聞かせてください」「私の魂に響かせて下さい」という意味が強い言葉なのです。百人隊長である彼は他人と比べて具体的な大きな力を持っていたのでしょう。会堂を建てる程の富を持っていたでしょう。周囲の人たちからの信頼もありました。まことに人間としては立派で力のある人なのです。
 しかしながら彼は、今愛する者の苦しみの前で全く無力なのです。人間とはそのようなものなのです。どんなに立派であり力あるように見えても、私たちは最も根源的なところでは無力なのです。百人隊長は、愛する者の死の苦しみを前にしてその自分に気づいたのです。
苦しんでいるのは、救いを求めているのは、百人隊長なのです。自分の無力さと、自分の弱さ、貧しさ、そんなものを嫌という程知った百人隊長は「み言葉をください。私の魂に、あなたの言葉を響かせて下さい。」その言葉で慰められ、生きる力を得るのでしょう。「それが出来るのはあなただけです」と語ったのです。だからイエスは「これほどの信仰を見たことはない」と云われたのです。
投稿者 heian 時刻: 16:40 0 件のコメント:
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2017年10月17日火曜日

2017年10月1日

2017年10月1日 礼拝説教要旨
「実際に御言葉に生きてみよう」 宇野 稔牧師
ルカによる福音書6:43~49節
 イエスは「良い実を結ぶのは良い木である」と43節で語ります。私たちは「果たしてどんな実を結んでいるのか」と考えます。パウロはガラテヤの信徒への手紙5章19節と22節(p.350)に肉の業と霊の結ぶ実のリストを上げて、どちらの実を結んでいるのかと問いかけています。ご自分の生き様で思い当たる言葉は肉の業に分類されていることの方が多いのではないでしょうか。イエスは45節で「あなたの心の倉に何が納まっているか」と云います。「倉」は最も大切にしているものをしまっておく所を意味しますから、心の深いところであなたが本当に大切にしているものは何か、もし心の倉にイエスが納められているなら、必ずや良い実を結ぶことになるでしょう。
 私たちがあくまでも自分に固執するなら、私たちの結ぶ実は肉の業となってしまうのです。私たち自身は貧しい枝ですが良い木につながることで良い実を結ぶことが出来ます。問題は私自身が良いかどうかではなく、良い木であるイエスにつながっているかどうかなのです。イエスにつながるということは、イエスと対話しながら生きて行くということです。その事が詳しく書かれているのが46節からの「主よ主よと呼びながら、何故私の云うことを行わないのか」という言葉です。「御言葉を聞いて行うものと御言葉を聞くだけのもの」それはほとんど同じ体を持っているけれど迫害という危機的状況の中では、全く違ったものになっているということです。
 御言葉を実際に生きてみなさいというのです。御言葉を信じてその通り生きてみるということです。すると御言葉が真実であることが解り、神の言葉には力があり、神のご臨在が体験できるのです。その体験によって私たちは確信と希望をもって将来へと向かうことが出来ます。「敵を愛しなさい」ルカ6:27~(p.113)と聞きます。私たちの心に蒔かれたのです。それを実際に生きるのです。そうすれば実るのです。
投稿者 heian 時刻: 7:53 0 件のコメント:
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2017年10月9日月曜日

2017年9月24日

2017年9月24日 礼拝説教要旨
「君の友だち、イエス」 宇野 稔牧師
ルカによる福音書5:27~32節
 レビという人が弟子に召されていますが、この人は一生懸命イエスの話を聞いた人ではなかったのです。むしろ仕事を優先して収税所に座っていたのです。即ち、徴税人であったのです。彼はユダヤ人でありながら、ローマの手先となって働き、ローマに納入するための税金を取り立てていたのです。ユダヤ人から罪人とみなされており、住む町の中で仲間はずれとされ、社会の中では一番孤独であったのかもしれません。イエスは、この孤独のレビ人に「わたしに従いなさい」と云い、この徴税人を弟子にしようと仰ったのです。レビはイエスの為に盛大な宴会を催したとあり、イエスとの出会いが非常に嬉しかったに違いありません。
 そんな時にもファリサイ人たちは罪人と食事をするイエスを非難しました。これに対しイエスは「わたしが来たのは正しい人を招くためではない。罪人を招くためだ」と云います。イエスの目的は罪に苦しむ人、その罪から解放して心から楽しめるように、心から愉快に過ごせるようにすることだと云われたのです。罪人と共にイエスが祝宴を設けられた。これは実は、教会の様子を表現したのだと思います。教会とは、罪人がイエスと出会い、イエスの後に従い、そしてそこに共にいて下さるイエスを知り、喜んでいるそんな所なのです。
 イエスにとって罪人とは、道徳的に劣った人たちや、律法に従えなかった人たちを意味した言葉ではありませんでした。それは疎外であり、孤独であり、その中で苦しんでいる、そのような状態を罪と呼ばれたのです。私たちは良い友人に恵まれています。しかし、その人が如何に素晴らしくても、その手が届かない時もあります。淋しい自分を発見します。しかしその時、イエスは語りかけるのです。「私があなたの友人となろう」イエスは私たちに語りかけられるのです。イエスの生涯は初めから最後まで罪人の友でありました。孤独に苦しむ人を愛し続け励まされました。そして今も、私たちの真の友として愛し続けておられるのです。

投稿者 heian 時刻: 14:20 0 件のコメント:
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2017年10月3日火曜日

2017年9月17日

2017年9月17日 恵老の日礼拝説教要旨
「天に富を積む一つのこと」 宇野 稔牧師
ルカによる福音書18:18~30節
 生きる上での大切な課題…。それは今自分にとって必要なものは何か、それをどのようにして手にするかと考えてはいないでしょうか。必要なものを選択し、その獲得を目的として歩み続ける毎日であるなら、まさに私たちは持っているものの豊かさと人生の豊かさとが比例するという価値観の中に身を置いているのです。より充実した豊かな人生を築く為に少しでも多くのもので満たされようと努力します。それは必ずしも持ち物や財産と云った物質的な物とは限りません。経験や知識の積み重ね、蓄えも豊かな人生を築き上げていく為に必要なものでしょう。
 しかしイエスは、人が生きる目的は「得ようと努力すること」ではないことを説かれます。「得る」こと自体を否定されていません。問題はそれを人生の「最優先課題」としている私たちの現実です。ここで「何をすれば永遠の生命を受け継ぐことが出来るか」との問いを携えて来た金持ちの議員は、何の不自由もない生活を送っていながら「命」について悩んでいます。それは「生きる」ことについての悩みです。幸福な人生を手に入れたはずが、生きることの満足感を味わうことが出来ないのです。彼の心は虚しさに支配されていたのです。それに対してイエスの回答は「持っているものを全て売り払い貧しい人々に分けてやりなさい」というものでした。これは金持ちであることを禁止しているのではなく、慈善や奉仕を奨めているのではなく、主が求めておられるのは「価値観の転換」なのです。
 この金持ちの議員は、生き方の中で人との関係を失い、彼にとって生きる目的を果たせば果たすほど喜びを見失っていったのです。さらに、自分を必要としている他者の存在はなく、必要とされる自分もありません。「受けること(得ること)」を追い求める中で忘れているものがあり、「決定的に欠けている一つのこと」は自分を必要としている他者と出会うことだったのです。大切なことは、獲得(受ける)ことではなく、失う(与える)ことを通して得る人との関係なのです。
投稿者 heian 時刻: 16:15 0 件のコメント:
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2017年9月25日月曜日

2017年9月10日

2017年9月10日 主日礼拝説教要旨
「新しい権威ある教え」 宇野 稔牧師
ルカによる福音書4:31~37節
 故郷ナザレで人々の怒りを買って殺されそうになるという事件があり、イエスはカファルナウムにやって来ます。イエスの宣教の本拠地とも云われています。安息日に礼拝があり、そこで会堂に入って聖書について人々に教えるのですが、「その言葉には権威があった」と記されています。しかし、具体的な内容については何も語られていません。「人々は非常に驚いた」のですから、今まで聞いていたものとは全く違う教えだったということでしょう。その中身を考えるためにルカが書いているのが「汚れた霊に取りつかれた男が癒される」という物語です。
 古代ユダヤ人が「汚れた霊」と云う言葉でイメージするのは、人間の心と体に悪いことを生じさせる、目に見えない力のことです。パウロはガラテヤ書5章19節で数多くのリストを上げ、その他この類のものと云っていますが、人間が居るとトラブルがあり、これは日常茶飯事ではないかと云うのです。根本的には危険が人間全体を襲っていることのサインだと云うのです。つまりこの物語を読む時に私たちはこれを客観的に見ている人間の一人として読んでしまうのですが、実はこの汚れた霊につかれている人は私たちだということです。
 人間は「汚れた霊」に支配されているのです。私たちの日常は「汚れた霊」に襲われるような生活をしているのです。自分が傷つき、相手を傷つけるような生き方をし、それを嘆き苦しみながら生きているのではないでしょうか。ところが今日の聖書は、イエスが言葉を語ると、人は悪魔から解放されて生きるようになったと云うのです。それはどんな言葉だったのでしょうか。それはルカ福音書6章20節以下の山上の説教だったのではないかと考えています。それは本当に驚く言葉であり、信じられないような言葉でした。この信じられない宣言が力をもつのは「神があなたを愛しておられる」という事実があるからなのです。この新しい基盤に立ちましょう。

投稿者 heian 時刻: 21:18 0 件のコメント:
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2017年9月11日月曜日

2017年8月27日

2017年8月27日 主日礼拝説教要旨
「良物件」 桝田翔希伝道師
マタイによる福音書 12章43~45節
福音書の中でイエスは様々な奇跡を起こします。目の見えない人を癒したり、悪霊を追い出したり、様々な奇跡が福音書の中で語られています。福音書の中で、イエスの奇跡は一瞬でなされることが多いです。しかし、この聖書箇所でイエスはそのような奇跡によって悪霊が出て行ったとしても、その後のことの方が本当は大切なのだと語っているのではないでしょうか。44節では家の中は整えられていたとありますが、この「整える」という言葉は、飾り立てるとも訳せます。私たちは普段、自分をよく見せようとしたり、プライドや誇りを持ちながら生きていることは、当然のことと言えると思います。しかし、この箇所では自分を飾り立てたりよく見せようとすることは結局、中身が空っぽで悪魔の住むことが出来る良い家になってしまう、何かが最後まで住み続けていないといけないと語るのです。
沖縄に生まれ反戦活動に取り組まれた阿波根昌鴻さんは、伊江島に農民学校を創ろうとしていた中で沖縄戦が起こり、息子は死に、学校を立てようと思っていた土地は米軍に取られました。彼はそのような中で、反戦地主という活動に取り組みました。米軍に奪われた土地を軍用地として契約することに対して反対する活動です。そのような反戦地主に対して政府はあの手この手で圧力をかけ、復帰当初は3000人もいた反戦地主はわずか5年の間に400人足らずまで減ってしまったのです。そんな中で阿波根さんは「ただ一人でも最後まで耐えるなら、勝利は絶対確実である」と語り、不屈の精神を貫き通したのです。
年々、クリスチャンの人口が少なくなっているこの頃にあって、教会以外の生活の場で私たちはマイノリティになります。しかしそんな状況でも、自分が最後の一人になったとしても、自分を飾り立てて良い家に見せるのではなく心に何を宿すのか、何を貫くことが出来るのかということが問われているのではないでしょうか。

投稿者 heian 時刻: 20:51 0 件のコメント:
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2017年9月3日

2017年9月3日 主日礼拝説教要旨(振起日)
「弱さを抱えるあなたでいい」 宇野 稔牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ12:7~10節
 パウロは7節で「わたしの身に1つのトゲが与えられた」と云っています。このトゲは病気と解釈されますが、病気はパウロ自身だけでなく周囲の人々にとっても「試練」であったことです。一般的には「さげすんだり」「忌み嫌われる」可能性があったことが分かります。この苦しみが取り除かれるようにパウロは3回、主に祈ったと云うのです。3回祈るということは、イエスのゲツセマネの祈りを思い起こさせる言葉でもあります。「神様、どうかこの苦しみを去らせて下さい。取り除いて下さい。」しかし、それに対する神の応えは9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分発揮されるのだ。」というものでした。人間の弱さを神が必要としているのだと語りかけるのです。しかし、私たちの生きる社会は、その思想とは逆で動いています。弱いところイコール悪いところとして数え上げます。人間は弱さや悪いところを見せないように、取り繕おうとします。他人の前に常に良い自分であろうと努力します。弱さを持たない人など一人もいません。
 パウロは9節で「キリストの力がわたしの内に宿るようにむしろ大いに誇りましょう」と云います。誇るという言葉は「信頼を寄せる」「願いを託す」という意味があります。だからパウロは「自分の弱さ」をないものと考えたり卑下するのではなくそこにこそ願いを託してみよう、弱さこそキリストが用いて下さるのですから。
 私たちの人生は、全てうまくいくわけではありません。しかし私たちが挫折したように感じることがあっても自分の足りなさを嘆く時も、神が全てを完成させて下さるのだから満足することさえできるのです。パウロは力強く語ります「わたしは弱いときにこそ強いからです」この強いという言葉は神の力を表す「デュナトス」が使われています。私たちの弱さは余計なものではなく、私たちの弱さが神につながっているのです。イエスの十字架は私たちを愛するものです。弱さを抱える人に、もう苦しまなくてもいいよと伝え、自分の弱さに出会う時、それは神と出会うのです。
投稿者 heian 時刻: 20:48 0 件のコメント:
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2017年9月3日日曜日

2017年8月20日

2017年8月20日 主日礼拝説教要旨
「人は赦される」 宇野 稔牧師
マタイによる福音書 12章22~32節
 イエスがファリサイ派から罠にはめられそうになる、そんな場面です。この物語の前で、安息日に片手の萎えた人を癒したことがきっかけになり、イエスはファリサイ派から命を狙われるようになるのです。ファリサイ派の人々はイエスを理解することよりも排除すること、つまり殺すことを計画しています。
 22節に目が見えず話すこともできない人は、ファリサイ派に利用され連れてこられたのかもしれません。しかし、この人が癒された時、ファリサイ派の人々は24節で「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と云っています。つまり「イエスは悪霊の頭と同等であり人々を癒し祈るようにみえるけれど、自作自演にすぎない」と云っているのです。そして、ファリサイ派は益々腹を立てて、イエスを悪霊に仕立て上げようとしたのに自分たちの矛盾を指摘され、自分たちでその矛盾を認めざるを得なくなったのです。さらにイエスは31~32節で赦されることと、赦されないことがあるといい、本来これは赦しの宣言であります。
 私たちは主の祈りをします。赦すことが大切だと分かっていながら、赦せない出来事があるのも事実です。怒りと憎しみで心がいっぱいになる時があります。怒りと憎しみは他者から与えられるように思えますが、それは自分自身の心の中から湧き上がってくるものです。人は許し合うよりも怒りの原因を責め、取り除こうとします。何と悲しい生き方なのでしょうか。これが人間の抱える罪です。
 けれどもイエスは、人は赦されると宣言されます。赦せない思いを抱いたまま生きる私たちを、神は赦して下さるのです。十字架は人間の罪の象徴です。無実な人を殺してしまうほどの罪です。けれども同時に十字架は、その人間を愛する神がいることを教えているのです。愛に押し出されて生きるのです。
投稿者 heian 時刻: 23:30 0 件のコメント:
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2017年8月27日日曜日

2017年8月13日

2017年8月13日 主日礼拝説教要旨
「恐れるな」 宇野 稔牧師
マタイによる福音書 10章26~31節
 15日は終戦記念の日です。さらに6日と9日は日本に原爆が投下された日です。色々な思いでいっぱいですが、一言で云うならば、二度と戦争を起こしてはならないという心に誓うのです。
 この聖書箇所では、マタイ教会の人々がローマの人々からも同胞のユダヤ人からも差別され迫害されています。マタイによる福音書はそのような時代背景のもとで書かれました。ここで「恐れるな」と何度も呼びかけられていますが、「差別されることを恐れるな」という意味です。何故なら彼らは体を傷つけることが出来ても、魂を傷つけることはできないのだからと云います。しかしながら彼らが恐れていたものは、ローマ人やユダヤ教の人だけでしょうか。私は彼らの恐れは自分自身を恐れていたように思うのです。差別され、怒りと恨みに支配される自分に、愛の実践から遠く離れていく自分に、困難な状況に絶望する自分に恐れていたのではないでしょうか。
 水野源三さんの詩の中に、「砕いて砕いて砕き給え」というものがあります。神のうちに生かされているのに自分一人で生きていると思い続ける心を、また神に深く愛されているのに他人の小さな過ちさえも赦せない心を。この詩の中に私たちが恐れているものが表されているように思います。しかしそれでも神は「恐れることはない」と云われます。神は人間の醜さも弱さも愚かさも全てご存知の上で、もう恐れる必要はない、その姿勢は神の前に自分を差し出すことです。自分ではどうすることもできない自分自身を、砕き給えと差し出すことなのです。
 イエス・キリストは素晴らしい人のために十字架に架かったのではなく、欠けの多い私たちのために十字架につかれたのです。私たちはもう恐れる必要はないのです。この弱さを知っても大切だと云って下さる神に、それでも愛していると云って下さる神に、今生かされているのですから。〈平和の道具〉としてならせて下さい。(499番)
投稿者 heian 時刻: 18:23 0 件のコメント:
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2017年8月22日火曜日

2017年8月6日

2017年8月6日 平和聖日礼拝説教要旨
「小さいものに気をつけよ」 榎本栄次牧師(関西セミナーハウス)隠退教師
マタイによる福音書 18章10~14節
 日本基督教団では毎年八月第一聖日を平和聖日として世界平和のために共に覚え礼拝することとされています。戦争責任の告白に基づき、もう再びあの戦争の過ちを繰り返さないという決意であり、私たちの信仰の告白でもあります。
 さて主イエスは、「天国でだれが一番偉いのですか」(18:1)と問う弟子たちに「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と忠告します。つづいて、有名な「99匹と迷い出た一匹の羊」の話をされました。「迷い出た一匹を探しに行かないだろうか」と尋ねます。この疑問形は「必ず行く」という強い肯定文です。
 しかし「本当に探しに行くでしょうか」私は行かないのではないかと思うのですが、皆さんはどうですか。「あの一匹さえいなければ」「いなくなって良かった」とつい考えます。「立派な」教会をつくるために今はいけないとするのではないでしょうか。去年の7月26日に相模原の障害者の施設で19人の障害者が殺された事件がありました。加害者の青年は「このような人たちはこの世に害をもたらすだけだから、いない方が世のためだ」と強弁して止めない。彼のことをヒーローにしようとする人も少なくないそうです。今の政治姿勢はそのような「倫理」が支配しているのではないでしょうか。
 ナチスドイツでは障害者から先にガス室に送られたそうです。理由は「健康で立派な社会を作るため」です。南京大虐殺の時、日本ではちょうちん行列で祝いました。ここで恐ろしいのはヒットラーや日本の軍国主義者ではなく、その時同じところで知らない顔をして「清らかな敬虔な」礼拝ができている一般人ではないでしょうか。
 「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(9:13)とイエスは言われました。今日、高齢化して教会の危機が叫ばれていますが、それは主が言われる「小さいものに気をつけろ」という言葉を聞き違えているのではないでしょうか。いっぱい救いを求めている人がいます。主と共にそこに出かけましょう。
投稿者 heian 時刻: 21:00 0 件のコメント:
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2017年8月15日火曜日

2017年7月30日

2017年7月30日 主日礼拝説教要旨
「イエスの恵みがあるように」 宇野 稔牧師
フィリピの信徒への手紙 4章21~23節
 21節の「聖なる者たち」とは、清廉潔白な人を指す言葉ではなく「神に愛され」「神に導かれている」人間という意味です。人間一人ひとりは決して完璧な者ではなくむしろ欠けの多い存在です。その人間の性質によって「聖」なのではなく、そのような私たちに神の愛をもって関わって下さるという意味において「聖なる者」なのです。その私たちと神がどのように関わっているかを示すために「キリストイエスに結ばれている」という言葉が書かれています。
 人間的には弱く、もろく、歪んだ私たちであるにもかかわらず、キリストイエスの十字架と復活に結ばれていることによって「神のもの」とされ「聖なるもの」とされたのです。教会に集う私たちは、キリストに結ばれるから教会に連なり、仲間となり、友人となっているのです。これが原点なのです。苦しい時も励まし合い、感謝し、喜びあえるのはお互いにその原点を持っているからです。これこそが教会という交わりの中心だということを、パウロは最後にもう一度フィリピの信徒に伝えているのです。それは同時に私たちに告げられていることでもあります。
 教会では、弱くとも、もろくとも、歪んでおろうとも神に選ばれてここにいるということに最大の価値が置かれるのです。そこで大切なことは祈ることです。パウロは「よろしく伝えてください」「よろしくと云って下さい」と語っています。聖徒から聖徒へ、イエス・キリストの十字架によって生命を与えられたのだから「よろしく」というのはあなたのことを祈っているとのことです。
 投獄という状況、明日をもしれない状況の中でもパウロは使徒としての使命を果たしていました。しかもそれはパウロ自身が思いも及ばないところで自分が用いられて、キリストが宣べ伝えられているということを経験するのです。孤独ではないのです。締めくくるに当たってキリストの恵みがあなた方の霊と共にあるようにと結んでいます。存在の根源的なところ、深い土台のようなところにという意味であります。
投稿者 heian 時刻: 21:33 0 件のコメント:
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2017年8月7日月曜日

2017年7月23日

2017年7月23日 主日礼拝説教要旨
「深遠な愛」 宇野 稔牧師
ローマの信徒への手紙 11章33~36節
 パウロは神を讃美しています。つまりここでとても感動しているのです。その内容は33節「神の富と知識と知恵の何と深いことか」、つまりパウロは神の富、神の知恵、神の知識、この3つのものに感動しているのです。先ず神の富とは、どんなものでしょうか。富とは「豊かさ」のことです。私たちは金銭的であれ、「豊」であることを求めています。しかし神は「貧しくなる」ことによって豊かになられたのです。即ち、神であることを捨てて人間となり、貧しく飼い葉桶の中に身を置いてくださったのです。貧しくなられて私たちと分かち合うことを選んでくださったのです。それが神の豊かさでした。その豊かさをもたらしたものが「神の知恵」でした。しかし、私たちの知恵は自分の欲ばかり考えているのが現状です。
 そのような人間の知恵に対して、神の知恵は他の存在のために自分を捨てることを決断するのです。愛を貫いて死に向かうのです。それが本当に豊かな絆を生み出していくのです。ペトロを、パウロを、世界を、変えていったのです。そこには神の知識があります。知恵と知識を明確にするために「認識」と考えます。私たちはそういう認識からすると、神の前にある人間の姿はあまりにも価値のないものであり、捨てるべき存在でしかなかったものです。しかし神の認識は、人間の現実を知りつつ、人間を愛すべき存在と認識して下さったのです。憎むべき存在ではなく、捨てるべき存在でもなく、救うべき存在であると認識されたのです。
 少なくともその理由は人間の側には一切ありません。ただ神が、認識し、判断し、決断して下さったのです。本来捨てるべきものを愛すべき存在として認識して下さったその神の知識にパウロは感謝しているのです。ただ神がこの教会に集う群れと共にあって、神の知識をもって「愛すべき群れ」として育てていくために「神の知恵」をもって神自身が貧しくなって神の富と豊かさを私たちに与えて下さったのです。
投稿者 heian 時刻: 22:10 0 件のコメント:
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2017年8月1日火曜日

2017年7月16日

2017年7月16日 主日礼拝説教要旨
「愛に根ざし、愛に立つ」 宇野 稔牧師
エフェソの信徒への手紙 3章14~21節
 祈りというのは不思議です。一人でも、大勢でも、家でも、病院のベッドでも、パウロのように獄中でも祈ることが出来ます。どのような状況に陥っても、祈る事だけはできます。祈りを私たちから取り上げることはできないのです。今日のところで1つ目の祈りは17節で「心の内にキリストを住まわせ愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さいますように」とあります。愛に根ざし、しっかりと立つとは、イエス・キリストの生き方に根ざし、イエス・キリストのいのちに立つ者ということです。マタイ27章41~43節ではイエスと敵対していたメンバーでさえ、イエスが他人を救ったことを認めているのです。他者を救ったのに自分は救えない。そこから見えるイエスの生き方とは、他者のために生きるという生き方なのです。
 他者のために生きたキリストが十字架に架かり、自分を守るために生きる人間が十字架のもとであざけっている。それは2千年以上の昔の話であるにもかかわらず、今の私たちの生きる世界のようです。他者のために懸命に生きようとすればするほど、あざけられる、無駄だと云われる。まず自分のことをすればいいのにと云われる。私たちは他者の弱さを自分の課題とすることは、神が教えて下さった生き方であるにも関わらず、人に褒められるどころかさらなる困難に出会います。しかし、この手紙の著者は信仰によってそのような生き方が出来ると書いています。信仰によってとは、あきらめずに祈り続けるということです。イエスも息をひきとる間際に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と祈るのです。
 人から見たら、神に見放されたように見える死です。しかしこの物語は、どんなに辛い時にも、苦しい時にも、最後の時にも、私たちには祈ることが許されているということが示されています。そしてこの悲痛な祈りをイエスも経験して下さっているのです。困難な時、神がどこにいるのかと問う時、なぜ助けて下さらないのかと問う時、叫びのような祈りを上げる時、神はその祈りの中心にいて下さるのです。
投稿者 heian 時刻: 16:30 0 件のコメント:
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2017年7月24日月曜日

2017年7月9日

2017年7月9日 主日礼拝説教要旨
「法律に書いてますか」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書10章25~37節
皆さんは2003年に起こった「連続大量差別ハガキ事件」というものをご存知でしょうか。この事件は約1年半の間に400以上もの差別ハガキが送られてきたもので非常に悪質なものであります。私はこの事件を、300近い差別ハガキを受け取った被害書本人の講演の中で初めて知りました。その時、何とも言えない怒りが胸の中に湧き上がってきたことを今でも覚えています。
 さて今日のテキストは良きサマリア人のたとえ話と呼ばれる個所です。ある旅人がエルサレムからエリコに向けて歩いている途中で旅人は強盗にあい、半殺しにされてしまいます。サマリア人はなぜ倒れている人を助けたのでしょうか。33節でサマリア人は倒れた人を見て「憐れに思った」から近寄って行ったと説明されています。この箇所をギリシャ語で見てみますと「スプランクニツォマイ」という言葉が当てられています。この言葉は内臓を意味する単語で昔の人たちは感情というものは内臓から出てくるものであると考えていたそうです。
 このたとえ話の中では二つの考え方があります。それは祭司やレビ人のように、決まり事や法律に従う考え方と、サマリア人のように感情に従う考え方の二つです。私たちは法律には従う一方で法律だけを守って生きていいればよいというものでもありません。日本の法律では部落差別そのものを裁くものがありません。この事件も差別そのものを法律で裁くことは難しかったのです。
 イエスは、サマリア人のようにしなさいと言いました。私たちの身の回りには部落差別をはじめ多くの差別が今もなお存在しています。誰も何も言わなければ部落差別は忘れられて、なくなっていくように感じることもあるかもしれません。しかし、差別が忘れ去られるということは、差別は差別のまま無くなっていく、つまり差別によって傷つけられた人の痛みもそのまま忘れ去られていくということなのです。サマリア人がしたように、人の痛みを感じ心を動かすことからすべては始まるのではないでしょうか。痛みに寄り添い、「いたわる」ところにイエスの宣教があるのではないでしょうか。
投稿者 heian 時刻: 10:51 0 件のコメント:
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2017年7月18日火曜日

2017年7月2日

2017年7月2日 主日礼拝説教要旨
「神の豊かな恵みの中で」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章15~20節
 フィリピ書の最後となりました。19節に「わたしの神」という言葉がありますが、これはパウロ独特の言い回しです。神のことを「わたしの神」というのは不遜のような気がしますが、パウロと神がそれほど日常的な密接な関係があるからで、言わば自然の流れで出てきているのです。19節に「必要なものは全て」という表現がありますが、私たちの多くの祈りは「必要なものを求めて」祈るのですが全て満たされているわけではありません。ここで云っているのは、自分が必要だということではなく、神が必要とされているものが与えられるということです。それこそ実は本当に自分が必要としていることだというのです。
 パウロの「必要なものは全て満たして下さった」という表現が素晴らしいのです。そこには「生きていてよかった」という充足感が表現されています。あらゆるものに優って私たちを充足させるものとは、神が必要として私たちに与えて下さるものなのです。それはこの地上のあらゆる宝に優るものなのです。だからパウロはその素晴らしさを「ご自分の栄光の富に応じて」と表現したのです。この宝はパウロが偉大な信徒だから受けることが出来たのではなく、教会に云っているのです。つまり、教会の人々に、私たちに告げられているのです。神は私たちにも御自身の栄光の富を分けて下さるのです。それは「キリスト・イエスによって」という言葉で表されています。神が私たちに与えて下さったものは何でしょうか。それは「生命」です。そして命を捨てても良いほどに愛するということです。必要なもの全て満たされていると感じながら生きるということが出来るのです。そして20節は讃栄の言葉です。パウロは神を讃える言葉で締めくくっています。
キリスト者の特徴を一言で云うと「喜び」ではないでしょうか。世界の中で「自分は神に愛されている」ということを他の人に先駆けて知っているのですから。ですから、「喜びなさい」と語られるのです。
投稿者 heian 時刻: 21:41 0 件のコメント:
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2017年7月11日火曜日

2017年6月25日

2017年6月25日 主日礼拝説教要旨
「平和の神が共にいる」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章8~9節
 この書を書いた使徒パウロは、元々キリスト教徒を迫害する人物でした。それがキリストに出会って劇的な人生の変更をした人物なのです。迫害者からキリストのことを宣べ伝える人物となったのです。それ以来は全力で世界中を駆け巡り、イエスこそがキリストであると宣べ伝えて来ました。ですがそのような活動は、順風満帆と言えない時も多々あったに違いありません。しかしパウロは自分の人生について「喜んでいる」というのです。しかもこの手紙を書いている時は牢獄に入れられていたのです。パウロはフィリピの教会宛てにこう書いています。「すべて真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさい」と云うのです。
 この世界に果たしてそんなものがあるでしょうか。騙されているということは「これこそ真実なことだ」と思っていたのに、それがウソだということでしょう。だから私たちは苦しみ、辛く涙を流すのです。しかしパウロは、この世界にそれらがあると証言します。それは人間のことではなく、人間として生きて下さったイエス・キリストのことです。確かに裏切られ、だまされ、どうしようもない立場に追い込まれてしまった時、そして恨みや妬みが胸をかきむしるような時、「イエス・キリストのことを心に留めなさい」と云うのです。
 パウロは獄中で死を目前にしながらも、死への恐怖を感じさせない、それでいて穏やかな愛に満ちた手紙を書いたので、フィリピの信徒への手紙は「白鳥の手紙」とも表現されます。私たちの人生は何があるかわかりません。ヨハネ12:24「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒の麦のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」とあります。哀しみは変わらない、しかし、その哀しみの闇に光を与えることの出来る方、それが神なのです。イエス・キリストなのです。イエスを思う時、そしてイエスの御心を生きる時、神の平和があなた方を包むのです。
投稿者 heian 時刻: 5:34 0 件のコメント:
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2017年7月3日月曜日

2017年6月18日

2017年6月18日 主日礼拝説教要旨
「主の平和を生きる」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章2~7節
 先ず2人の名前が挙げられています。この女性たちはかつては共に歩んでいたが、意見の違いから教会を離れていたようです。でも、パウロはこの2人を「支えて上げて下さい」と願うのです。もう一度イエスの前に戻れるようにと語っています。それに続いて「喜びの勧め」が語られますが、主において喜びなさいと云うのです。即ち、主イエスは私たち一人ひとりを愛して下さっているその事実に立ちなさいと語っているのです。
 私たちは哀しみや辛さを数えることは得意です。悔しさや不安で、眠れぬ夜を過ごすことも多々あります。しかし、パウロは「患難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む!」(ロマ書5:3~4)と云ったのです。この違いは何でしょうか。それは、パウロは愛されているという事を確信していたという1点です。だから「主はすぐ近くにおられます!」と語るのです。主において喜ぶこと、喜びの力とは、患難を希望に変える力なのです。憎しみを赦しに変える力なのです。
 キリスト者とは、その喜びの力を神からいただいていて、そして主の愛において希望を持つのです(6節)。「思い煩うな」は招きの言葉です。信仰に立って大胆に愛し、赦し、善を行うのです。そして私たちをその大胆な決断へと押し出す力、それが「祈り」です。パウロはどのような祈りをしていたのか、「感謝、願い、打ち明ける」という単語です。
 祈りには、私たちの目の前にあるどうしようもない現実を変える力があります。それでも変わらないかもしれませんが、自分を捉えて放さない心の鎖を解き放つ力があるのです。そこに神の世界が開かれていくのです。
 主に愛されていることを喜ぶこと、神の力を祈り求めること、それによって私たちは人知を越える平和と出会うのです(7節)。私たちの思いを越える平安の中に置かれるのです。そのことによって群れは守られるのです。


更新しています...

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2017年6月28日水曜日

2017年6月11日

2017年6月11日 主日礼拝(子どもの日・花の日)
子どもの教会と合同礼拝 説教要旨 宇野稔牧師
「イエス様と私たち」 マルコによる福音書10章13~16節
イエス様は木の下に腰を下ろして一休みしておられます。ガリラヤ湖からそよ風が気持ちよくみんなのほほを撫でていきます。毎日毎日忙しくされるので、お弟子さんたちはイエス様に少しでもお休みの時を作って、お疲れにならないようにと考えての事でした。イエス様の日常は泣いている人や病気の人のそばに行って「泣かなくてもよいよ、元気を出してね」と励まし、お話を聞かせてくださいと云って人々が集まってくると一生懸命にお話をされるのです。夜になると一人でお祈りをされていたのです。
 するとその時、向こうの方から大勢の人がこちらにやって来ます。走り回って騒ぐ声や、泣き声、大声がだんだんと近づいてきます。そこでペトロさんが立ち上がってこう云いました。「静かにしてください。イエス様がお休みなんです。」と。すると「でも、私たちはイエス様にお会いしたいと思って来たのに」とお弟子さんと女の人たちとが云いあっている間も子どもたちは嬉しそうに走っています。
 その時イエス様が立ち上がってやって来られたのです。「およしなさい。せっかく向こうの村から来た人ではありませんか。お迎えしましょう。」神様の国はこのような子どもたちの国なのですよ。色々と心配したり、云いあいをする大人のようではなく、子どもたちのように何もかも神様に任せて楽しく過ごしていることが大切なのです。そしてイエス様は手を上げて子どもたちをお呼びになりました。イエス様は泣いていた子どもたちも抱き上げて優しくお話をされました。「みんな良い子になるんだよ、美しいお花のように、神様のお喜びになる光の子どもになるんだよ。みんながこれからの世界をつくり、神様のお喜びになる世界を作るのだからね。」
 子どもたちはうれしくなって、静かにイエス様のお話を聞いていました。気持ちの良い風がみんなの頬を撫でていました。
投稿者 heian 時刻: 7:19 0 件のコメント:
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ラベル: (N02)マルコによる福音書

2017年6月23日金曜日

2017年6月4日

2017年6月4日 主日礼拝説教要旨
「聖霊に満つ」 宇野 稔牧師
使徒言行録2章1~11節
 「五旬節の日が来て」とルカは書き出していますが、ルカにとって大切だったのは「その日が来た」ということにあります。その日というのは「五旬祭」ということではなく「神の定めたその日」が来たということです。ルカは「時が満ちる」という表現を使います。この世界を動かしているのは「神の時」だということです。そして私たちは神の時が満ちるのを待ち望んでいるようにと呼びかけています。教会は神の時を待つ存在なのですから。ただ黙って座して待つのではなく、嵐の中に身をさらしながら、嵐の次に訪れる光の時を指し示すような姿です。
 同志社の創設者である新島襄は「庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く」という詩を残しました。これは逆境の中でも理想を求め待つ自らの姿が重ねられています。神の時を待ち望むキリスト者とはこのような存在なのです。弟子たちは主が約束して下さったその時を祈って待っていたのです。そこに聖霊が降るのです。神の出来事、神の時です。教会はこの世の中にあり、小さな存在かもしれません。強大で永遠不滅のように見えるローマ帝国が迫害しているという状況の中で使徒言行録は書かれています。それに対して教会が持っているものはただ一つでした。「希望」です。「神の勝利を信じる」ことです。それを待ち望むことです。
 「希望」とは将来を信じる心です。その根拠になるのは「たとえ今苦しくとも、自分には存在の意味がある」という確信です。この世界がどのように見えようとも神はあなたを必要としている。あなたが生きていることの意味、苦しんでいることの意味があるのです。私たちがなすべきことは、時がよくても悪くても神の時を待ち望むことなのです。
 寒梅が風雪の中で笑って咲くように、私たちもこの矛盾だらけの世の中で笑って真理を示して行こうではありませんか。神の時が満ちる時、私たちは聖霊に満ち、喜びにあふれて生きる勇気を得て歩むことが出来るのです。
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ラベル: (N05)使徒言行録

2017年6月12日月曜日

2017年5月28日

2017年5月28日 主日礼拝説教要旨
「しっかりと立ちなさい」 宇野 稔牧師
フィリピの信徒への手紙3章17~4章1節
 4章1節は3章のまとめというだけでなくフィリピ書全体のまとめであるとも考えられます。先ず目に付くのは「愛し」「慕っている」「冠である」というパウロの言葉です。過剰な表現であるという感じは否めませんが、それほど感極まってこの手紙を書いているのでしょう。故に、1節はパウロの思いがこもっているわけです。
 それにしてもフィリピの教会の人全てを愛しているとは云い難いのではないでしょうか。中には意見の合わない、パウロに反対する人もいたに違いありません。「すべての人を愛する」と聞いて、「それは理想論に過ぎない」と反射的に思い「わたしは全ての人を愛せるほど強くない」と自己弁護するのです。イエスは、私たちに何も資格がないのに私たちを愛して下さったのです。それは十字架によって示されているのです。それは能力のあるものを愛する愛ではなく、資格のないものを愛する愛なのです。そしてその神に従うならば、相手の状況や相手の事態ではなく、それを越えて「愛し合う」というのがキリスト者なのです。パウロの言葉はその信仰に基づいています。人間として生きる時、私たちは他者をなかなか愛することが出来ません。しかし、もし私たちがイエス・キリストの前にまっすぐに立つ時自分の好き嫌いを越えてすべての人は「愛するもの」であり「喜び」であり「冠」であるのです。なぜならばその人もまたイエスに愛されているからです。時に「赦せない」「愛せない」という思いに駆られる時、イエスによってすでに赦されており、愛されているという事実の前に立っているのです。
 フィリピの教会は、大きな群れではなくむしろ小さな群れでした。しかし決して臆することはないとパウロは云うのです。どんな困難な状況にあっても「しっかり立って」と勧めています。イエスの福音に生きイエスの愛を知っている以上この世界のどんな力よりも大きな出来事なのです。イエスの愛を心に携えて出ていくのです。「愛する者よしっかりと立ちなさい」イエスからの約束の言葉です。
投稿者 heian 時刻: 8:53 0 件のコメント:
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2017年6月5日月曜日

2017年5月21日

2017年5月21日 主日礼拝説教要旨
「風は止み、凪になった」 宇野 稔牧師
マルコによる福音書4章35~41節
 この箇所は一読すると、「イエスが自然の力をも従わせる権威をもっている」ということを伝えるための奇跡物語であると読めます。確かにそうした意味があることは間違いありません。しかし単純にイエスが自然を支配する力を持っているというだけでは現代を生きる私たちにはあまり重大な意味はないでしょう。この物語はもう一つの大切な意味を含んでいます。
 それを読み解くキーワードは41節の「従う」という言葉です。自然を教会が意のままに操ることが出来るということではないことを私たちも経験上知っています。船は教会共同体を指していると考えてよいでしょう。この船はイエスの命令によってガリラヤ湖の向こう岸に向かって出発します。イエスが集めた人々が乗っているのです。
 教会はイエスによって始められ、築かれてそこに人々が集められたのです。向こう岸という目標に向かって歩みだしているのです。私たちは神が出発を導いたのだから、事柄は順調に行くと考えがちです。しかし、現実の教会はそうではありません。問題が起こり、トラブルも存在します。それに加えて教会は国家からも民からも迫害を受けようとしていたのです。その悲鳴は祈りとなり「主よ、助けてください。溺れそうです」と、その時イエスが「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者よ」と語りかけています。この言葉は叱責ではなく困難に直面している人々(教会)を励ますための言葉だと解釈できます。
 この物語で確かに、イエス自ら風と湖を叱ると、風と湖も収まってしまうのです。そのイエスが船に同乗して下さっているのです。そのイエスが私たちの教会と共に歩んでくださっているのです。そこにこそ、私たちが困難に立ち向かう力の源泉があります。
 これは不信仰を叱責しているのではなく、困難の中にあっても右往左往している教会が希望を失わず、イエスと共に歩み続けるように励ます物語なのです。教会は2千年の歴史をこの希望によって歩み続けてきたのです。一歩進んでみましょう。


投稿者 heian 時刻: 21:49 0 件のコメント:
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2017年5月29日月曜日

2017年5月14日

2017年5月14日 主日礼拝説教要旨
「世を愛される神」 宇野 稔牧師
ヨハネによる福音書3章16~21節
 ニコデモという男とイエスとの出会いが対話で語られている場面です。イエスはニコデモに対して「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と云います。この「世」という言葉は被造物全体、つまりこの世界全体を指す言葉でもあります。そのほとんどは「神に対立、反抗する世界や勢力」を指しています。神という愛に対抗するこの世の力、神の愛をないがしろにする思い、それらを指して「世」を読んでいます。
 だから、イエスはニコデモに向かって「神様は独り子をお与えになったほどにあなた(ニコデモ)という今、私と対立している……つまり、この世に倣おうとする存在を愛された」と語っているのです。そのことを聞いたニコデモが、その後どうしたのか詳しいことは書かれていません。しかし迷いと確信との間を行ったり来たりしながら気がついたことは、自分に新しい価値観が生まれたということなのです。それが「世を愛する」という生き方なのです。自分に敵対しようとする、また愛に敵対しようとする、その存在すらも愛するという生き方です。それは実にイエス・キリストそのものです。
 私たちも、迷いと確信との間を揺れ動く旅を続けています。はっきりと信仰を言い表せないこともあります。むしろ、神の思いに逆らっていることの方が多いかもしれません。本当に神が愛であると信じていいのか、と疑いたくなるような暗闇に落ちていきます。しかし、暗闇の中を歩むうちに、世をも愛される神に出会うのです。神は私のためにその独り子を「神との対立」の中に遣わし、その独り子は私自身の「神との対立」の故に十字架にかかって下さったのです。この世に流される弱さや絶望の中で働いて下さり、それ故に十字架について下さるのです。世に生き世にある私たちをそれでも愛して下さる主に信頼して歩みましょう。
投稿者 heian 時刻: 20:45 0 件のコメント:
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2017年5月26日金曜日

2017年5月7日

2017年5月7日 主日礼拝説教要旨
  「派遣」 宇野 稔牧師
  マルコによる福音書16章14~20節

9節以降は後世の人たちが復活の証言の記事が必要であることを考えてマルコに追記したものです。故にこの所は使徒たちの復活の証言であると考えられるのです。
 14節に食事をしている時とありますが、復活のイエスと弟子たちが初めて出会う場面設定としてはあまりにも日常的で舞台不足ではないでしょうか。弟子たちはイエスを裏切り見捨てたのです。その彼らが食事している場に復活のイエスが現れたのですから、弟子たちは恐ろしさのあまり身構えたに違いありません。案の定、イエスは彼らを激しく叱責されます。しかしそれは、弟子たちがイエスを見捨てたことでも裏切ったことでもなく、弟子たちの不信仰と頑なな心を叱られたのです。失敗した過去を責めているのではなく、今のことを問うて、どうして私の愛を信じないのか、どうして私を信じないのかと叱責されたのです。そして、15節の派遣の言葉が語られるのです。弟子たちの弱さを知りながら「それから」という「順説接続詞」でつなぎ、あなたを派遣するとあります。普通に考えれば「弱いけれど派遣する」、すなわち逆説接続詞でつなぐと考えるのですが、イエスは不信のあなたを、そういう弱さを持っているあなたをそのままに派遣すると宣言されたのです。私はこれが弟子たちに伝えている復活のイエスとの内容だと思うのです。
 復活のイエスは、私たちの日常生活の中におられます。泣いたり、怒ったり、憎んだり、赦したり、そんなことを繰り返す日常生活のただ中にいて下さいます。そして、自分の弱さや涙を流している時にも、復活のイエスとの出会い生きるのです。「そのままのあなたで良いのだ」と。その私を派遣して下さっているのです。
投稿者 heian 時刻: 18:17 0 件のコメント:
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2017年5月15日月曜日

2017年4月30日

2017年4月30日 主日礼拝説教要旨
  「魂の中に響くおとずれ」 宇野 稔牧師
  マルコによる福音書16章9~13節

 今日の聖書箇所は復活のイエスがマグダラのマリアに姿を現され語る場面です。彼女はガリラヤの湖畔のマグダラという町の出身で、7つの悪霊を追い出していただいたと表現されるくらい深刻な精神的病をイエスによって癒してもらっています。
 彼女は復活のイエスに出会います。そして他の弟子たちの所へ行き報告しますが、誰一人としてそれを聞いて信じなかったのです。そしてさらに我が身の哀れさに「彼らは泣き悲しんでいた」のです。
 ここには弟子たちの頑なさが現れています。さらにこれは弟子たちの頑なさだけではなく、私たち人間の頑なさでもあるのではないでしょうか。私たちは自分のことで悲嘆にくれます。嘆き、悲しみなどに力を使い果たし他のことに心が入って来ないのです。しかしながら、そんな私たちのためにイエスは復活して下さったのです。頑なで情けない私たちは恐る恐るですが手を合わすのです。「この弱い私を助けてください」と。
 非暴力主義の差別撤廃・平和活動に取り組まれたキング牧師は説教「我らの神の能力」の中で、執拗で暴力的な脅しに「これ以上、抵抗運動は続けられない」と思った時に神に祈ったと語っています。その時「正義のために立ち上がれ、神は永遠に共にいます」が心に響き、神の臨在を経験し、闘い続ける力をいただいたと証しされています。
 私たちが生きていく時、自分の力など全く及ばないという事態、苦難の中で希望が失われる時、私たちが心から主に祈る時に、逆に希望を与えて下さる神の言葉が私たちの魂に響くのです。そして、神共にいますことを経験するのです。復活の主に出会うことができるのです。復活の確信を抱き遣わされて、響き渡る叫びにしていきましょう。
投稿者 heian 時刻: 10:33 0 件のコメント:
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2017年5月8日月曜日

20171年4月23日

2017年4月23日 主日礼拝説教要旨
  「キリストは復活した」 宇野 稔牧師
   マルコによる福音書16章1~8節

 週の初めの日に3人の女性がイエスの埋葬された墓に行きます。葬りをするために香油を塗りたいと願ったのでしょう。しかし、イエスの墓は大きな石でふさいでいたので「誰があの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら墓に向かって行きました。すると、その石が横に転がしてあったので、驚いた女性たちは急いで墓の中へ入って行きます。
 すると若者が右手にいて6~7節と語ります。女性たちは震え上がり、パニックになり何も云えなくなります。それは恐ろしかったからだと聖書は語っています。
 今日私たちは、復活が実に恐ろしい出来事であると云うことを心に刻みたいものです。イエスの十字架は私の罪であり、イエスを見捨てたのも、裏切ったのも、十字架につけろと叫んだのも実は私自身だという現実に向き合う時、復活が「恐ろしい」出来事になるのではないでしょうか。
 それは復活という出来事が、私たちの理論をはるかに超える出来事であり、そして「この世界の真の支配者は私である」という神の宣言であるからです。
 人は「私は神を信じている」と言いながらも、心の底では自分を恐れています。その人間の思いがイエスを十字架につけたのです。復活は「真の支配者は神である」ということを決定的に見せつけたのです。私たちは間違った生き方をしていたのです。
 恐ろしい間違いを犯してしまったのです。その思いが女性たちの「恐ろしい」という思いではないでしょうか。
 しかし、驚くべき福音はここから始まります。真の支配者である神が愛の方だということです。主が「あなたの罪を全て赦す」と宣言して下さる方だということです。世界がひっくり返るような喜びです。復活と出会うということは、自分の罪と出会うことです。どうしようもない哀しい自分の姿と出会うことです。しかし復活の主は、その私を愛して下さるということこそ、私たちを救う良き知らせ、福音なのです。                                                                
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投稿者 heian 時刻: 20:15 0 件のコメント:
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2017年5月2日火曜日

2017年4月16日

2017年4月16日 復活日礼拝説教要旨
   「もう泣かなくてもよい」 宇野稔牧師  
    ヨハネによる福音書 20章11~18節
空虚な墓の前でマリアが経験した復活のイエスとの出会いとは何だったのでしょうか。
 ヒントになるのはイエスが行った「マリア」という呼びかけです。マリアはこの言葉で自分の話している相手が復活のイエスだと判った事からも明らかなように、この名前を呼ぶ行為は決定的な出来事でありました。
 古代文学では名前はその人の全人格・全人生を表すと考えられていました。イエスが「婦人よ」ではなく「マリアよ」と名前をもって呼びかける時、そこには「私はお前の全てを知っている。すべてを理解している。」という意味があります。神と出会う人は皆個人です。「アブラハムよ」「モーセよ」というふうに一人の人間として神の前に立たされるのです。一人になる時に初めて神とその人との関係が生まれてくるのです。イエス自らが呼びかけるということは、その人に依頼したいことがあるわけです。即ち「あなたを必要としている。私の目的のためにつかわす。」というメッセージだったのです。マリアが復活のイエスに出会った出来事は、自分にかけられている神の愛を知り、期待を知ったということでなのしょう。今まではマリアがイエスを必要として来たのですがイエスは全てを与え尽くされたのです。それが十字架によってこれ以上ないものを「すでに」与えられたのです。
ところが人間はそれに気づかないのです。マリアのようにさらに与えられることを望みます。私たちが十字架に気づくために、そして、自分という存在がそれほどまでに神に愛されており、神が必要としてくださっているということに気づくために主は「よみがえり」私たちと出会って下さるのです。私たちはその出会いによって、十字架は神の愛であり、自分たちが愛されている存在であり、つかわそうとされていることを知るのです。
イエスの呼びかけに答えて私たちが振り返る時、私たちの心の視線を神に向ける時、そのことが私たちの前で現実となり、復活の主との出会いが出来事として生じるのです。次の一歩へ歩みだす力となります。主は蘇られました。私たちの名を呼び、涙をぬぐって、遣わして下さるのです。    イースターおめでとうございます。
投稿者 heian 時刻: 19:33 0 件のコメント:
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2017年4月25日火曜日

2017年4月9日

2017年4月9日 主日礼拝説教要旨
  「時が来た」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書14章32~42節)
 今朝の聖書の舞台はゲツセマネと呼ばれている場所です。果樹園の中にある広場で「油の圧搾機」という意味で、収穫されたオリーブの実を集めオリーブ油を絞り出すための広場でした。そこでイエスはおもむろに「弟子たちにつまずく」(27節)と語り始め、それをペトロは「たとえ死んでもそんなことはない」と否定します。つまずくのは弟子たちが愚かで弱いからではなく、あまりにもイエスの道が厳しいからであり、十字架に赴くことの出来る人間などいないのです。
 33節で「イエスはひどく恐れもだえ始められ」とありますが体が震え心は乱れに乱れたと訳されても良いくらいです。さらにイエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」とあり、それ程に十字架は重く辛く孤独なものであることを語っています。そのイエスを救ったものは祈りでした。イエスは地にひれ伏し「あなたはどんなことでも出来るでしょう。十字架以外に方法があり、道があるのではないですか。だからこの苦しく苦い杯をわたしから取り除いて下さい。」と祈ったのです。やがてその祈りは「みこころが行われるように」と変わるのです。
 この2つの祈りの間にどれほどの苦しみがあったのでしょうか。ところが弟子たちは何と情けないことにイエスが祈っている間、起きていることが出来ず居眠りをしてしまいます。3度、弟子のところに行くのですが3度とも眠っていたのです。やがてゲツセマネの静寂が破られ、裏切り者のユダが来ます。「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」ここには十字架に向かう決然とした姿を見ます。その変化・違いは何なのでしょうか。これが祈りの力なのです。
 イエスは弟子たちがつまずきと裏切りを知っていて、「さあ行こう」と呼びかけています。ここに強くて深い愛があります。死の悲しさ、恐怖、断絶、それらをすべて超越する愛があります。
ゲツセマネの祈りによって愛の力に満たされるという神の奇跡が行われた記念の場所なのです。受難週を祈りの日々として歩みましょう。
投稿者 heian 時刻: 6:55 0 件のコメント:
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2017年4月17日月曜日

2017年4月2日

2017年4月2日 主日礼拝説教要旨
  「この人のしたことを記念して」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書14章1~9節)
 3節でイエスは皮膚病患者シモンの家に入り食事の席に着いたとあります。すなわちイエスは、最後まで最後の瞬間まで人間に仕え通したのです。そのとき一人の女性がそこに入ってきて香油の入った石膏の壺を持ってきてイエスの頭に注ぎかけたのです。壺からすくってかけたというのではなく、壺を壊してしまったと云う行為の中に彼女の決意を感じます。しかし弟子たちはそれを見て憤慨します。もったいないことをしたものだと。ところがイエスは女性をほめたのです。しかも最大級で「世界中で、この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」と。
 人に仕え通したイエスに対して人間の応答は、悲しいことにイエスを殺そうとさえしているのです。しかも自分の出世のことで頭がいっぱいで仲間割れが始まり、一人はイエスを裏切ろうとしています。唯の一人もイエスの十字架を共にしようという思いの人間はいなかったのです。
 これは実に悲しいことであり、残念なことです。全くにイエスは孤独です。荒野を一人で行くような思いであったに違いありません。そこに一人の女性が現れ、自分の全てを(それがただしいかどうかということではなくて)彼女の感性の中で自分の出来る限りで最高のことをイエスに今、行ったのです。彼女は十字架が何かも判ってしたわけではなかったのです。しかし、出来る限りのことをしようという心があったのです。そして、その事がたった一人、イエスの死を、十字架の死を共有していることになったのです。私は、香油を受けながら涙しているイエスの姿が目に浮かびます。たった一人十字架を分け合うことの出来た人と出会ったイエスの喜びです。
 私たちの奉仕や歩みはいずれも、不完全なものにすぎません。しかし、主イエスは不完全なものを用いてくださる方なのです。そして「彼女を記念しよう」と喜んでくださる方なのです。私たちも受難節にあたり、心を込めて奉仕をし、心を込めて歩み続けましょう。
投稿者 heian 時刻: 19:40 0 件のコメント:
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2017年4月11日火曜日

2017年3月26日

2017年3月26日 主日礼拝説教要旨
  「目を覚ましていなさい」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書13章28~37節)
 この箇所は小黙示録と云われるマルコ福音書13章最後の部分、いわば結論部です。13章の冒頭部分を見ると弟子たちが目に見える神殿の立派さに感嘆を覚えるところから始まっています。それに対して、イエスは目に見えるものはすべて滅びる時が来ると云うのです。そして、そのしるし、徴候があると云われ、いちじくの話が取り上げられています。それは同じように時代の中で神の終末の時が近いことを現しているというのです。
 しかし、32節「その時は、だれも知らない、イエスさえも」神以外は知っているものはないというのです。私たちはやがて終わりの日が来るのを待ち望んで今日を精一杯生きることを示されています。しかし、私たちの日常の中で経験していることは虚偽と不安で塗り固められたこの世界の中で生きる喜びを失っている現実があります。同時に自分の小ささばかりに目が向いてしまうのです。しかしイエスは「天地は滅びても私のことは滅びない」と宣言します。イエスの生涯は小さき者を愛する生涯でした。イエスが私を愛しているという真実は滅びない。だから「いつも目を覚ましていなさい」と云われます。それは本当のものを見つめ続けなさいと云うことです。それは神の言葉ですし、神の愛です。
 もう1つの意味は、情景は夜です。目を覚ましているというのは、皆が寝ている間に起きているということです。目を覚ましていて夜明けが来ることを一番に知らせるのです。夜明けは必ず来ることを知らせるのです。私たちはどんな苦難にも勝る神の恵みを信じます。そしてその信仰がすべての人の希望となるのです。
 イエスが言葉を語る時、簡単な気持ちで語っていません。十字架という闇へさえイエスは自ら赴くのです。それが深い闇であろうと神の言葉が示すなら最後には神の勝利があることを信じて歩んでいるのです。将来の光をじっと見つめ続けるのです。イエスは、人間を救うものはただ神の言葉だけであると断言されるのです。「目を覚ましていなさい」。
投稿者 heian 時刻: 7:02 0 件のコメント:
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2017年4月3日月曜日

2017年3月19日


2017年3月19日 主日礼拝説教要旨
  「愛の力」本間優太神学生
   (ローマの信徒への手紙8章31〜39節)



 本日取り上げたローマの信徒への手紙8章は、ローマの信徒への手紙の中では、1章から見ていくと大きな区切りを作っています。それは、直前の7章までは人間と罪との関わりが語られているのですが、8章では救いと希望についてパウロは語っており、今日取り上げた箇所はその最後の部分に当たります。例えば、7章15節には罪と格闘するパウロの姿が描かれているのですが、そこでは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と語っており、罪との関わりの中でもがき苦しむパウロの姿が7章全体に渡って描かれています。

 このように、パウロも私たちと同じ、一人のキリスト者として、聖書の呼びかける事柄を実行したいけれども実行できない自分がいることに、悩み苦しんでいたのです。しかしながら、そのような自分の弱さに、信仰の大先輩であるパウロ自身はどのように対決していったのでしょうか。

 そのために最も注目すべきは箇所は8章36節です。このカギ括弧でくくられている一節は旧約聖書の詩篇44篇からの引用です。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ」。「あなた」は旧約聖書では神様を指していますが、ここではそれをキリストを指す形でパウロは引用しているのです。ここに最大のポイントがあります。それまでは、ローマの信徒の手紙の中では「キリストがわたしたちのために」と語られていたのですが、ここで初めて「わたしたちがあなたのために」と関係が逆転して語られるのです。

 ここでパウロは一体何を強調しようとしているのでしょうか。それが8章の後半で強調される「愛」にあります。8章の後半、35節、37節、39節でパウロは神様やキリストの私たち人間への愛を語っています。神から遣わされた御子であるキリストの愛を受けたものは、苦難の中にありながらも、キリストを愛し続ける事になるとパウロは言いたいのです。

 愛には関係を逆転させる力があります。その事を示したキリストに励まされながら、私たちもまた世界の中で勇気をもった一歩が踏み出せますように祈りましょう。
投稿者 heian 時刻: 17:31 0 件のコメント:
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2017年3月27日月曜日

2017年3月12日

2017年3月12日 主日礼拝説教要旨
  「終りの日という希望」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章24〜27節)

 終末の記事のクライマックスになります。イエス・キリストの終末に関する預言が3節から始まったのです。その最後に生じるのは世界の崩壊だというのです。しかし聖書が本当に云いたいことは「世の終りがあって、人々が滅ぼされる。そして一部の人だけが救われる再臨がある」ということではありません。こう考える人は実際に苦難の中にいないのです。この聖書の最初の読者は苦難の中にある人、そこに迫害が迫っている人なのです。
 迫害の時に人々は追われていきます。人が住まないところ、気づかない所に逃げます。地域的なこともありますが、心理的にもそういう追い込まれた状況にあるのです。遠く閉ざされた果に自分をおいてしまうのです。
 再臨のイエスは、その追われた人を呼び集めて下さるというのです。これはなんと温かい表現でしょうか。
 このイエスの約束に基いて、どんな苦しみ、悩みの中にあっても教会は再臨の希望に生きたのです。私たちは必ず神に呼び集められるのだという希望です。リビングストンという宣教師がいました。彼はアフリカに宣教のために行き、ヨーロッパの人間として初めて大陸を横断した人でした。その中で経験した奴隷制度の現実を伝えた事で、後に奴隷制度廃止に大きな影響を与えたと云われています。どんなことがあってもアフリカへの宣教をやめることはありませんでした。病気で亡くなるまでの後半生を送りますが、彼は「主イエスよ、御心に従いその力強い御手にこの身を委ねることをお許し下さい。私はこの身と私の心配事の全てを主の御手に投げ出します。私の必要とする全てのものをあなたはご存知です」と祈りました。
世界が滅びるようなことが起こったとしても、なお勝る希望が約束されているのですから、主イエスを信じて静かに祈り、互いに愛し合う生活を送りましょう。
 レントの日々、主の十字架の苦難を偲びつつ、懺悔と祈りの時間を持ち、受難節第2週の日々を責任もって歩みましょう。



投稿者 heian 時刻: 15:20 0 件のコメント:
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2017年3月20日月曜日

2017年3月5日

2017年3月5日 主日礼拝説教要旨
  「神のものとして選ばれたから」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章14〜23節)

 14節に「読者は悟れ」とあります。この言葉はユダヤ人の歴史の中で最も危機的な状況を示唆する用語として用いられたものです。即ち、迫害が極めて深刻な事態に至った時のことが想定されています。
 それに続いて「山に逃げなさい」とありますが、「逃げる」という言葉に良いイメージはありませんが、人間には「逃げる他ない」状況も起こり得るのです。弱い者が一目散に逃げねばならない程の時があること、それが残念ながら人間の現実です。そして、まさにこの時キリスト教が立たされていたのはそういう状況だったのです。

 しかし、キリスト教はそういう事態の中でも礼拝を守り、聖餐式を行ってきました。礼拝から去ったら次の日曜日には共に集まることが出来ないかもしれない危機感の中で礼拝を守っていたのです。驚くべきことに、それでもキリスト教は広がったということです。

 その力の秘密が今日の聖書の箇所なのです。未曾有の苦難の中で、まさに闇のような時代の中で教会はイエス・キリストの言葉に光を見続けたのです。それが「私たちは神に選ばれた」ということです。全てを支配される神に私たちは選ばれているのだから、この苦難には必ず終りがあると信じたのです。

 20節の「期間を縮める」という表現は面白いとお思います。神が歴史に介入して期間を短くして選ばれた者を残すと云うのです。では何故私たちは選ばれたのでしょうか。私たちの方には選ばれる理由も資格もありませんが、神が私を選んで下さったのです。神の意志以外の理由はありません。神の愛以外に理由はありません。

 ですから、選ばれていることを知るのは、神に愛されていることを知ることなのです。教会は迫害の中でも、神に愛されたものとして礼拝を続けたのです。迫害の中で一目散に逃げなければならない程の苦しみの中で、私を生きるのではなく、主の選びを生きるという信仰の系譜を生きるのです。この教会も証の館です。この会堂で選ばれたものとしての証を紡いでいきましょう。


投稿者 heian 時刻: 20:49 0 件のコメント:
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2017年3月13日月曜日

2017年2月26日

2017年2月26日 主日礼拝説教要旨
  「大丈夫、心配しなくて良い」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章3〜13節)

  エルサレム神殿を臨むオリーブ山から、イエス・キリストは自分が崩壊を預言した神殿を眺めている時、そこに4人の弟子が来て崩壊の預言の意味を尋ねます。つまりここには、「大切な秘密が明かされる」という場面設定がなされています。
 神殿崩壊とそれを巡るユダヤ人の悲惨な命運、それ故に更に苦しい状況に追い込まれる教会の姿を目の当たりにしながら、この章は書かれています。つまり、終末の預言であると同時にその時のキリスト者の現実そのものでありました。
  混乱の時代の中で「わたしこそ救い主である」と名乗るものが現れ世界を混乱に陥れました。救いの望みをかけている人たちを悲惨の中へ導いていきます。まさに「惑わし」です。そして戦争です。ユダヤ戦争はユダヤ地方だけでなく、世界に散らされた非ユダヤ人との戦いでもありました。さらに教会は地方からも敵視され、迫害を受けました。時代の中で小さい弱い集団であった教会は孤立無援の状態に追い込まれていたのです。
 その教会の最後の希望が「証をすることになる」というイエスの言葉でした。キリスト教は迫害によって散らされますが、その先で新たな教会を築いて行くのです。迫害が証しの機会となると信じ難い経験をするのです。イエスは「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と云っていますが、この耐えるとは待ち望むことです。裏切りや策略にあっても神の愛への希望を持ち続けるということに他なりません。
 時には自分にも世界にも絶望的な思いになるかもしれません。私たちはそこで「耐える」のです。希望を失わず、愛を諦めてはなりません。希望をもって愛を生きる者になるのです。見るべきものはイエス・キリストであり、その言葉です。困難の中にある教会へイエスの言葉をつきつめて云うと「大丈夫、心配いらない」という事です。教会はその言葉だけを頼りに迫害の時代を歩んだのです。
 まさに、それが証しでした。力で敵を制圧するのでなく、耐える力によって何が真実かを証ししていくのです。その教会の姿に学びたい。


投稿者 heian 時刻: 17:55 0 件のコメント:
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2017年3月6日月曜日

2017年2月19日

2017年2月19日 主日礼拝説教要旨
  「主が受け入れて下さるから」宇野稔牧師
   (ルカによる福音書4章16〜30節)

 イエスが公生涯を始めてから、故郷であるナザレに戻って礼拝を守った時のことです。イエスがイザヤ書を朗読しその解説しました。「会堂にいる全ての人の目がイエスに注がれていた」とある通り注目の中で「このことばは今日実現した」と宣言したのです。
 故郷であるナザレでは歓迎されない中で、何故イエスは今日実現したという言葉を発したのでしょうか。前半の穏やかな部分と後半の大荒れの部分をつないだ言葉の故に。
 イエスはイザヤ書を読みました。解放と救いの預言の箇所を朗読して、宣言するのです。「今日、救いは実現した」と云われたら神の民であるユダヤ人は飛び上がって喜ばねばなりませんでした。そして、救いが実現した者として生き始めなければならなかったのです。
 ところが彼らは、その宣言を受けていながら、ただ「聞いて喜んだ」だけだったのです。御言葉は実現したという宣言は契約としてなされたものです。契約であるということは、守った人間だけがその味を味わうことが出来、契約を守らない者は契約の受け手になることは出来ない。約束にまともに従って行かなければその約束の成就を見ることは出来ない。私たちが神の言葉を信じたなら、神は真実な方であるから、その約束を守って「下さる」という現実に出会い、その体験が大切なのです。
 私たちは、神が人となってこの世界に来て下さった。それくらい私たちを愛しておられると云うことを聞いています。どんなに苦難の時にも、それは私たちにはそう見えるだけで、実は神は最善をなして下さっていることを聞いています。神は決して見捨てず共にいて下さり歩む力を下さるということも聞いています。それでイエスは「それをあなたは実現したと信じるか、この言葉を信じて生きているか」と尋ねておられるのです。
 ナザレの人々は、イエスを歓迎せず、町の外へ追い出し殺そうともしました。私たちはどうでしょうか?
 この言葉は実現したと信じて生きること、それをイエスは望んでおられるのです。私たちは主が全てを受け入れて下さっているのだから。


投稿者 heian 時刻: 16:28 0 件のコメント:
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2017年2月27日月曜日

2017年2月12日

2017年2月12日 主日礼拝説教要旨
  「愛の神殿」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章1〜2節)

  イエスが神殿から出て行こうとされた時、一人の弟子が「先生、ご覧下さい」とイエスに呼びかけるのです。この後の記事を見るとイエスはオリーブ山に向かうところでした。即ち、イエスは前方を向き進んでおられたのですが、当然弟子たちも同じ方向を見ていたことになりますが、実は神殿を見ていたのです。つまり後を振り向いていたのです。当時のイスラエルでは群を抜いて壮麗なるもので弟子たちは「ここにこそ神が住み給う」と感嘆し、この神殿は永遠に残るものだと考えていたのでしょう。だからイエスを引き留めたのでしょう。
 しかし、イエスは「建物を見ているのか、こんなものは完全に壊れてしまって石ころ一つ残らないのだ」。その通り紀元70年ユダヤ戦争によって破壊され尽くされます。このイエスの言葉は単なる預言ではなく、見かけの素晴らしさに心を奪われている弟子たちに、本当に目を向けなければならないものは何であるかということを訴えているのです。私たちも立派なもの、優れたもの、貴重なものに心をすぐに奪われます。しかし、全てに勝って大切で価値ある素晴らしいものは「愛」なのです。
 インドの独立運動を担ったガンジーは「何時の時代を見ても必ず愛と真実が勝利する。しばらくは暴力が勝っているように見えても、最後は何時でも愛と真実が勝利する」と云い、差別撤廃運動に取り組み、百年後アパルトヘイト法が完全に撤廃されたのです。
 私たちは何を見て生きるのでしょうか。弟子たちが見るべきところは後方ではなく、前方、即ち先立って歩んで下さっている方でした。私たちもそうです。私たちの人生の先にはイエス・キリストが立っておられるのです。イエスは私たちの罪を贖うために十字架に向かっています。しかもそれは、愛し尽くされたその先になお進まれています。愛を完成させるために、人間に本当の愛が如何なるものであるかを示すために、十字架へ赴いて行かれるのです。この決意、思い、愛こそ私たちも見つめるものなのです。目に見える神殿に心を奪われるのではなく、目を向けるべきは愛の神殿、イエス・キリストです。

投稿者 heian 時刻: 21:56 0 件のコメント:
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2017年2月24日金曜日

2017年2月5日

2017年2月5日 主日礼拝説教要旨
  「気をつけなければならないこと」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書12章35〜40節)

 イエスはキリストがダビデの子であることを何故否定しなければならなかったのでしょうか。エルサレム入城の場面でイエスをダビデの子と呼んで迎えたと記されています。だから反論したのです。「キリストは律法学者等に対して、ダビデの子という言葉で表現しているものとは全く異なるのだ。お前たちの云うような意味でのダビデの子がどうしてキリストであろうか」と。そして真のキリスト像はまさにキリストの生き様、とりわけ受難によって人々に具体的に明らかにされながら展開されていくのです。
 ここで律法学者たちの姿と対比されているのは、真のキリストとしてのイエスの生き様でした。律法学者やファリサイ派の欠点は、自分を正しい座において色々なことを人々に教えるが、自分ではそれを実行しなかったというところにあります。普通云うだけでそれを実行しない人の話しなどは聞くなとなるが、イエスは「彼らの云うことは真理を云っているのだから、それを聞きなさい。しかし、彼らはそれを行っていないのだから、その真似はするな」と云われたのです(マタイ23章参照)。そこにイエスの寛容な態度を知ることが出来ます。
 一つがダメだから全てダメとは云わない方なのです。確かに、イエスが人に対する態度の中には、偽善な律法学者よ!と鋭い言葉で語りながら、攻撃のためでなく、イエスが事実を述べられて、その事実から人々の悔い改めや救いを語っておられるのです。
 聖書は、律法学者ファリサイ人が出てきますが、それに共通していることは「外側」ということです。宗教というものは「内側」を大事にしていくものです。内側をいいかげんにして外側をよくしていこうとするのは、何時の時代でも宗教の陥る欠点なのです。それをここでは鋭く突いておられるのです。
 律法学者は外側をいかにも重々しいような生活をしているかのように見せるが、しかし、先生とか教師とか呼ばれてはならないと書かれている。「あなた方の教師はただ一人、即ちキリストである」とあります。その事を徹底的に実行せねばなりません。私たちの信じる神はそのような神なのです。
投稿者 heian 時刻: 13:41 0 件のコメント:
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2017年2月13日月曜日

2017年1月29日

2017年1月29日 主日礼拝説教要旨
  「イエスと希望」桝田翔希神学生
   (ルカによる福音書8章40〜48節)

キリスト教の教会では、「希望」という言葉がよくつかわれていると思います。この「希望」という言葉は日常生活でもよく聞かれる言葉だと思います。そこで聖書の中で希望という言葉がどのように使われているのかを調べてみますと、4つの福音書の中でイエスは希望という言葉を一度も使っていないのです。なぜイエスは希望を語らなかったのでしょうか。イエスには希望がなかったのでしょうか。
イエスが希望を語らなかった理由は色々考えられます。神の国が近づいたという確信に裏付けられた宣教であったからなのかもしれませんし、編集者によって削除された可能性もあります。
今回選びました聖書箇所は「流血の女」や「長血の女」と呼ばれる箇所であります。出血が止まらない病気にかかったという事は「健康でない」ということと同時に「社会からはじかれてしまう」「仲間はずれにされてしまう」ということも意味しています。聖書にはこの女性が、12年間もこの病を患い、治す為に多くのお金を使ったことが書かれています。病が治り仲間として受け入れられることをひたすらに願った12年間だったのではないでしょうか。病が癒えることこそが彼女の「希望」として生きていたのではないかと思います。そんな女性をイエスは癒し、送り出しの言葉として「安心して行きなさい」と語っています。ここでイエスは未来に責任を置くような発言をせずに今の姿を肯定するかのように声をかけています。
なぜイエスは希望という言葉を使わなかったのでしょうか。イエスが出会いに行ったり癒したりした人というのは、当時の社会で差別されていじめられていた人や、病気にかかった人でした。今まさに苦しみの中にある人たちに対して、未来に責任を置くような言葉は使わなかったのかもしれません。未来に責任を置くよりも、今目の前にいる人たち、今目の前で起こっていることに真剣に、大切に、愛をもって向き合っていたからこそ希望や期待というような言葉は使わなかったのかもしれません。私たちも安心のなかで今この瞬間を生きたいものです。
投稿者 heian 時刻: 21:05 0 件のコメント:
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2017年2月6日月曜日

2017年1月22日

2017年1月22日 主日礼拝説教要旨
  「レプトン銅貨2枚」宇野稔牧師
   (マルコによる12章41〜44節)

 聖書に登場する律法学者はまじめな生活態度と生活上の権威者のような存在で、「裁判長」の様な役割をする者でした。人々は服従していましたが、イエスはその権威者の権威を引きずり下ろすのです。律法学者には真の権威はないと宣言したのです。人々は「では本当の権威者は誰なのか」との問に今日の物語が挿入されたと考えていいでしょう。
 神殿での献金の場面です。ここで注目を集めるのは金持ちです。当時多くの財産を持っていることは、神の祝福のしるしだと考えられていましたし、立派な人間の証しでした。
 しかし、そこに一人のやもめが来ます。隅の方でそっと献金しました。男性本位の社会で夫に先立たれてしまった女性は最も来るし生活を強いられる人々でした。 人々は、多額の献金をする金持ちに目を向けますが、イエス・キリストの目は隅でそっと献金をしたやもめに向けられていたのです。神の視点は小さい者に向けられるのです。強さか弱さかで云うと弱さに向けられるのです。
 私たちはどうでしょうか。神は私たちの弱さを含めて受け容れて下さっていると聞かされても、この世の富、この世界の評価が必要だと思ってしまいます。それこそ私たちの弱さではないでしょうか。真理を知らされていても、やはり目に見える現実の力を望んでしまいます。やもめはレプトン銅貨2枚を献げます。この彼女の全生活を献げよう、即ち「委ねよう」という決断をイエスは賞賛されたのです。私たちは委ねる前に自分の持っているものの大きさを過信したり、少なさに卑下したりするあの律法学者と同じなのです。
 しかし、イエス・キリストは「神はあなたの味方だ。あなたを愛しているのだから神に委ねなさい。心配も不安も全て神に委ねるのです」と言います。最初から全て委ねるのは難しいかも知れません。しかし、私たちはレプトン銅貨2枚、今病んでいること、悩んでいることを委ねることから始めませんか。一日を祈りから始めませんか。その時私たちはイエスの言葉に出会うでしょう。「悲しんでいる人、あなたは幸いである」。

投稿者 heian 時刻: 18:43 0 件のコメント:
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2017年1月30日月曜日

2017年1月15日

2017年1月15日 主日礼拝説教要旨
  「祈りに支えられて」宇野稔牧師
   (フィリピの信徒への手紙1章8〜11節)

  パウロは投獄されています。不公正な裁判の場に引き出され「弁明」することを求められています。何と理不尽な状況でしょうか。しかし、驚いたことにパウロはそれを「恵み」だと云っているのです。
 何故でしょうか。彼にとって状況が良いか悪いかが問題ではなく7節は「福音を弁明し立証する機会」と云っています。彼にとって大切なことは、福音が述べ伝えられることであり、キリストの愛を一人でも多くの人に伝えることでした。それは恵みに与っていることだからと云うのです。
 パウロがもし自分にこだわって生きているなら、今ほど不幸なことはないと思います。しかし彼は「自分は使徒としてイエスのことを宣べ伝えるために生きている」と信じ切っていたのです。そう考えると嵐の中、苦難の時も、神が共にいて下さるのだから、投獄や裁判さえ恵みの時だと云えるのでしょう。恵みに与っているとはフィリピの教会との関係においてもいえることであり、お互いに向き合って祈っているかです。
 9節に「私はこう祈ります」それはフィリピの教会の「愛」が豊かになるようにであり、「知る力」のことです。頭の中の知識ではなく、体に染み付いているような知識のことです。神が共におられるということを実感していることが大事なのです。「見抜く力」は、苦しい状況にあっても神の意志を「見抜く」信仰が大切なのです。さらに11節に「救いの日にとがめられることのないものになる」と祈っています。
 私たちに出来ることは、主に結ばれている絆をあきらめないことです。自分にも、他人にも、この社会にもあきらめないことです。心を折ることなく、今のところから先ず一歩を歩み出すことです。それが神の愛への私たちの応答です。あきらめないために、心を折らないために、祈ることが大切なのです。相手を覚えて執り成しの祈りをすることが大切なのです。そして私たちは「お互いに祈りに支えられる」のです。



投稿者 heian 時刻: 13:51 0 件のコメント:
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2017年1月23日月曜日

2017年1月8日

2017年1月8日 主日礼拝説教要旨
  「喜び、祈り、感謝」宇野稔牧師
   (フィリピの信徒への手紙1章3〜6節)

 今日は成人の日祝福礼拝です。2001年にこの平安愛児園を卒園された16名を覚えます。その内、本日は教会員家族に成人になられた方々を招き3人の方が出席されておられ、祝福いっぱいの礼拝です。
 3節でパウロは「思い起こす度に」というのは執り成しの祈りのことです。対立する二者の間に立って事態が好転するようにうまく取り計らうということで、祈っているというのです。しかも感謝していると云います。こういうことはしばしばあることで、誰かに祈られている事に気がついていないのです。パウロの執り成しの祈りは最終的には神に「委ねる」ことです。
 4節には、だから神に委ねたので、もう考えることは止めにしようというのでなく、逆に「いつも喜びをもって祈る」と書かれているのです。喜びの根拠をどこにおいているのか、私たちはキリスト教を信仰しつつも、その生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないか、どんなに困った状況の中からでも神は必ず道を備えて下さるという希望を持ちつつ、その事柄に関わっていくということなのです。
 5節は「福音にあずかっています」。「あずかる」は交わりと訳されるのですが、過去から今日まで神が招き入れてくださっていることを云うのです。
 6節は将来のことです。「救いを完成して下さるのもまた、神であると確信する」とパウロは云っています。私たちの将来にあるものは「救いの完成」という喜びの出来事なのです。
 私たちは自分のあまりの惨めさに、生きる力を無くしてしまうこともあります。勇気がもてなくなります。しかし、そのような時に共にいて下さる神を思い起こすのです。神は過去から現在までいつも私たちと共にいて下さいます。そして今も共にいて救いの完成へと導いて下さっているのです。「私の救いは神による以外にない」のです。私たちは確信をもって私の将来を神に委ねていくことが出来ます。そのしるしが「今日まで神は私たちを導いて下さった」という事実なのです。今を喜び祈り感謝して明日に向かって歩み続けましょう。
投稿者 heian 時刻: 13:00 0 件のコメント:
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2017年1月16日月曜日

2017年1月1日

2017年1月1日 主日礼拝説教要旨
  「愛の中を生きよう」宇野稔牧師
   (ヨハネの手紙Ⅰ4章7〜12節)

 新しい年を迎え教会生活やキリスト者としての生き方というものをテーマにして書かれているこの手紙を読み確認したいと思います。
 ヨハネの教会には異端と呼ばれる人々が現れ、教会内で問題になりました。これらの人々は精神的な高揚感や自分を高めることを大切にする人たちです。苦行して自分を追い込んで異様な精神状態の中で神と出会うという人もいました。しかし、この手紙の著者は「いまだかつて神を見たものはいません」と告げています。
 異端と呼ばれていた人々と他の教会員は対立し、裁き合い傷つけ合っていたのです。そこでヨハネの手紙の著者は何度も愛という言葉を使って語りかけているのです。愛というのは分かりやすく云うと大切にすることです。その時の自分の気分や、自分の敵だから味方だからといって変わるものではありません。異端の人々が自分を高めること、修行して出会おうとすることは確かに間違いではありません。しかし、それは愛ではありません。愛は自分が立派になることではなく、人より優れた者になることでもなく、相手に上から何かしてあげることでもありません。愛することの本質は、
その人の弱いところを大切にするということです。その人が悪い状態にあって苦しんでいる時に、一緒に生きるということなのです。
 強さでつながる絆はとてももろいものです。私たちは弱さでつながりましょう。自分も一緒に悩み、苦しむ生き方は格好が良いといえるものではないかもしれませんが、ヨハネの手紙の著者はそこにこそ神の愛が満ちていると云います。
 私たちの平安教会もそのような教会でありたいと思うのです。目立たなくてもいい、隣人のために祈り一緒に悩みましょう。そして、自分も誰かに祈られていることを、誰かが一緒に悩んでくれていることを信じましょう。
 私たちは、私たちの抱える弱さを絆としてつながっていくのです。これから始まる2017年、愛の中を生きて参りましょう。神の愛はこの弱さの絆の中にこそ満ちているのですから。
投稿者 heian 時刻: 9:56 0 件のコメント:
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2017年1月9日月曜日

2016年12月25日

2016年12月25日降誕日 礼拝説教要旨
  「人の正しさは神の真理ではない」宇野 稔牧師
   (マタイによる福音書1章18〜25節)

 ヨセフは実直な大工として生きる中でマリアと結婚し、平凡でささやか ながらも幸せな家庭を夢見ていました。
 クリスマスはその夢を打ち砕く出来事として彼のもとに訪れました。 「マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフの心の中には、マリアに対しての疑いが重くのしかかります。「ヨセフは正しい人であったので」。そこで彼が選んだ道は密かにマリアとの婚約を解消することでした。罪を公にせず彼女と別れる決意をします。その「正しさ」に対して聖書は大きな問いかけをします。ヨセフにとっては、自らの正しさを貫徹するために縁を切ることが「正しさ」であり、最大限の思いやりであると考えます。しかし、聖書の教えは如何なる理由によっても人と人との関係を断ち切ることを認めません。一方マリアは自分の身に起こったことに対して一言の弁明もせず、ただじっと耐えているかのように沈黙します。
 神の独り子イエス・キリストの母となるという選びと責任の重さにこの名もない娘は一人では耐えられない。マリアにとっては、恵みというにはあまりにも重すぎるのではないか。今、ヨセフに必要なことは、マリアの石打の刑から守ることではなく、彼女を信じて自らの生活の中に受け入れ、彼女を支え、歩みを共にすることであったのです。
 ヨセフが大切に守り通そうとする「正しさ」がそれを拒むのです。ヨセフは「恐れずマリアを迎え入れなさい」との神のことばを聞きます。ヨセフにとって自らの「正しさ」を根底から揺さぶられる問い掛けでした。本当の正しさとは彼が持っている選択肢を超えた全く新しい道への招きなのでした。
 ヨセフは神の命じた通りに、マリアを妻として迎えます。この決断と行動において新しい生き方を発見します。自分の正しさを打ち砕くことは何と 困難なことか。しかし、苦しみ呻きの中から真の正しさは生まれるのです。彼女と共に生きよ。自分を必要としている者を発見し、共に歩む決断をせよ。最も恵みを受けたのはヨセフかもしれません。

投稿者 heian 時刻: 10:44 0 件のコメント:
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ラベル: (N01)マタイによる福音書

2017年1月2日月曜日

2016年12月18日

2016年12月18日主日礼拝説教要旨
  「主の日が来る前に」宇野稔牧師
   (マラキ書3章19〜24節)

 この書は旧約聖書と新約聖書への繋ぎとして、ふさわしいということでここに置かれているのです。
 19節に「見よ、その日が来る」と云われていますが、正確には「その日は来ている。来つつある」となります。つまりはその日というのは終末の日のことです。その日は「炉のように燃える日」と云われ、裁きの日です。高慢な者、悪を行う者など、主の日が来た時には、彼らは燃え上がり、枝葉の一つさえ残らないといい、その日が来ていると警告しているのです。
 しかし、神を信じる者にとっては、その同じ日が全く違う日になるとも云われています。マラキ書は私たちに対して、主の日がかならず来ると宣言します。そこにある重大な意味と価値は主の日には明らかになると。そして、高慢な生き方をしている者は、主の日には自分がいかに虚しい人生を生きてきたかを知ることになるのです。
 苦難に会う日などに私たちはなぜ、主が沈黙しているのかと思うかもしれません。しかし、マラキ書はその時は神の「備えの日々である」というのです。高慢な生き方をしている者は、主の日には自分が如何に虚しい人生を生きて来たかということを知ることになるからです。
 終りの日は必ずやって来ます。その時高慢な人は裁かれ、苦難の中を歩んでいる人々、神を信じる人々はその信じていることの正しさが証明されるのだというのです。即ち、17節にあなたたちの神の宝となると云われます。そういう私たちのために神は21節で「恐るべき日が来る前に」、主の日がくる前に神はエリヤを遣わす、とあります。つまり、神のことばをあなたたちに告げる人のことです。主の日に私たちが滅びてしまうようなことにならないためです。その方は誰か、私たちが一人も滅びないで永遠のいのちを得るために、この世に来て下さったのが、イエス・キリストです。旧約の最後はキリストは来るという預言なのです。
 イエス・キリストこそ義の太陽(20節)です。そして癒やしの力です。イエス・キリストが来て下さることを覚え、そのイエスを見つめつつ主の日を待ち望むのです。

投稿者 heian 時刻: 9:45 0 件のコメント:
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