2023年3月31日金曜日

2023年3月26日

 2023年3月26日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「人をさげすむ世界は消え去り」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 20:9-19節

 私たちの敬愛する小野一郎牧師が天に召されました。小野一郎牧師は日本基督教団のなかで部落解放運動に取り組まれました。差別というのは、人をおとしめる行ないです。ですからそれはとても恥ずかしい行ないです。そうした神さまの前にはずかしい行ないに対して、小野一郎牧師はなんとかしなければならないと思っておられたのだと思います。

 「ぶどう園の農夫のたとえ」はなんとも殺伐とした話です。このたとえ話に出てくるぶどう園の主人は、神さまです。そしてぶどう園の農夫たちは、律法学者たちや祭司長たちです。ぶどう園の主人の僕たちは、預言者たちです。そしてぶどう園の主人の跡取りは、イエスさまです。神さまが律法学者たちや祭司長たちのようなユダヤというぶどう園を治めている人たちのところに、預言者たちを送る。しかし律法学者たちや祭司長たちは、好き勝手にして預言者たちを袋だたきにする。それで神さまが、自分の大切な御子であるイエスさまを送ったら言うことを聞いてくれるだろうと思う。しかし律法学者たちや祭司長たちはイエスさまを十字架について殺してしまう。

 イエスさまは兵士たちにあざけられ、唾を吐きかけられ、侮辱されて、そしてそのあと、ひとびとからののしられながら十字架へと歩まれます。イエスさまの十字架への道のりは、蔑みの言葉に充ちています。この蔑みの言葉に充ちている世界が、私たち人間の世界であるわけです。人を蔑むことによって、そして自分が少しでもえらくなったような気になる。人をバカにすることによって、自分がえらいものだと思い込もうとする。皮肉を言ったり、小馬鹿にしたり、怒鳴ったりして、人を蔑み、そして自分がそうではないことを証明しようとします。

 人を蔑む私たちの世界のなかにあって、イエス・キリストは十字架についてくださいました。そして神さまはイエスさまを三日目によみがえらせてくださいました。神さまは私たちが蔑む人間でも、蔑まれる人間でもなく、ただ神さまから愛されている人間であることを、イエス・キリストの十字架によって、私たちに示してくださいました。私たちは神さまから愛されている人間であり、人を蔑む必要はないのです。人を蔑む世界は消え去ります。それは神さまの御心にかなったものではないからです。そして神さまの御国がくるのです。

 レント・受難節も第5週になりました。私たちの中にある邪な思いや、いじわるな思いとしっかりと向き合いながら、このレントのときを過したいと思います。


2023年3月24日金曜日

2023年3月19日

 2023年3月19日 受難節第4主日礼拝説教要旨

 「救われた人々ーーー12年間の祈りとこれから」 

               鈴木祈牧師

 マルコによる福音書 5:34-43節

 ■マルコ福音書5章、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の話。出血の止まらない病気の女がいました。人前に出ることもゆるされず隔離された12年間。女は律法を破り人々の間に紛れ込んできた。信仰深い会堂長ヤイロには一人の娘がいました。その信仰ゆえに血の止まらない女とは同じ場にいることすらできなかったヤイロ。妻が娘の出産において血が止まらない病気になったとしたら家に置いておくことはできなかった。愛しているかどうかではない、律法を守る生き方、それが会堂長の務めであるから。生きながらにして妻を失っているヤイロ、今度は娘が死にそうになります。娘まで取り上げないでくれと祈りながらイエスさまの所へ走ったことでしょう。そんなヤイロとイエスさまの所へ、家族のもとに帰りたい一心で来た女。ヤイロも女もイエスさまの元に来て、そこで繋ぎ合わされました。しかし両親には同時に「娘の死」が知らされます。

 ■イエスさまが両親と一緒に娘の所へとゆき「起きなさい」と言われると娘はすぐに起き、歩き出します。「もう、12歳になっていたから」、12歳とは第二次成長期、初潮を迎える頃。娘は成長過程において血が出る経験を初めてします。自分も母と同じく追い出され、父親とも会えなくなるという恐れ。病気と別れの恐怖から、ついに死んだふりをします。ウソという死ぬほどの苦しみの中にいた娘に、イエスさまは安心できる状況を作り出し自分の言葉で話しだせるようにされました。そして娘と母と父は新しく出会い直すことができたのです。

 ■血の汚れ意識も、律法や掟による人々の分断も、愚かな事です。愚かな決まりによって人々が引き裂かれることをイエスさまは許しません。ヤイロは律法を守るために愛する人を失っていました。その考えを娘にも知らず知らずのうちに植えつけてしまっていたために、娘までも失いかけました。ヤイロは妻の病気が治ったから一緒に帰ってきたのではありません。病を抱えたままの妻であっても、そして娘が生死にかかわらず、母娘を出会わせ、三人で一緒にこの時を過ごそうと、ヤイロの心こそが変えられたのです。イエスさまの行なった奇跡は、病気の治る奇跡でも、死んだ者が生き返る奇跡でもなく、最も難しい、人の心が変えられるという奇跡でした。

 ■私たちにも、恐れを乗り越え、掟に従う以上のいのちの出会いを重ねることが呼びかけられています。大人たちの愚かな行いは子どもたちへと伝播し、その生き方を狭めてしまいかねません。けれども、私たちに与えられている自由な信仰は、私たちの考えが変わることを拒みません。

 ■多くの痛みのある12年間でした。病も災害も、戦争も、死も、別れも、その悲しみや後悔はうすれても消えることはないでしょう。それでも祈りが、私たちに変化という奇跡をおこしてくれます。嘆きと悲しみの傍にこそおられるイエスさまの歩みを心にとめ、いつも私たちの傍らにおられるイエスさまと共に祈り続けてまいりましょう。


2023年3月18日土曜日

2023年3月12日

 2023年3月12日 受難節第3主日礼拝説教要旨

 「十字架のもとに逃れる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 9:18-27節

 私たちは「何により頼んで生きているのか」という問いの前に立たされています。わたしを救ってくださる方はだれなのかという問いです。自分で自分を救うのか。地域が救ってくれるのか。また国家が救ってくれるのか。経済的なことであれば、自助・共助・公助ということが中心になるかと思います。しかし経済的なことだけで、私たちは生きているわけではありません。イエスさまが悪魔の誘惑に際して言われた、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということです。私たちはパンだけで生きているのではありません。パンだけで生きることはできないのです。本当の意味で、私たちを救ってくださる方はだれなのか。

 讃美歌21の「十字架のもとに」の歌詞の1番「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う。あらしふく時の いわおのかげ、荒れ野の中なる わが隠れ家」という歌詞は、作詞者であるエリザベス・クレーフェンの信仰をよく表している歌詞だと思います。エリザベス・クレーフェンは財産を売って貧しい人を助けるということをしていますから、そうした社会の抱える貧困や不条理ということについて、真摯に考え、行動する人であったのだと思います。しかしエリザベス・クレーフェンは、それだけでなく、自分の魂の問題、自分がだれによって守られて生きているのか。自分を救ってくださる方はだれであるのか。あなたがだれにも頼ることができず、周りの人たちもあなたのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、あなたが逃れていくところは、どこなのか。そのことをエリザベス・クレーフェンは、「十字架のもとに」という讃美歌の中で明らかにしています。

 守ってくださる方がおられるということは、とても安心なことです。ここに逃れればいいのだというところを知っているということは、とても安心なことです。それはクリスチャンに与えられている幸いだと、わたしは思います。悲しい時、さみしい時、行き詰まった時、ぼろぼろになったとき、私たちは逃れるところを知っています。「ああ、それ、いいな」と思われた方は、ぜひ、洗礼を受けてクリスチャンになっていただきたいと、わたしは思います。

 私たちを守り、導いてくださる、確かな方であるイエス・キリストがおられます。私たちはイエス・キリストを信じて歩みます。教会に集うお一人お一人の歩みが、イエスさまに守られて、健やかな歩みでありますようにとお祈りいたします。


2023年3月11日土曜日

2023年3月5日

 2023年3月5日 受難節第2主日礼拝説教要旨

 「口を利けなくする悪霊からの解放」 

             小笠原純牧師

  ルカによる福音書 11:14ー26 節

 為政者に庶民の声はなかなか届かないものだと、新聞記事を読みながら思いました。ウクライナ戦争を続けているロシアのプーチン大統領のところにも、なかなか声が届かないのだろうと思います。周りの人もプーチン大統領が不機嫌になることを伝えたいとは思わないのです。アジア・太平洋戦争のときも、やはり同じようなことが行われていたようです。イギリスの代表的な現代作家と言われるジュリアン・バーンズは、「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、馬鹿で、悪辣な事をしている時に、それを言ってやることだ」と言っています。世界や国家がおかしなことをしているとき、私たちは「それはちょっと恥ずかしいよ」と声をあげたいと思います。

 イエスさまは口を利けなくする悪霊を追い出され、口の利けない人がものを言い始めるようにされました。それをみて、群衆は驚きます。しかしイエスさまが悪霊を追い出されたのをみて、「イエスは悪霊の頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」という人たちがいました。またイエスさまに奇跡をしてほしいと言って、イエスさまを試す人たちもいました。

 イエスさまは、自分は悪霊の力ではなく、神さまの力によって悪霊を追い出している。だから神さまの国はあなたたちのところに来ている。だから安心しなさいと、言われました。また、わたしに味方しない者はわたしの敵である。わたしと一緒に歩んでいかない人は、わたしの仲間だということだけれど、あなたたちはわたしに敵対していて、それでよいのか。と、イエスさまは言われました。

 私たちは主の祈りで、「御国が来ますように」と祈ります。私たちは武力がこの世を治めているとは思いません。私たちの世界を治めているのは、神さまの愛です。「黙ってたほうがいいかなあ。まあわたしが言うことでもないか」というような気持ちになることが多いですが、しかし「口を利けなくする悪霊によって口が利けなくされているのではないか」と、立ち止まって考えてみることも、私たちには大切です。

 自由にものが言えない社会は、滅びへと向かっていきます。ですから私たちは、口を利けなくする悪霊が出ないように、私たちの国でも社会でも会社でも教会でも、そのような雰囲気にならないように気をつけたいと思います。みんなが自由にものが言えるように、穏やかに話しあうことができる社会を作り出していきたいと思います。


2023年3月3日金曜日

2023年2月26日

 2023年2月26日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「試みに打ち勝つ力を与えてください。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 4:1ー13節

 ウクライナ戦争も1年を過ぎましたが、なかなか解決の糸口がありません。ウクライナ戦争が続いているとき、私たちにできる良いことは、アジア・太平洋戦争のときに、私たちの国がアジアの国々に侵略をしたときのことを学び直すということではないかと、わたしは思います。

 歌人であり、芸術家でもあり、「智恵子抄」で有名な高村光太郎は、「シンガポール陥落」という詩を書いています。どうしてあの「智恵子抄」で人々を感動させている高村光太郎が、「シンガポール陥落」というような詩を書いたのだろうかと思うのです。私たちもよく「あとから考えると、なんかおかしなことをしてしまっていた」というようなことがあります。りっぱな芸術家だと言われている人が、こうもまあ変な感じのことをしてしまうのだと思う時に、やっぱり誘惑ということについては、ほんとうに気をつけなければならないことなのだと思うのです。

 コンビニや飲食店でろくでもないことをして、それを動画配信するというようなことが行われて、あとからとんでもないことになるというような事件が起こります。ふつうに考えて、犯罪を行っているところを動画配信すると、とんでもないことになるというようなことは、わかりそうな気がするわけですが、でも実際、そうしたことがわからず、とんでもないことになるわけです。その場の「ノリ」というか、その場の雰囲気で、軽い気持ちで行ってしまうわけです。やっている仲間内の人たちは、それが悪魔の誘惑であることに気がつきもしないのです。

 悪魔の誘惑は何が誘惑であるのかもわかりにくいのです。ですから私たちはなおのこと、イエスさまが言われたように、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4章8節)ということが大切になるのです。主の祈りで、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。とても切実な祈りだと思います。神さま、私たちを試みにあわせないでください。神さまは、私たちを誘惑にあわせないでください。私たちは弱いのです。

 何が誘惑であるのかさえわかりにくい世の中に、私たちは生きています。ですからなおのこと、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したえ」という祈りを大切にしたいと思います。また「試みに打ち勝つ力を与えてください」との祈りを持ちたいと思います。そしてなにより、イエスさまが言われたとおりに、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、謙虚で健やかな歩みでありたいと思います。