2025年7月18日金曜日

2025年7月13日

 2025年7月13日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「あなたの中にある光」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 6:22-24節

 夏目漱石はロンドンに留学中の日記にこう記しています。「未来は如何にあるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。汝の現今に播く種はやがて汝の収べき未来となつて現はるべし(1901年3月21日付)」。なんとなく世界が大きく変化していると感じるいま、私たちはいままでのあり方をもう一度しっかりと考え直してみるときなのだろうと思います。

 イエスさまは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。このイエスさまの言葉は、やっぱり私たちにとっての根源的な問いかけであると思うのです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と、イエスさまは言われます。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。この聖書の御言葉は、「あなたの目が澄んでいる」とも、「あなたの目が濁っている」とも言っていません。ただ「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言っているだけです。そして聖書は言います。「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。「あなたの中にある光が消えれば」ということですから、消える前には私たちの中には光があるということです。聖書は「あなたの中には光がある」と、私たちに言っています。

 私たちの中には確かに光があるのです。イエス・キリストという光があるのです。ヨハネによる福音書1章は、「言が肉となった」という聖書の箇所です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。世の光であるイエス・キリストが、私たちの間に宿られたのです。光を理解することのない暗闇である私たちのところに、イエス・キリストは光となって宿ってくださったのです。

 不安の多い私たちの世の中です。しかしだからこそ、私たちキリスト者は、目先のことではなくて、根源的なことに目を向けたいと思います。私たちはイエス・キリストによって生きているのです。イエス・キリストが私たちの光となってくださり、私たちの中に宿ってくださっている。このことを覚えて、歩みましょう。イエス・キリストの光を、消すことのないように、祈りながら、歩んでいきましょう。


2025年7月11日金曜日

2025年7月6日

 2025年7月6日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「ごめんね。わたしが悪かったね」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 5:21-37節

 わたしの友人の牧師が後輩の牧師さんから、「Tさんはいろんな問題発言をするけど、ちゃんと謝れるからえらいですよねえ」と誉められていました。なかなかの褒め言葉だと思いました。みなさんは「ごめんね。わたしが悪かったね」と、素直に謝ることができますか?。どうですか。わたしはちょっと自信がないです。

 「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」と、イエスさまは言われました。イエスさまはこうした「してはならない」ことを取り上げながら、「人間のしていることというのはいいかげんなことなのだ」と言われます。「殺すな」と言われているから、「わたしは殺さない」と胸をはるけれども、しかし人に対して腹を立てたり、人を馬鹿にしたり、人を見下したりして、人を傷つけている。「姦淫するな」と言われているから、「わたしは姦淫しない」と胸をはるけれど、しかし心の中では何を考えているかわからない。「離縁状を出せば、自由に離縁することができる」と律法を誤って解釈して、女性に対して辛く当たっているということを考えもしない。できもしないことを誓い、人々に迷惑をかけ通しだ。

 そんな私たちであり、絶望的なのだから、火の地獄に投げ込まれてしまえばいいと、イエスさまは言っておられるわけではありません。人はいいかげんであり、情けないところや自分勝手なところがあるけれども、互いに許し合い、和解し合って歩んでいこう。「あっ、わたし、あの人に悪いことをしてしまった」と思ったら、神殿に献げ物を献げにいく途中であろうと、やはり仲直りしにいこう。

 そして自分の罪をしっかりと見つめよう。「律法に書いてあることを守っていればいいや」「決まっていることだけ守ればいいや」ということではなくて、自分でしっかりと神さまに向き合って、「神さま、わたしはこれでいいのでしょうか。わたしのしていることはあなたの御前で恥ずかしいことではないでしょうか」という思いを持ちなさいと、イエスさまは言われます。

 いろいろなことで腹の立つこともあります。わたしだけが悪いのではないと思えることもあります。しかし私たちは罪赦された者として生きているわけですから、自分が悪かったと思えるとき、「ごめんね。わたしが悪かったね」と素直に言える者でありたいと思います。そして神さまが罪赦されていることの喜びを、こころから受けとめることのできる者でありたいと思います。


2025年7月4日金曜日

2025年6月29日

 2025年6月29日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「神さまの輝きを放つわたし」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:13-16節

 柚木麻子の『らんたん』という小説は、恵泉女学園中学校・高等学校の設立者の河井道と一色ゆりのシスターフッドの物語です。津田梅子や新渡戸稲造、有島武郎、平塚らいてう、山川菊栄などなど、いろいろな人たちが登場する楽しい小説です。明治時代の女性たちが生き生きと描かれています。それぞれの生き方の違いもあるわけですが、それでもお互いのことを考えあい、協力しあい、「ああ、シスターフッドっていいよね」と思えます。

 小説の中で、新渡戸稲造が留学をする河井道を励ます話が出てきます。「提灯のように個人が光を独占するのではなく、大きな街灯をともして社会全体を照らすこと。僕は道さんにそんな指導者になってもらいたいと思って、どうしても欧米の夜景を見て欲しかったのです」。

 河井道は新渡戸稲造の願いのとおりに、光を独占するのではなく、社会全体を照らす生き方をしていきます。そしてそのことのために、河井道は恵泉女学園を創立するわけです。まあ本当にりっぱな人だと思います。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。このマタイによる福音書5章16節の言葉のように生きた人だと思います。

 初期のキリスト教が広まっていった大きな理由は、クリスチャンが小さなよき業に励んだからだと言われています。ローマ皇帝のユリアノスは、キリスト教のことが大嫌いでした。それでクリスチャンが増えないようにするために、クリスチャンがしている小さなよき業をあなたたちもしなさいという手紙を書いています。

 やっぱり地の塩、世の光として生きていくということは大切なことであるわけです。クリスチャンとしての志を失ってしまっては、なんのためのクリスチャンだということもあります。そのように生きているかとか、そのように生きることができるのかということだけでなく、そのように生きていきたいという志を、私たちは失わないようにしたいと思います。

 イエスさまは言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。イエスさまから託されている歩みを、しっかりと受けとめて、自分にできる小さな良き業に励んでいきたいと思います。


2025年6月26日木曜日

2025年6月22日

 2025年6月22日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「良き人として生きたい人の群れが流れとなって」小笠原純牧師

  マタイによる福音書 3:1-6節

 文化人類学者の松村圭一郎の『うしろめたさの人類学』という本を読んでいると、自分があたりまえのように考えていたことが、世界のどこででもあたりまえではないということを、いまさらながら気づかされました。エチオピアでは戸籍や住民票がないので、親はすぐに子どもに名前を付ける必要もない。家族が生まれた子どものことを、それぞれ好き勝手な名前で呼ぶこともあるそうです。

 私たちは自分の周りのことだけをみて、自分の常識で判断をして、「もうだめだ」「世の中、どんどん悪くなっている」と悲観的にみてしまうことがあります。しかし私たちの常識を超えたところで、そうでもないということがあるかも知れないわけです。

 洗礼者ヨハネはイエスさまが来られる前に、人々に悔い改めを迫った預言者です。洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で人々に宣べ伝えていました。洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、多くの人々が洗礼者ヨハネのところに集まってきます。「こんな怖い人のところにいくのはいやだ」というふうに思うのではなく、神さまに向き合い、「わたしは悔い改めなければならない」と思い、怖い洗礼者ヨハネのところにやってくるのです。

 神さまを求めていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように素直に思う人々がいたのです。悔い改めの洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのところにやってくるわけですから、はじめからそのように思っていたというわけではないのです。神さまの御心に反して、自分の好きなように生きていたのです。「少々悪いことをしてもいいじゃないか。みんなやっていることだし、おれだけが悪いわけじゃない」。そうした思いをもって生きていたのです。しかし思い直して、やはり神さまを求めて生きていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように思い直して、洗礼者ヨハネのところにやってきて、洗礼を受けて、自分の生き方を変えていった人々がいたのです。

 私たちの世界には、私たちと同じように、争いではなく、愛にみちたわかちあいの世界に生きていきたいと思っている人たちがたくさんいます。「平和な世界になりますように」と、毎日祈っている人たちがたくさんいます。私たちもそうした人たちと同じように祈り続けていきたいと思います。そしてイエスさまが教えてくださった小さな愛の業に励みたいと思います。良き人として生きたい人の群れが流れとなって、私たちの世界が神さまの愛に満ちた世界となるようにとお祈りしたいと思います。


2025年6月20日金曜日

2025年6月15日

 2025年6月15日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「幼子のような者に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 11:25-30節

 梅雨によみたい絵本に、西巻茅子『ちいさなきいろいかさ』(金の星社)という絵本があります。西巻茅子さんの絵は、こどもが描いたような絵です。わたしはこの絵をみながら、「なんでこんなへたくそな、こどもの描いたような絵がいいんだろうか」と思っていました。この素朴な疑問を、わたしの妻にしたところ、妻は「これはわざとこどもの描いたような絵を描いているんだ。そしてこの人の絵本は、こどもが描いたような絵のように見えるけれども、構図なんかはとってもよく計算されて描かれてあるんだ」というふうに教えてくれました

 西巻茅子さんはこどもの気持ちを大切にして、そしてこどもが自分の絵と似ていると思ってくれるような、こどもが描いたような絵を描いておられます。こどものときの素直でひたむきな気持ちを、年をとっても持ち続けることは、なかなかむつかしいことですが、西巻さんはこどもが描いたような絵を描き続けることによって、こどもの気持ちをずっと持ち続けているのでしょう。だからこどもから愛される絵本を描くことができるのです。いつまでも幼子のような気持ちを大切にしておられるのでしょうね。

 私たちの救い主であるイエスさまは「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われました。「神さまのことは、子どものほうがよくわかるよ」とイエスさまは言われたのです。大人がむつかしく神さまの話をするよりも、子どものほうは神さまのことをよく知っている。この『かみさまへのてがみ』(谷川俊太郎訳、サンリオ)などを読んでいると、ほんとうにそうだなあというふうに思います。

 幼子のような者とは、もちろん子どもたちはそうですけれど、疲れた者、重荷を負う者が、幼子のような者だと、聖書は私たちに教えてくれます。イエスさまは、「みんなで神さまのところにきて、子どものように休みましょう」と言われました。神さまを信頼して、神さまに委ねて、子どものように休もう。

 わたしは教会というところは、安心して休むことができるところであればと思います。これ、教会で休むというので、教会を休むというのでないところがミソなのです。「で」と「を」では大違いなので、ひとつ誤解のないように。教会がなにもかも忘れて、神さまの愛の中でゆったり、ゆっくり休めるところであればと思います。


2025年6月13日金曜日

2025年6月8日

 2025年6月8日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「教会ー思いやりをもって生きるー」 小笠原純牧師

  使徒言行録 2:1−13節

 ペンテコステおめでとうございます。今日は姉妹教会のPOVUCC教会から、19名の方が礼拝にいらしてくださっています。

 イエスさまの弟子たちに聖霊がくだって、彼らは「ほかの国々の言葉で話しだし」ます。「ほかの国々の言葉で話した」というのは、相手の立場に立って、相手の気持ちになって話をしたということです。自分の都合ではなく、相手の気持ちを大切にして話すことによって、話が伝わっていくのです。

 人はなかなか思っていることを口に出せないものです。人は「大丈夫」と言われると、大丈夫でなくても、「大丈夫」と応えてしまったりします。わたしは若い時に、病気になって入院をするということがありました。大学病院ですから医学部の教授の回診というがありました。みんな病気なので、「ここがいたいとか、ここが気になる」「いろいろ質問してみよ」というようなことを言っているわけです。でも実際に回診のときに教授から「小笠原純さん、大丈夫ですか」と尋ねられると、「大丈夫です」と応えたりしてしまっていました。

 教会というところは、相手の気持ちになってとか、思いやりをもってということを大切にしているところです。それは教会がもともと、相手の気持ちになって、相手の立場に立って、神さまのことを伝えることによってできてきたところだからです。

 そして教会は、「赦し合う」ということを大切にしているところです。キリスト教のもっとも大きな特色は、失敗者・落伍者が伝えた宗教だというところです。イエスさまの一番弟子と言われていたペトロは、イエスさまが十字架につけられるときに逃げてしまいました。ペトロだけでなく、他のお弟子さんたちもイエスさまを裏切りました。しかしそのイエスさまを裏切ったお弟子さんたちが、復活されたイエスさまに出会い、赦されて、神さまのことを伝えて行きました。

 ですからキリスト教は失敗者・落伍者が「自分が赦された」という喜びを伝えた宗教なのです。それで自分が赦されたのですから、キリスト教は「赦し合う」ということを大切にしています。教会は、「思いやりをもって生きる」「赦し合う」ということを大切にしているところです。ちょっと疲れたなあとか、なんかちょっと不安な気がするなあというようなとき、ぜひ教会に行ってみてください。

 皆様のうえに、神さまの恵みと祝福とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 

2025年6月6日金曜日

2025年6月1日

 2025年6月1日 復活節第7主日礼拝説教要旨

「隠れたことを見ておられる神がおられる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 24:44-53節

 ウォルト・ホイットマンの詩に「わたしはアメリカが歌うのを聞く」という詩があります。この詩を読んでいると、現代のアメリカの労働者の人たちの気持ちがわかるような気がします。神さまの祝福のもと、機械工が、大工が、石工が、船員が、靴屋が、木こりが、母親が、少女が、若者が、誇りをもって歌を歌いながら働くことができるような社会であってほしい。素朴なアメリカの人たちはそんな気持ちをもちながら過ごしているような気がします。しかしそうした気持ちにアメリカ政府は政策として応えてくれなかった、自分たちの声を聞いてもらえなかったという気持ちがあるのだと思います。

 イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたときは、イエスさまのことを信じることができずに逃げ出す弱い人たちでした。しかしよみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまから赦され、祝福を受け、神さまを信じて新しく歩み始めます。

 私たちの時代、とくに20世紀から21世紀にかけて、神さまを信じて歩むということが、だんだんと薄らいでいった時代であるような気がします。そして個人主義的な傾向が強くなり、自分の力で生きているかのような錯覚に陥ることが多くなったような時代です。自己責任が強調されるようになり、運良く時代の勝者になった人が自分の力でそのようになったと錯覚することが多くなり、困っている人、悩んでいる人の声に耳を傾けることが少なくなった時代であると思います。そして分断がすすみ、二つに分かれて、極端な対立をするということが多くなりました。ひと言で言えば、「神を求めない時代」と言えるかも知れません。自分の力で生きていると錯覚しているわけですから、神さまを求めることはないでしょう。しかしそういう時代であるからこそ、「神さまを求めて生きる」ということが、とても大切なことであると思っています。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる。神さまが私たちのことを知っていてくださる。神さまが私たちの声を聞いてくださると思えるとき、私たちは対立ではなく、愛によって互いにわかりあう道へと導かれていきます。憎しみではなく、愛によって生きていく道へと導かれていきます。互いに声を聞きあい、互いに尊敬しあって歩んでいくことができます。

 来週は聖霊降臨日、ペンテコステを迎えます。神さまの霊である聖霊を待ち望みつつ、神さまにより頼んで歩んでいきたいと思います。