2025年9月13日土曜日

2025年9月7日

 2025年9月7日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「大切なのは愛だよ。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 13:24-43節

 小説家の高橋源一郎は、生涯でもっとも感動したこととして、こんなふうに記しています。「ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない」(P.187)(高橋源一郎『ラジオの、光と闇ー高橋源一郎の飛ぶ教室2』、岩波新書)。誰かと手をつなぐということがその人の生涯にとってかけがえのない意味のあることとして残るというのは、とてもすてきなことだと思います。

 イエスさまが話された「毒麦のたとえ」では、早急に人を裁くというようなことはやめて、神さまにお任せしなさいというような感じでした。しかし「毒麦のたとえの説明」では、やたら人を裁くようになっています。毒麦は悪い者の子らであり、そうした人々はみんな集められて、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。そこで泣きわめいて歯切りしする。悪いやつらは徹底して、世の終わりの時に裁かれるのだというような感じです。もともと「毒麦のたとえ」は天の国のたとえ話であったはずなのに、なんか地獄の話になっているような感じがするわけです。やはり人は、人を裁くというのが好きなのだろうなあと思います。人はやたらと人を裁きたがるわけです。

 イエスさまはやたらと人を裁くのではなく、裁くのは遅くしたほうが良いと言いました。そして裁くのではなく、神さまの愛を伝えていくことが大切なのだと言われました。「大切なのは愛なのです」。人を裁いたり、自分を裁いたりすることではなく、神さまの愛を知ることなのです。使徒パウロは「いろいろなものは消え去っていくけれども、信仰と希望と愛はいつまでも残る。そして一番大切なのは愛なのだ」と言いました。コリントの信徒への手紙(1)13章13節です。愛は神さまから出たものなので、それがもっとも大切なのだと、使徒パウロは言いました。

 批判をすることも大切なことですが、しかしそれだけではだめなのだと思います。やはり愛が大切なのです。神さまの愛を大切にすることが、この社会を神さまの御心にかなった世界へと変えていくのです。

 この世にあっては、いろいろと悲しい出来事も起こりますし、怒り心頭に達するような出来事も起こります。それでも私たちはイエスさまの愛に満ちた世界に生きています。イエスさまの愛をしっかりと受けとめて、そしてイエスさまをほめたたえつつ、小さな良き業に励む歩みでありたいと思います。


2025年9月5日金曜日

2025年8月31日

 2025年8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「暗きの力には負けない」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 12:43-50節

 森まゆみの『暗い時代の人々』(朝日文庫)は、戦争中に「精神の自由」を掲げて戦った9名の人々について書かれてあります。その中の一人が大正ロマンを代表する画家竹久夢二です。関東大震災では自警団による朝鮮人や外国人に対する虐殺が行われました。竹久夢二は「自警団遊び」の子どもたちの姿を描きながら、自警団をつくって外国人を竹槍で突く人たち、またその風潮を批判しています。(『東京災難画信』)

 人はなかなか悔い改めることができないものです。イエスさまの教えを聞いて、一度は悔い改めるわけです。しかしそう長く続くこともなく、「まあいいか。神さまはやさしいから少々悪いことをしても許してくださるに違いない」というような思いになり、いいかげんになってしまいます。そして以前よりも悪い人間になってしまうということがあります。これを汚れた霊の側から見ると、イエスさまの譬えのようになるわけです。汚れた霊はイエスさまによって追い出されて、いろいろなところを一時期さまようけれども、また帰ってみると住みやすい人間になっていて、「これはいい」ということで、仲間の汚れた霊を連れてきて、その人の中に住み込むというわけです。

 それでも、少しでも神さまの御心に適った者でありたいと思うのも、私たちです。なるべく神さまの御心に適った生き方をしたい。神さまの御心に適うことができないにしても、神さまから残念に思われるような生き方はしないようにしたい。少しは神さまから「あなた、いいね」といわれる生き方をしたい。そのように思います。

 イエスさまの弟子たちがそうであったように、私たちはそんなに勇敢な人間でもないですし、なにかあると逃げ出してしまいそうになる弱さをもっています。それでもこころの中に、「暗きの力に負けない」という気持ちをもっていたいと思います。神さまの御心を行う人でありたいという気持ちをもっていたいと思います。私たちのプロテスタント教会の始まりである、宗教改革者のマルティン・ルターもまた「暗きの力に負けない」という気持ちをもって歩んだ人でした。讃美歌21-377番「神はわが砦」は、マルティン・ルターがつくった讃美歌です。

 私たちは弱い者でからこそ、神さまにたよって歩んでいきたいと思います。神さまが私たちの砦であり、神さまが私たちの盾であることを、こころのなかにおいて歩んでいきたいと思います。


2025年8月29日金曜日

2025年8月24日

 2025年8月24日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 10:16-25節

 みなさん、蛇はお好きですか。だいたい嫌いな人が多いでしょう。その理由に「蛇はなんかぬるぬるとして気持ちが悪そう」ということがあります。しかし蛇に触ってみると、別に蛇はぬるぬるなんかしていないわけです。鳩は平和の象徴として用いられます。でも実際は攻撃的な鳥だと言われます。まあそんなことを考えていくと、案外、私たちの世の中は、いろいろな誤解や思い違いがあったりします。私たちも誤解を受けて、嫌な感じになってしまったりすることがあります。また逆に私たち自身も誤解をして人を傷つけたりします。

 イエスさまは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。このことは迫害の時代だけでなく、私たちがいまの時代を生きるうえでも大切なことだと思います。誤解を受けたり、思い違いがあったりと、ごたごたがあったりする私たちの日常生活です。「あーすればよかった、こーすればよかった」と、くよくよと考えたり、「あー、もう嫌になった」と叫び声をあげたりしてしまいます。でもまあ、そのあと、やっぱり神さまがよき道を示してくださる。神さまがいいことをご用意してくださると、信じる者でありたいと思います。仲たがいをしてしまったときも、和解の主イエス・キリストがとりなしてくださることを信じて、歩んでいきたいと思います。

 私たちが裁きあって、互いに仲たがいをするのであれば、それは本当の敵の思うつぼだと、イエスさまは言われます。一番大切なことは、神さまに対して素直であるということです。神さまを信じて、神さまにお委ねするということです。日常の生活の中で、人間のことばかり考えて、「あー、だめだ」「やっぱりうまくいかなかった」「あの人とはどうもうまくつき合うことができない」「もう、なにもかもいやになった」、そんなふうに考えるのではなくて、まず神さまに対して素直になろうというのです。うまくいかないことがあるけど、神さまにお委ねしよう。神さまがよき道を備えてくださることを信じよう。神さま、ごめんなさい。またわたしはだめなことをしてしまいました。神さま、今日も一日、ありがとうございました。そんなふうに、神さまに対して素直でありたいと思います。

 私たちはみんな神さまから愛され、生かされています。神さまにお委ねして歩みましょう。私たちを救うために、イエス・キリストを送ってくださった神さまは、みなさんに良き明日を用意してくださっています。


2025年8月23日土曜日

2025年8月17日

 2025年8月17日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

「平和があるようにと何度も唱える。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 9:35-10:15節

 哲学者の千葉雅也は【結局、絶対的な根拠づけはできないということを受け入れる。世界には複数の人間がいて、全員が納得する解はありえない。それが体感としてわかるには、年月がかかるものです】(『センスの哲学』)と言っています。世の中は人間の集まりであるわけですから、みんなそれぞれにいろいろな考え方をしています。そうしたことを受け入れつつ、それでも良いことを目指して歩んでいくわけです。

 弟子たちがつかわされる世の中は、なかなか大変な世の中です。貧しさがあり、さみしさがあります。みんな弱り果てて、打ちひしがれている。人々を見てイエスさまが深く憐れまれるというような状態です。また「サマリア人の町に入ってはならない」というような地域差別があるような社会です。病気で苦しんでいる人たちがたくさんいます。

 人間の現実とはそういうもので、みんな悩みを抱えながら生きています。そのため、人にやさしくしようと思っても、やさしくすることができなかったり。もう暴力を振るうのはぜったいに止めにしようと思っても、やっぱりそのように振る舞うことができなかったり。ののしったり、辱めたりすようなばかげたことはしないでおこうと思いながら、人をののしっていたり、人を辱めていたり。

 しかしだからこそ、イエスさまは「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われるのです。受け入れられるかどうかはわからない。それでも信じて、「平和があるように」と挨拶をするのです。あなたとわたしの間に、神さまが立ってくださって、私たちに平和をもたらしてくださいますようにと挨拶するのです。どうなるかはわからないけれども、ただただ信じて、「平和があるように」と挨拶するのです。

 私たちの世界も、争いの多い世界です。私たちは「神さまの平和が来ますように」と祈ります。しかしなかなか平和が訪れるような兆しは見えてきません。そうした世界であるわけですが、私たちは「平和があるように」と挨拶をします。何度でも、あきらめることなく、拒否されることがあったとしても、「平和があるように」と挨拶をします。

 それはわたしが神さまは私たちの祈りを聞いてくださり、私たちの世界を平和な世界に導いてくださることを知っているからです。そしてそのことのために、小さな私たちを用いてくださることを知っているからです。

 アジア・太平洋戦争後、80年の時を経て、私たちは希望を失うことなく、「平和があるように」と祈りたいと思います。

 

2025年8月15日金曜日

2025年8月10日

 2025年8月10日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

「罪人として招かれている」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 9:9-13節

 8月15日は80回目の敗戦記念日です。遠藤春子さんの「いのり」(『原爆詩集』、合同出版)という詩を読むと、いのちの力強さをいうことを思わされます。私たちの世界からなかなか戦争がなくなりません。しかしだからこそ、戦争のない平和な世界になりますようにという祈りを大切にしたいと思います。

 イエスさまは徴税人であるマタイを御自分の弟子とされました。そしてマタイの家でマタイの友人である徴税人や罪人と一緒に食事をされました。それを見たファリサイ派の人々が、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、イエスさまを非難しました。イエスさまは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と答えられました。

 イエスさまは神さまが望んでおられるのはいけにえではなくて憐れみであると言われました。神さまは罪人を憐れんでおられる。正しくあろうと思いながらも、正しく生きることができず、罪を犯しながら、神さまに憐れみを求めて生きている人々を、神さまはそのままにしておかれない。罪を犯し、自分に絶望し、涙を流しながら、心の中で神さまを求めて生きている人々を、神さまは憐れんでくださっている。だから「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 私たちは罪人として神さまの前に招かれています。私たちは悔い改める罪人として、神さまの前に招かれています。私たちは罪人として裁かれるために、神さまの前に招かれているのではありません。私たちは赦されるために、神さまの前に招かれています。私たちは神さまの憐れみを、神さまの愛を受けるために、神さまの前に招かれています。

 だからこそ、私たちは自分たちの罪ということについて、謙虚でありたいと思います。人がどうであるとか、他の国がどうであるというようなことではなく、私たちキリスト者は神さまの前に自分がどうであるのかということを、心に留める者でありたいと思います。こころを静かにして、自分の歩みを振り返りながら、私たちは神さまの御前に立つ者であることを、心に留めたいと思います。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神さまは私たちを悔い改めに導いてくださり、私たちを祝福してくださいます。神さまの深い愛に、私たちの歩みをお委ねいたしましょう。


2025年8月8日金曜日

2025年8月3日

 2025年8月3日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「許された者として生きている。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:43-48節

 41年ぶりに、この5月にフィリピンの首都のマニラにいきました。戦後80年になりますから、フィリピンを侵略した日本人というような目で見られていると感じるようなことはありませんでした。それでもフィリピンの国立博物館に行きますと、フィリピンの歴史のなかで、日本がフィリピンに対して行なったひどいことなどの展示はなされています。そのような絵画を見ながら、私たちの国がアジアの国々に対して行なった戦争のことを忘れてはいけないと思いました。

 イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。あなたたちは自分たちは神さまから選ばれた民で、特別な人間であると思っている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われて、戸惑っているけれども、でも自分を愛してくれる人を愛するというようなことは、あなたたちが罪人だと思っている徴税人だってやっていることだろう。自分の仲間内にだけ挨拶するのだったら、異邦人だって同じことをしているだろう。あなたたちは自分は神さまの民で、自分たちは特別だと思っているのだったら、徴税人や罪人、異邦人たちよりもはるかに高い倫理観がなければ、おかしいだろう。神さまが完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい。

 私たちは、「悪い人がいて、その悪い人が自分に対してひどいことをしてくるのに、その悪い人を赦すことができるのかなあ」という思いになります。悪いのは相手で、自分ではないというふうに思って、「敵を愛することなんてできるのかなあ」というふうに思います。

 でも私たちは「敵であるのに、赦された」という経験をもっています。私たちの国はアジアの国々に対して侵略を行ない、ひどいことをしました。それでも戦争がおわったあと、アジアの国々は敵である日本を赦し、日本を徹底的に憎み続けるということはしませんでした。日本と戦争をしていたアメリカも、戦後の日本の復興のために、いろいろなことをしてくれました。私たちは「敵であるのに、愛された」という経験をしています。

 私たちの世界が平和な世界になりますようにとお祈りをしたいと思います。あきらめることなく、互いに尊敬しあい、互いに思いやることのできる私たちの世界になりますようにと祈っていきたいと思います。


2025年8月2日土曜日

2025年7月27日

 2025年7月27日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「落ち着いて考え、前に進む」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 7:15-29節

 女優の長澤まさみは、「自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと」(CALSSY,2025.4.28)と言っています。倫理観をもって、互いに尊敬しあって生きていくということは、とても大切なことなのだと思わされました。

 何が本当か、何がうそなのかが判断がつきにくい社会になりました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」という電話が、警察からかかってきます。この電話ははたして警察からかかってきた電話なのか。「クレタ人はいつもうそつき」(テトス1章12節)と言っているクレタ人のような話です。

 「偽預言者を警戒しなさい」「偽警察を警戒しなさい」。詐欺事件やフェイクニュースにあふれた私たちの社会です。なかなか大変な世の中ですが、私たちはイエスさまの教えを大切にして、落ち着いて考え、前に進んでいきます。

 人にだまされないということも大切ですが、しかしもっと大切なことは自分がどのように生きるのかということです。ということで、何を土台にして生きていくのかということが問われるわけです。「家と土台」という聖書の箇所では、そもそもはイエスさまの言葉を聞いて行なうか、行なわないかということが問われているわけです。しかし読む私たちは、「何を土台にして生きていくのか」ということが気になるわけです。そしてそれは「何を土台として生きていくのか」ということは、とても大切なことであるからです。いいかげんなものを土台にしていては、人生をあやまってしまうのです。私たちは確かな土台として、イエス・キリストにより頼んで生きていきます。

 今日の聖書の箇所は、イエスさまの大切な教えが書いてあると言われる、山上の説教の最後のところにあたります。山上の説教は、マタイによる福音書5章からはじまり、7章で終わります。

 イエスさまは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。イエスさまは「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。イエスさまは「富は、天に積みなさい」と言われました。イエスさまは「人を裁くな」と言われました。イエスさまは「狭き門から入りなさい」と言われました。

 イエスさまの教えを土台として、イエスさまから離れることなく、歩んでいきたいと思います。