2026年1月17日土曜日

2026年1月11日

 2026年1月11日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「気づかないかな。ほら、そこに。」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:9-11節

 昔、岡山教会の伝道師をしていたときに、土曜日の夜に教会に電話がありました。「明日、教会に行きたいと思って、岡山教会を探しています。近くにあるようなのですが、見つからないので、お電話しました」。それでわたしが「どこにおられるのですか」とお聞きすると、「岡山のビューホテルにいます」と言われました。それでわたしは「ビューホテルの前に岡山教会があります」と応えると、その方は驚いておられました。「ホテルの前も何度もとおったんですけどねえ」と言っておられました。たぶん岡山教会がこの方の頭の中で想像していた教会の形(木造で三角屋根で十字架がついているというようなもの)でなかったので、気がつかなかったのだと思います。 

 あるものが見えない。あるものに気づかない。あるいは別のものに見える。私たちにはそういうことがあります。それは人と人との関係においてもそうですし、また私たちと神さまとの関係においてもそうです。神さまから愛されているのに、そのことに気がつかない。神さまから守られているのに、そのようには思えない。 

 イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえます。この声は、私たちに対しても語られています。私たちは神さまの愛する子であり、神さまの御心に適う者なのです。それは私たちが神さまの愛を受けるにふさわしい立派な子であるとか、神さまの御心に適うりっぱなことができているということではありません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、神さまの大きな祝福の中に生かされているということです。 

 「気づかないかな。ほら、そこに」と、神さまは私たちに言っておられます。神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、イエスさまを祝福され、そして私たちの世にイエスさまを送ってくださいました。そしてイエスさまは神さまの心に適う者として、私たちのために十字架についてくださいました。 

 私たちは神さまにふさわしい者ではないかも知れません。しかしそれでも神さまは私たちのことを「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださり、私たちに神さまの愛を示してくださいます。神さまの大きな愛のうちにあることを信じましょう。神さまからの招きに応えて、胸を張って、新しい一週間の歩みをいたしましょう。


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