2025年9月7日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
「大切なのは愛だよ。」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 13:24-43節
小説家の高橋源一郎は、生涯でもっとも感動したこととして、こんなふうに記しています。「ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない」(P.187)(高橋源一郎『ラジオの、光と闇ー高橋源一郎の飛ぶ教室2』、岩波新書)。誰かと手をつなぐということがその人の生涯にとってかけがえのない意味のあることとして残るというのは、とてもすてきなことだと思います。
イエスさまが話された「毒麦のたとえ」では、早急に人を裁くというようなことはやめて、神さまにお任せしなさいというような感じでした。しかし「毒麦のたとえの説明」では、やたら人を裁くようになっています。毒麦は悪い者の子らであり、そうした人々はみんな集められて、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。そこで泣きわめいて歯切りしする。悪いやつらは徹底して、世の終わりの時に裁かれるのだというような感じです。もともと「毒麦のたとえ」は天の国のたとえ話であったはずなのに、なんか地獄の話になっているような感じがするわけです。やはり人は、人を裁くというのが好きなのだろうなあと思います。人はやたらと人を裁きたがるわけです。
イエスさまはやたらと人を裁くのではなく、裁くのは遅くしたほうが良いと言いました。そして裁くのではなく、神さまの愛を伝えていくことが大切なのだと言われました。「大切なのは愛なのです」。人を裁いたり、自分を裁いたりすることではなく、神さまの愛を知ることなのです。使徒パウロは「いろいろなものは消え去っていくけれども、信仰と希望と愛はいつまでも残る。そして一番大切なのは愛なのだ」と言いました。コリントの信徒への手紙(1)13章13節です。愛は神さまから出たものなので、それがもっとも大切なのだと、使徒パウロは言いました。
批判をすることも大切なことですが、しかしそれだけではだめなのだと思います。やはり愛が大切なのです。神さまの愛を大切にすることが、この社会を神さまの御心にかなった世界へと変えていくのです。
この世にあっては、いろいろと悲しい出来事も起こりますし、怒り心頭に達するような出来事も起こります。それでも私たちはイエスさまの愛に満ちた世界に生きています。イエスさまの愛をしっかりと受けとめて、そしてイエスさまをほめたたえつつ、小さな良き業に励む歩みでありたいと思います。