2025年6月26日木曜日

2025年6月22日

 2025年6月22日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「良き人として生きたい人の群れが流れとなって」小笠原純牧師

  マタイによる福音書 3:1-6節

 文化人類学者の松村圭一郎の『うしろめたさの人類学』という本を読んでいると、自分があたりまえのように考えていたことが、世界のどこででもあたりまえではないということを、いまさらながら気づかされました。エチオピアでは戸籍や住民票がないので、親はすぐに子どもに名前を付ける必要もない。家族が生まれた子どものことを、それぞれ好き勝手な名前で呼ぶこともあるそうです。

 私たちは自分の周りのことだけをみて、自分の常識で判断をして、「もうだめだ」「世の中、どんどん悪くなっている」と悲観的にみてしまうことがあります。しかし私たちの常識を超えたところで、そうでもないということがあるかも知れないわけです。

 洗礼者ヨハネはイエスさまが来られる前に、人々に悔い改めを迫った預言者です。洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で人々に宣べ伝えていました。洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、多くの人々が洗礼者ヨハネのところに集まってきます。「こんな怖い人のところにいくのはいやだ」というふうに思うのではなく、神さまに向き合い、「わたしは悔い改めなければならない」と思い、怖い洗礼者ヨハネのところにやってくるのです。

 神さまを求めていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように素直に思う人々がいたのです。悔い改めの洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのところにやってくるわけですから、はじめからそのように思っていたというわけではないのです。神さまの御心に反して、自分の好きなように生きていたのです。「少々悪いことをしてもいいじゃないか。みんなやっていることだし、おれだけが悪いわけじゃない」。そうした思いをもって生きていたのです。しかし思い直して、やはり神さまを求めて生きていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように思い直して、洗礼者ヨハネのところにやってきて、洗礼を受けて、自分の生き方を変えていった人々がいたのです。

 私たちの世界には、私たちと同じように、争いではなく、愛にみちたわかちあいの世界に生きていきたいと思っている人たちがたくさんいます。「平和な世界になりますように」と、毎日祈っている人たちがたくさんいます。私たちもそうした人たちと同じように祈り続けていきたいと思います。そしてイエスさまが教えてくださった小さな愛の業に励みたいと思います。良き人として生きたい人の群れが流れとなって、私たちの世界が神さまの愛に満ちた世界となるようにとお祈りしたいと思います。


2025年6月20日金曜日

2025年6月15日

 2025年6月15日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「幼子のような者に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 11:25-30節

 梅雨によみたい絵本に、西巻茅子『ちいさなきいろいかさ』(金の星社)という絵本があります。西巻茅子さんの絵は、こどもが描いたような絵です。わたしはこの絵をみながら、「なんでこんなへたくそな、こどもの描いたような絵がいいんだろうか」と思っていました。この素朴な疑問を、わたしの妻にしたところ、妻は「これはわざとこどもの描いたような絵を描いているんだ。そしてこの人の絵本は、こどもが描いたような絵のように見えるけれども、構図なんかはとってもよく計算されて描かれてあるんだ」というふうに教えてくれました

 西巻茅子さんはこどもの気持ちを大切にして、そしてこどもが自分の絵と似ていると思ってくれるような、こどもが描いたような絵を描いておられます。こどものときの素直でひたむきな気持ちを、年をとっても持ち続けることは、なかなかむつかしいことですが、西巻さんはこどもが描いたような絵を描き続けることによって、こどもの気持ちをずっと持ち続けているのでしょう。だからこどもから愛される絵本を描くことができるのです。いつまでも幼子のような気持ちを大切にしておられるのでしょうね。

 私たちの救い主であるイエスさまは「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われました。「神さまのことは、子どものほうがよくわかるよ」とイエスさまは言われたのです。大人がむつかしく神さまの話をするよりも、子どものほうは神さまのことをよく知っている。この『かみさまへのてがみ』(谷川俊太郎訳、サンリオ)などを読んでいると、ほんとうにそうだなあというふうに思います。

 幼子のような者とは、もちろん子どもたちはそうですけれど、疲れた者、重荷を負う者が、幼子のような者だと、聖書は私たちに教えてくれます。イエスさまは、「みんなで神さまのところにきて、子どものように休みましょう」と言われました。神さまを信頼して、神さまに委ねて、子どものように休もう。

 わたしは教会というところは、安心して休むことができるところであればと思います。これ、教会で休むというので、教会を休むというのでないところがミソなのです。「で」と「を」では大違いなので、ひとつ誤解のないように。教会がなにもかも忘れて、神さまの愛の中でゆったり、ゆっくり休めるところであればと思います。


2025年6月13日金曜日

2025年6月8日

 2025年6月8日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「教会ー思いやりをもって生きるー」 小笠原純牧師

  使徒言行録 2:1−13節

 ペンテコステおめでとうございます。今日は姉妹教会のPOVUCC教会から、19名の方が礼拝にいらしてくださっています。

 イエスさまの弟子たちに聖霊がくだって、彼らは「ほかの国々の言葉で話しだし」ます。「ほかの国々の言葉で話した」というのは、相手の立場に立って、相手の気持ちになって話をしたということです。自分の都合ではなく、相手の気持ちを大切にして話すことによって、話が伝わっていくのです。

 人はなかなか思っていることを口に出せないものです。人は「大丈夫」と言われると、大丈夫でなくても、「大丈夫」と応えてしまったりします。わたしは若い時に、病気になって入院をするということがありました。大学病院ですから医学部の教授の回診というがありました。みんな病気なので、「ここがいたいとか、ここが気になる」「いろいろ質問してみよ」というようなことを言っているわけです。でも実際に回診のときに教授から「小笠原純さん、大丈夫ですか」と尋ねられると、「大丈夫です」と応えたりしてしまっていました。

 教会というところは、相手の気持ちになってとか、思いやりをもってということを大切にしているところです。それは教会がもともと、相手の気持ちになって、相手の立場に立って、神さまのことを伝えることによってできてきたところだからです。

 そして教会は、「赦し合う」ということを大切にしているところです。キリスト教のもっとも大きな特色は、失敗者・落伍者が伝えた宗教だというところです。イエスさまの一番弟子と言われていたペトロは、イエスさまが十字架につけられるときに逃げてしまいました。ペトロだけでなく、他のお弟子さんたちもイエスさまを裏切りました。しかしそのイエスさまを裏切ったお弟子さんたちが、復活されたイエスさまに出会い、赦されて、神さまのことを伝えて行きました。

 ですからキリスト教は失敗者・落伍者が「自分が赦された」という喜びを伝えた宗教なのです。それで自分が赦されたのですから、キリスト教は「赦し合う」ということを大切にしています。教会は、「思いやりをもって生きる」「赦し合う」ということを大切にしているところです。ちょっと疲れたなあとか、なんかちょっと不安な気がするなあというようなとき、ぜひ教会に行ってみてください。

 皆様のうえに、神さまの恵みと祝福とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 

2025年6月6日金曜日

2025年6月1日

 2025年6月1日 復活節第7主日礼拝説教要旨

「隠れたことを見ておられる神がおられる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 24:44-53節

 ウォルト・ホイットマンの詩に「わたしはアメリカが歌うのを聞く」という詩があります。この詩を読んでいると、現代のアメリカの労働者の人たちの気持ちがわかるような気がします。神さまの祝福のもと、機械工が、大工が、石工が、船員が、靴屋が、木こりが、母親が、少女が、若者が、誇りをもって歌を歌いながら働くことができるような社会であってほしい。素朴なアメリカの人たちはそんな気持ちをもちながら過ごしているような気がします。しかしそうした気持ちにアメリカ政府は政策として応えてくれなかった、自分たちの声を聞いてもらえなかったという気持ちがあるのだと思います。

 イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたときは、イエスさまのことを信じることができずに逃げ出す弱い人たちでした。しかしよみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまから赦され、祝福を受け、神さまを信じて新しく歩み始めます。

 私たちの時代、とくに20世紀から21世紀にかけて、神さまを信じて歩むということが、だんだんと薄らいでいった時代であるような気がします。そして個人主義的な傾向が強くなり、自分の力で生きているかのような錯覚に陥ることが多くなったような時代です。自己責任が強調されるようになり、運良く時代の勝者になった人が自分の力でそのようになったと錯覚することが多くなり、困っている人、悩んでいる人の声に耳を傾けることが少なくなった時代であると思います。そして分断がすすみ、二つに分かれて、極端な対立をするということが多くなりました。ひと言で言えば、「神を求めない時代」と言えるかも知れません。自分の力で生きていると錯覚しているわけですから、神さまを求めることはないでしょう。しかしそういう時代であるからこそ、「神さまを求めて生きる」ということが、とても大切なことであると思っています。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる。神さまが私たちのことを知っていてくださる。神さまが私たちの声を聞いてくださると思えるとき、私たちは対立ではなく、愛によって互いにわかりあう道へと導かれていきます。憎しみではなく、愛によって生きていく道へと導かれていきます。互いに声を聞きあい、互いに尊敬しあって歩んでいくことができます。

 来週は聖霊降臨日、ペンテコステを迎えます。神さまの霊である聖霊を待ち望みつつ、神さまにより頼んで歩んでいきたいと思います。


2025年5月31日土曜日

2025年5月25日

 2025年5月25日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「祈りによってわたしが整えられる」 小笠原純

  マタイによる福音書 6:1-15節

 平川克美は『会社は株主のものではない』(洋泉社)のなかで、「会社は誰のものでもない。幻想共同体としての会社という視点」ということを言っています。「お金という指標を至上目的とした競争のなかで会社を考えると、どうしても3年ぐらいのスパンでしか考えられませんが、会社というものをもっと長いスパンで考えてみませんかと。10年や20年、あるいは100年というようなスパンで考えると、どういうあり方があるのかを考えてみませんか、ということです」(P.129)。こんなふうに考えると、会社と教会というのはある意味、似ているところがあります。教会というところは、神さまを相手にしていますから、長いスパンで物事をみています。

 人は何か良いことをしたら、すぐにほめてもらいたいと思います。なかなかほめてもらえなかったら、どうして自分はこんなに評価が低いだと怒りたくなったりします。しかしイエスさまはそんな人間の小さな評価よりも、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということの方が大切だと言われます。そんな投機的な株主のようにすぐに報いを回収しようとするのではなく、長期的な展望に立って「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということを心に留めて生きていきなさいと、イエスさまは言われました。

 「小さな良き業に励み、そして神さまに祈りをする」。小さな良き業に励むと言われても、わたしは悪人だから自信がないという方もおられるかも知れません。でも神さまは私たちを祈りによって変えてくださいます。神さまに毎日毎日お祈りをしていると、必ず神さまは私たちをつくり変えてくださいます。

 私たちは祈りによって整えられていきます。ですから祈るということはとても大切なことなのです。私たちの神さまは願う前から、私たちに必要なものをご存じです。それじゃあ、祈る必要はないじゃないかと思えますが、それは違うわけです。私たちが祈ることによって、私たち自身が整えられていくのです。自分勝手な願いをする私たちから、神さまの御旨を求めていく私たちへと整えられていくのです。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。私たちに報いてくださる神さまを信じて、そして小さな良き業に励む。祈りながら、神さまが私たちを整えてくださることを信じて歩んでいく。お一人お一人の歩みを、神さまは豊かに祝福してくださいます。


2025年5月24日土曜日

2025年5月18日

 2025年5月18日 復活節第5主日礼拝説教要旨

「わたしは道であり、真理である。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 14:1ー11節

 韓国の小説家ファン・ジョンウンは、『誰でもない』(晶文社)という本のタイトルについてつぎのように記しています。【この本のタイトルもまた、『誰でもない』ではなく『何でもない』と誤解されることがありました。・・・。私には、私が属している社会で人々が自分自身について、そして他の人について考えるときの姿勢が、ここに反映されているのだと思えます。私/あなたは、何でもない】。

 「誰でもない」小さな者である私たちですが、しかし「他の誰でもない」大切な一人の人間であるのです。イエスさまもまた私たちにそのことを教えてくださいました。あなたは神さまから愛されているかけがえのない一人の人間である。イエスさまは病気の人々、悩みの中にある人々のところをお訪ねになり、そしてその人が神さまの愛の中にあるかけがえのない大切な一人であることをお伝えになりました。

 イエスさまは弟子たちに「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。イエスさまによって、私たちは真理を知り、命を得ることができる。そしてイエスさまによって、私たちは神さまへと導かれていきます。そしてイエスさまによって、イエスさまの十字架と復活によって、私たちは永遠のいのちを得ることができるということです。

 十字架を前にして、イエスさまは弟子たちを励まします。なんとなく不安になっている弟子たちに「あなたたちは大丈夫だ」と言われます。「あなたたちは道であり、真理であり、命であるわたしのことを知っているのだから、大丈夫だ」と言われます。弟子たちは自信がありません。自分がちっぽけな存在であることを知っているのです。誰でもない、何者でもない、自分であることを知っています。そして不安になります。しかし、イエスさまは弟子たちを、他の誰でもない大切な一人として愛してくださいます。そしてわたしを信じなさい。わたしにつながっていなさい。わたしは道であり、真理であり、命である。このわたしはあなたたちを離しはしない、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、弟子たちを招かれたのでした。

 イエス・キリストは私たちを招いておられます。誰でもない、何者でもない私たちを、イエスさまは他の誰でもない大切な大切な一人として、私たちを招いてくださっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。私たちはこのイエスさまが示してくださった神さまへの道を、しっかりと歩んでいきたいと思います。


2025年5月16日金曜日

2025年5月11日

 2025年5月11日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「母の願いをこえて」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 20:20-28節

 今日は母の日なので、わたしの母の思い出の出来事をお話いたします。それは「石油ストーブ丸焼け事件」という出来事です。わたしがストーブを消火することなく、灯油を入れていて、満杯になり灯油が飛び散って、ストーブが燃え始めるということがありました。母はそのときふとんをもってきてストーブを包み、そしてストーブを庭に出しました。そして事無きを得たということがありました。わたしの母は力持ちというような人でもありませんでした。しかしこのときの母は力強かったなあと思います。そしてこども心に、母がいてくれて心強いなあと思いました。

 聖書にもある母親の物語が記されてあります。ヤコブとヨハネのお母さんの話です。ヤコブとヨハネのお母さんはヤコブとヨハネと一緒に、イエスさまに息子たちの出世を願いに行きます。身勝手なお願いをヤコブとヨハネのお母さんは、イエスさまにしたわけですが、このお母さんの気持ちもわかるような気がします。親というのはこうした愚かさをもっているのです。「自分の子がかわいい。そのためには少々勝手なことをしてでも・・・」という気持ちがあるのです。

 しかしこどもはそうした親の思いとは違った生き方をし始めます。ヤコブやヨハネは、イエスさまのところにお母さんと一緒にいって、お母さんに「この二人を大臣にしてください」とお願いしてもらうような人間でした。しかしイエスさまが十字架につけられ、三日目によみがえられたあと、よみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまを宣べ伝える生き方をし始めます。人々の上にたつのではなく、人々に仕える生き方をし始めました。この生き方はたぶんヤコブやヨハネのお母さんが望んだ生き方ではなかったでしょう。「そんなことやめてくれたら・・・」とお母さんは思ったでしょう。しかしお母さんはまた自分のこどもたちを誇らしく思ったことでしょう。そしてこどもたちのために、神さまにお祈りしただろうと思います。「わたしの願いとは違ったけれども、この子たちが、自分の思いどおり、人々に仕え、神さまに仕えて生きていけますように」。私たちは人間ですから、身勝手な思いで、人間的な思いをもつときがありますしかし神さまはヤコブやヨハネのお母さんの思いを越えて、人として確かな道へと、ヤコブやヨハネを導いてくださいました。

 神さまは心のなかに邪な思いをもつ私たちを、それでも愛してくださり、私たちの歩む道を整えてくださいます。神さまの愛の中を安心して歩んでいきたいと思います。