2025年3月30日 受難節第4主日礼拝説教要旨
「十字架のイエス・キリストに仕える」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 17:1-13節
科学史家の村上陽一郎さんは、「『復活』という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる」(「永遠のいのち」『私にとって「復活」とは』、日本基督教団出版局)と言っています。村上さんは、とにかく何であろうと、存在したものはすべて、神さまの中に存在しているのだ。すべてのものは神さまのなかに生きていると言っています。私たちはそういうかけがえのない人生を送っています。そして私たちは永遠に神さまの中に生き続けるのです。
山上の変貌と言われる聖書の箇所で、イエスさまの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなります。そしてモーセとエリヤがイエスさまと語り合います。しかしその後モーセとエリヤは消え去り、イエスさまがだけが残りました。
ペトロにとってモーセとエリヤと一緒にいた光り輝くイエスさまは、とても魅力的な人に見えました。わたしも仲間に入れてもらいたいと思えるすばらしい人に見えたのです。わたしも仲間に入れてもらって、モーセさま、エリヤさま、イエスさま、ペトロさまと言われたい。
しかしペトロの人生にとって、この出来事が大切な出来事であったかと言うと、あまり意味のある出来事ではありませんでした。ペトロが人生を振り返って、自分にとって大切な出来事とは何なのかと考えたとき、ペトロは光り輝くイエスさまの姿ではなく、十字架につけられてぼろぼろになっているイエスさまの姿こそが、わたしにとって意味のあることだったと答えるでしょう。ペトロを救ってくださったのは、光り輝くイエスさまではなく、十字架の上で苦しまれるイエスさまでした。そしてペトロは生涯、十字架につけられたイエスさまに付き従って歩んだのでした。
いろいろなものは色あせていくけれども、イエスさまによって救われたということだけは、色あせてしまうことがない。光り輝くモーセやエリヤは消え去ってしまうけれども、十字架への道を歩まれるイエスさまだけは、いつも私たちと共にいてくださる。
私たちは平凡な人間に過ぎないわけですが、神さまにとっては大切な一人です。神さまは私たちを救うために、独り子であるイエスさまを十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは取るに足らないものですが、しかし神さまにとってはひとりひとりがかけがえのないダイアモンドであるのです。そして私たちは、永遠なものである神さまにつながっているのです。