2024年4月14日 復活節第3主日礼拝説教要旨
「未来を拓く」 内山宏牧師
ルカによる福音書 24:36-49節
イースターの賛美歌を一つ選ぶなら、こどもさんびかの「イースターのあさはやく」を選びます。各節にある「じゅうじかでしんだ/あのイエスさまが」という言葉が、共に生き、神の愛を伝えたのに、十字架の死によってもう会えない、「あの」イエス様が本当によみがえられたという驚き、喜びを表します。
2番では、十字架の出来事に絶望し、エマオへ向かう二人の弟子の物語が歌われます。共に歩み始めた復活の主に、二人は心を塞がれ気づきませんが、食事の席で「あのイエスさま」に気づきます。この物語に続くのが今日のみ言葉です。二人の弟子が、使徒たちにこの出来事を話していた時に、復活の主が現れます。「あなたがたに平和があるように」と挨拶され、御自身であることを示されますが、弟子たちはうろたえます。その弟子たちにイエス様がなさったことがおもしろい。「何か食べ物があるか」と言われ、差し出された魚を食べられました。おいしそうに魚をむしゃむしゃと食べるイエス様を想像します。
イエス様のユーモアです。ユーモアは、人が行き詰まった時に、肩の力をぬき、本来の力を取り戻す力があります。昔読んだ話ですが、野球の試合が進み、一発逆転されそうなピンチを迎えます。コントロールを失ったピッチャーに、監督はタイムを要求して伝令を送り、一言伝えます。ピッチャーは落ち着きを取り戻し、危機を乗り越えます。みんなが不思議がって監督に聞くとこう言ったそうです。「たかが野球じゃないか」。叱咤激励ではなく、この一言がピッチャーの力を取り戻させます。これがユーモアです。イエス様のユーモアがこのように戸惑う弟子たちを回復させます。
この物語は、10章の「七十二人を派遣する」という話を念頭に記されたと言われ、言わば復活の主がそれを再現したことになります。ここに二つの意味があります。一つは、十字架の出来事によって破れた関係を取り戻し、共同性を回復することです。第二は、回復された共同体がどこに向かうかを示すことです。弟子たちを宣教へと送り出す備えです。過去を修復し、未来を拓きます。
もう一つ、復活の主と再会しながら、うろたえる弟子の姿に私は慰めを感じます。人生においても、戸惑い、恐れ、うろたえることがあります。いつも元気とはいきません。けれども、それで良いと思います。イエス様は私たちにも弟子たちと同じようにしてくださるからです。み言葉によって、あるいは他者の言葉や行動かも知れませんが、それぞれにふさわしいあり方で、私たちを回復し、未来も拓いてくださいます。弟子たちの物語は、私たちの物語です。
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