2024年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨
「わたしに注がれる神さまの愛がある」 小笠原純牧師
ヨハネによる福音書 9:1-12節
青木優牧師は、ヨハネによる福音書9章3節の御言葉に出会い、クリスチャンになり、牧師になりました。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。青木優『行く先を知らないで』(日本基督教団出版局)の中にかかれてあります。「私は、イエスが「お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ」と語りかけておられるのを感じた」(P.32-34)。
私たちの生きている日本社会は、ここ数十年、ゆとりがなくなり、自分のことだけを考える人たちが増えてきました。自己責任ということが過剰に言われるようになり、弱い立場の人たちを攻撃して、悪者探しをするようなことがよく行われました。悪者を探し続けましたが、あまり良い社会になりませんでした。
イエスさまのお弟子さんたちは、生まれつき目の見えない人を見て、イエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と言いました。弱い立場の人を見て、その人や家族の人たちに罪を見いだそうとして、自己責任の世界にありがちな、犯人探しをしたわけです。
しかしイエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。私たちの神さまは、困っている人や立場の弱い人たちをおとしめたりするような社会を望んでおられるはずがない。神さまは愛に満ちた方であるから、困っている人や立場の弱い人が健やかに生きていくことができるために、私たちをお遣わしになっているのだ。「神の業がこの人に現れるために」、だれしも神さまの愛の内を歩んでいて、神さまの業がその人のうえに働くのだ。私たちはだれも神さまの愛の中に生きている。すべての人に神さまの愛が注がれているのだ。そのようにイエスさまは言われました。
いろいろな出来事の中で、不安になったり、行き詰まったりすることが、私たちにはあります。「どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのか」。そうした出来事に、私たちは出会うことがあります。神さまの祝福から、わたしは外れているような気がする。そうした気持ちにさえなることが、私たちにはあります。
しかし生まれつき目の見えない人が、イエスさまによっていやされたように。イエスさまから「神の業がこの人に現れるためである」と声をかけられたように、私たちにもまた神さまの愛が注がれているのです。
わたしに注がれる神さまの愛があるのです。恐れることなく、神さまを信じ、神さまを信頼して歩みたいと思います。神さまを見上げつつ、こころ平安に歩んでいきましょう。
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