「派遣」 宇野 稔牧師
マルコによる福音書16章14~20節
9節以降は後世の人たちが復活の証言の記事が必要であることを考えてマルコに追記したものです。故にこの所は使徒たちの復活の証言であると考えられるのです。
14節に食事をしている時とありますが、復活のイエスと弟子たちが初めて出会う場面設定としてはあまりにも日常的で舞台不足ではないでしょうか。弟子たちはイエスを裏切り見捨てたのです。その彼らが食事している場に復活のイエスが現れたのですから、弟子たちは恐ろしさのあまり身構えたに違いありません。案の定、イエスは彼らを激しく叱責されます。しかしそれは、弟子たちがイエスを見捨てたことでも裏切ったことでもなく、弟子たちの不信仰と頑なな心を叱られたのです。失敗した過去を責めているのではなく、今のことを問うて、どうして私の愛を信じないのか、どうして私を信じないのかと叱責されたのです。そして、15節の派遣の言葉が語られるのです。弟子たちの弱さを知りながら「それから」という「順説接続詞」でつなぎ、あなたを派遣するとあります。普通に考えれば「弱いけれど派遣する」、すなわち逆説接続詞でつなぐと考えるのですが、イエスは不信のあなたを、そういう弱さを持っているあなたをそのままに派遣すると宣言されたのです。私はこれが弟子たちに伝えている復活のイエスとの内容だと思うのです。
復活のイエスは、私たちの日常生活の中におられます。泣いたり、怒ったり、憎んだり、赦したり、そんなことを繰り返す日常生活のただ中にいて下さいます。そして、自分の弱さや涙を流している時にも、復活のイエスとの出会い生きるのです。「そのままのあなたで良いのだ」と。その私を派遣して下さっているのです。
14節に食事をしている時とありますが、復活のイエスと弟子たちが初めて出会う場面設定としてはあまりにも日常的で舞台不足ではないでしょうか。弟子たちはイエスを裏切り見捨てたのです。その彼らが食事している場に復活のイエスが現れたのですから、弟子たちは恐ろしさのあまり身構えたに違いありません。案の定、イエスは彼らを激しく叱責されます。しかしそれは、弟子たちがイエスを見捨てたことでも裏切ったことでもなく、弟子たちの不信仰と頑なな心を叱られたのです。失敗した過去を責めているのではなく、今のことを問うて、どうして私の愛を信じないのか、どうして私を信じないのかと叱責されたのです。そして、15節の派遣の言葉が語られるのです。弟子たちの弱さを知りながら「それから」という「順説接続詞」でつなぎ、あなたを派遣するとあります。普通に考えれば「弱いけれど派遣する」、すなわち逆説接続詞でつなぐと考えるのですが、イエスは不信のあなたを、そういう弱さを持っているあなたをそのままに派遣すると宣言されたのです。私はこれが弟子たちに伝えている復活のイエスとの内容だと思うのです。
復活のイエスは、私たちの日常生活の中におられます。泣いたり、怒ったり、憎んだり、赦したり、そんなことを繰り返す日常生活のただ中にいて下さいます。そして、自分の弱さや涙を流している時にも、復活のイエスとの出会い生きるのです。「そのままのあなたで良いのだ」と。その私を派遣して下さっているのです。
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