2025年7月25日金曜日

2025年7月20日

 2025年7月20日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「人の温かさに感じ入る」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 7:1-14節

 森まゆみの『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』(婦人之友社)は、自由学園をつくった羽仁もと子について書かれてあります。「じょっぱり」とは羽仁もと子の故郷の青森の言葉で、「信じたことをやり通す強さ」を意味する言葉です。羽仁もと子は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という人生をおくりました。いつも自分で考え、そして生活に根ざしたことを行ない、神さまに祈りつつ歩みました。そして困っている人がいると、なんとかして手を差し伸べるという姿勢で歩みました。『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』を読んでいますと、「人の温かさに感じ入る」という気持ちになりました。「ああこんなに温かい人いて、人のためになんとなしようと思う人がいるんだ」と思うと、とてもうれしい気持ちになります。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。神さまが導いてくださっているのだから、神さまを信じて、神さまから託されたわざを一生懸命に行なっていくのです。人を裁くのではなく、共に助け合いながら、良きことのために協力して働いていくのです。人を信じて、自分の協力者として一緒に歩んでもらうのです。狭き門に見えるけれども、神さまが示してくださる道を、まっすぐに歩んでいくのです。困っている人、助けを求めている人がいたら、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいくのです。

 羽仁もと子もそうでしたが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というような、温かみのある人たちが、私たちの世界を支えています。先月、梅花女子大学の礼拝に行きました。梅花学園の創設者である、沢山保羅の愛唱聖句も、マタイによる福音書7章12節の言葉です。「何事でも人からしてほしいと望むことは人々にもそのとおりにせよ」(マタイによる福音書7章12節)と、礼拝堂の聖書に挟まれた「しおり」に書かれてありました。

 よき社会のために、あきらめることなく、祈りつつ、歩んでいった信仰の先達が、私たちにおられます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいった、温かい信仰にふれることができ、とてもうれしい気がいたします。私たちもまたキリスト教のよき伝統を受けついて、小さな良き業に励む、こころの温かい人でありたいと思います。


2025年7月18日金曜日

2025年7月13日

 2025年7月13日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「あなたの中にある光」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 6:22-24節

 夏目漱石はロンドンに留学中の日記にこう記しています。「未来は如何にあるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。汝の現今に播く種はやがて汝の収べき未来となつて現はるべし(1901年3月21日付)」。なんとなく世界が大きく変化していると感じるいま、私たちはいままでのあり方をもう一度しっかりと考え直してみるときなのだろうと思います。

 イエスさまは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。このイエスさまの言葉は、やっぱり私たちにとっての根源的な問いかけであると思うのです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と、イエスさまは言われます。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。この聖書の御言葉は、「あなたの目が澄んでいる」とも、「あなたの目が濁っている」とも言っていません。ただ「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言っているだけです。そして聖書は言います。「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。「あなたの中にある光が消えれば」ということですから、消える前には私たちの中には光があるということです。聖書は「あなたの中には光がある」と、私たちに言っています。

 私たちの中には確かに光があるのです。イエス・キリストという光があるのです。ヨハネによる福音書1章は、「言が肉となった」という聖書の箇所です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。世の光であるイエス・キリストが、私たちの間に宿られたのです。光を理解することのない暗闇である私たちのところに、イエス・キリストは光となって宿ってくださったのです。

 不安の多い私たちの世の中です。しかしだからこそ、私たちキリスト者は、目先のことではなくて、根源的なことに目を向けたいと思います。私たちはイエス・キリストによって生きているのです。イエス・キリストが私たちの光となってくださり、私たちの中に宿ってくださっている。このことを覚えて、歩みましょう。イエス・キリストの光を、消すことのないように、祈りながら、歩んでいきましょう。


2025年7月11日金曜日

2025年7月6日

 2025年7月6日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「ごめんね。わたしが悪かったね」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 5:21-37節

 わたしの友人の牧師が後輩の牧師さんから、「Tさんはいろんな問題発言をするけど、ちゃんと謝れるからえらいですよねえ」と誉められていました。なかなかの褒め言葉だと思いました。みなさんは「ごめんね。わたしが悪かったね」と、素直に謝ることができますか?。どうですか。わたしはちょっと自信がないです。

 「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」と、イエスさまは言われました。イエスさまはこうした「してはならない」ことを取り上げながら、「人間のしていることというのはいいかげんなことなのだ」と言われます。「殺すな」と言われているから、「わたしは殺さない」と胸をはるけれども、しかし人に対して腹を立てたり、人を馬鹿にしたり、人を見下したりして、人を傷つけている。「姦淫するな」と言われているから、「わたしは姦淫しない」と胸をはるけれど、しかし心の中では何を考えているかわからない。「離縁状を出せば、自由に離縁することができる」と律法を誤って解釈して、女性に対して辛く当たっているということを考えもしない。できもしないことを誓い、人々に迷惑をかけ通しだ。

 そんな私たちであり、絶望的なのだから、火の地獄に投げ込まれてしまえばいいと、イエスさまは言っておられるわけではありません。人はいいかげんであり、情けないところや自分勝手なところがあるけれども、互いに許し合い、和解し合って歩んでいこう。「あっ、わたし、あの人に悪いことをしてしまった」と思ったら、神殿に献げ物を献げにいく途中であろうと、やはり仲直りしにいこう。

 そして自分の罪をしっかりと見つめよう。「律法に書いてあることを守っていればいいや」「決まっていることだけ守ればいいや」ということではなくて、自分でしっかりと神さまに向き合って、「神さま、わたしはこれでいいのでしょうか。わたしのしていることはあなたの御前で恥ずかしいことではないでしょうか」という思いを持ちなさいと、イエスさまは言われます。

 いろいろなことで腹の立つこともあります。わたしだけが悪いのではないと思えることもあります。しかし私たちは罪赦された者として生きているわけですから、自分が悪かったと思えるとき、「ごめんね。わたしが悪かったね」と素直に言える者でありたいと思います。そして神さまが罪赦されていることの喜びを、こころから受けとめることのできる者でありたいと思います。


2025年7月4日金曜日

2025年6月29日

 2025年6月29日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「神さまの輝きを放つわたし」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:13-16節

 柚木麻子の『らんたん』という小説は、恵泉女学園中学校・高等学校の設立者の河井道と一色ゆりのシスターフッドの物語です。津田梅子や新渡戸稲造、有島武郎、平塚らいてう、山川菊栄などなど、いろいろな人たちが登場する楽しい小説です。明治時代の女性たちが生き生きと描かれています。それぞれの生き方の違いもあるわけですが、それでもお互いのことを考えあい、協力しあい、「ああ、シスターフッドっていいよね」と思えます。

 小説の中で、新渡戸稲造が留学をする河井道を励ます話が出てきます。「提灯のように個人が光を独占するのではなく、大きな街灯をともして社会全体を照らすこと。僕は道さんにそんな指導者になってもらいたいと思って、どうしても欧米の夜景を見て欲しかったのです」。

 河井道は新渡戸稲造の願いのとおりに、光を独占するのではなく、社会全体を照らす生き方をしていきます。そしてそのことのために、河井道は恵泉女学園を創立するわけです。まあ本当にりっぱな人だと思います。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。このマタイによる福音書5章16節の言葉のように生きた人だと思います。

 初期のキリスト教が広まっていった大きな理由は、クリスチャンが小さなよき業に励んだからだと言われています。ローマ皇帝のユリアノスは、キリスト教のことが大嫌いでした。それでクリスチャンが増えないようにするために、クリスチャンがしている小さなよき業をあなたたちもしなさいという手紙を書いています。

 やっぱり地の塩、世の光として生きていくということは大切なことであるわけです。クリスチャンとしての志を失ってしまっては、なんのためのクリスチャンだということもあります。そのように生きているかとか、そのように生きることができるのかということだけでなく、そのように生きていきたいという志を、私たちは失わないようにしたいと思います。

 イエスさまは言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。イエスさまから託されている歩みを、しっかりと受けとめて、自分にできる小さな良き業に励んでいきたいと思います。