2025年12月27日土曜日

2025年12月21日

 2025年12月21日 待降節第4主日礼拝説教要旨

「クリスマス、小さき私たちのために」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1-7節

 クリスマス、おめでとうございます。

 詩人の工藤直子さんの詩に、「あいたくて」という詩があります。

【だれかに あいたくて なにかに あいたくて 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで 迷ってしまった子どもみたい

とほうに くれている

 それでも 手のなかに みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから それを手わたさなくちゃ

 だから あいたくて】

 わたしにあうために生れてきたという人がいるのではないか。そのように思えます。ただひとりの赤ちゃんだけが、永遠に、ずっと変わりなく、私たちにあうために生れてきてくださったのです。クリスマスは、このただひとりの赤ちゃんがこの世に生れたことをお祝いする日です。この赤ちゃんは、神さまの御子イエス・キリストです。イエスさまは「神さまの愛」ということづけを、手のなかににぎりしめて、私たちにそれを手渡すために生れてくださったのです。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と聖書にありますように、イエスさまはこの世に居場所がない者として、お生まれになられました。イエスさまは小さき者として、この世にお生まれになられました。

 御子イエス・キリストは、小さな私たちにあうために、この世のお生まれになられました。イエス・キリストは、神さまからの愛を握りしめて、私たちのとどけるために、この世に生まれてくださいました。私たちに会うために生れてきてくださった方が、私たちにはいてくださいます。そして私たちはクリスマス、イエス・キリストのご降誕をお祝いするのです。

 そしてまた私たちも、イエス・キリストにあうために生れてきたのです。「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」と言われる、イエスさまに応えて、わたしたちもまた「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」との感謝の思いを表わしたいと思います。


2025年12月19日金曜日

2025年12月14日

 2025年12月14日 待降節第3主日礼拝説教要旨

「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 1:1-5節

 アドヴェントも第三週に入りました。ルネサンスの画家、ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵を描いています。「聖母子」という絵ですから、マリアさんに抱かれたイエスさまの絵です。この絵のイエスさまの右手は、だらんとなっています。このだらんとなっているイエスさまの右手は、イエスさまの死を表しています。御子イエス・キリストが私たちの世に来てくださったのは、私たちのために十字架についてくださるためだからです。《聖母子(アルベルティーニの聖母)》は、イエスさまのご降誕のお祝いの絵でありながら、イエスさまの十字架の死を同時に、私たちに伝える絵であるのです。

 ヨハネによる福音書の今日の聖書の箇所は、イエスさまが私たちの世にきてくださったその理由について書き記しています。イエス・キリストは神さまの御子であり、神さまの独り子であったが、私たちのためにこの世にお生まれになられた。それは私たちの世が暗闇の世であり、神さまのみ旨に反した世の中であるからである。暗闇の世は、私たち人間の罪が作り出した悪しき世の中である。どろどろとした邪な思いを抱え、苦しみ私たちのために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださり、私たちの罪をあがなってくださった。イエス・キリストの十字架によって、私たちは神さまによって救われた。イエス・キリストは暗闇の世に生きる私たちの光であり、私たちの救い主である。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。

 人間の心の闇が広がってくると、必ず排外主義的な主張が、世の中に拡がってきます。そして争いの雰囲気が広がり、世界が不幸な道へと歩み始めていきます。それは人が自分の心の闇に静かに目を向けることが少なくなってきているからです。心静かに、自分のことを顧みる時に、私たちは神さまの深いあわれみを知ることができます。そして私たちは自分が神さまから愛されている大切な人間であることを知ることができます。そしてまた自分がそうであるように、わたしの隣人も同じように神さまから愛されている大切な人間であることに気づきます。

 私たちの世の中がどんなに暗くとも、イエス・キリストは暗闇の中で輝いておられる。どんなに私たちの世が暗闇を抱えていても、イエス・キリストはその暗闇を打ち砕き、そして神さまの大きな祝福を、私たちにもたらしてくださる。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。


2025年12月13日土曜日

2025年12月7日

 2025年12月7日 待降節第2主日礼拝説教要旨

「かけがえのない命」 大澤宣牧師

  1コリント 12:14〜26節

 平安教会創立149周年を心よりお慶び申し上げます。歴史を導いてくださった神様の御名を讃美いたします。そして、この歴史は、今日お集まりの皆様、そして、今日はここにおられない皆様が、主の導きに応えて編みだしてこられたものであることをおぼえさせられます。多くの方たちがこの教会に連なられ、歩んでこられたことを思います。そして、多くの先達たちが、今は天に召されて、主の栄光をたたえている群れに加えられていることを思います。私たちは、この先達たちと目には見えないつながりを与えられ、今も共にあることを覚えたいと思います。

 灰谷健次郎さんが書かれた『わたしの出会った子どもたち』という本の中に麻理ちゃんという女の子のことが書かれています。麻理ちゃんは、筋肉がマヒしていくという、体の不自由さをもっている女の子でした。笑っているのか、怒っているのか、ふだんから接している人でないと、表情を読み取ることができません。この麻理ちゃんに冷たい言葉を発する人がいました。灰谷健次郎さんは、その言葉をひどい言葉だと思いながらも、堂々と反論することができなかったのでした。

 何かが上手に出来ること、速くできること、力が強いこと、そういうことばかりに心が向いていると、見落としてしまうものがあるのではないかと思います。そして、人を切り捨ててしまうことになってしまうことを思わされます。速さや強さや効率の良さだけに目を奪われて、命を慈しむ心、人間としての優しさ、人間らしささえも失ってしまうことを思わされます。

 聖書の言葉は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と語ります。

 わたしたちはそれぞれの課題を抱え、重荷を抱えているものです。心細い思いをし、不安を感じつつ歩むものです。しかし、私たちの主イエス・キリストの言葉を携えて歩むことをゆるされている。その歩みは希望を持って進むことのできる道なのです。

 平安教会の皆様が、教会の大きなご計画を持たれ、希望をもって進もうとしておられることと思います。おひとりお一人の信仰の歩みの中に、課題があり、悩みがおありのことと思います。しかし、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださるのです。どのようなときにも、希望を持つことがゆるされています。いつも喜んでいること。絶えず祈ること。すべてのことに感謝すること。その歩みをすすめてまいりたいと思います。


2025年12月5日金曜日

2025年11月30日

 2025年11月30日 待降節第1主日礼拝説教要旨

「もういくつねるとクリスマス?」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 13:21-37節

 今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントに終末の聖書の箇所が読まれるというのは、アドヴェントが「来臨」という意味で「イエスさまが来られる」ということだからです。イエスさまが来られるというのは、ひとつにはイエスさまがお生まれになられるということです。そしてもうひとつは、イエスさまが世の終わりの時に来られるということです。

 ですからアドヴェントのときは、私たちにとっていったい何が大切なことであるのかということを心に留めるときであるのです。私たちは日常生活のなかで、いろいろなことに心を煩わせます。いろいろと考えなければならないことがたくさんあるわけです。「あれも必要だし、これも必要だ」「これもしなくてはならない。あれもしなくてはならない」。なんとなく続く日常生活のなかで、本当に大切なものは何だろうかと、手を休めて考えてみるときなのです。

 クリスマス時期になると、本屋さんによく並べられている本の中に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。カポーティが小さいこと、一度だけお父さんと過したクリスマスについて書かれてあります。カポーティのお父さんは女の人からお金を巻き上げて、生活をしていました。ろくでもない人であったわけですが、しかし彼はカポーティが送った葉書を、生涯、大切にしまっていました。カポーティのお父さんにとって大切なものは、自分の息子であるカポーティであったのでしょう。しかし彼はカポーティを大切にするような生き方をしませんでした。

 アドヴェントは落ち着いて、自分にとって何が大切なのだろうかと考えてみましょう。そしてできれば、自分が大切だと思うことを、大切にする生き方へと変わっていくことができればと思います。しかしカポーティのお父さんのように、そんなふうに生きることができないかも知れません。ただ、そんな弱さを抱える人間のために、主イエス・キリストをこの世にやってこらました。だめな私たちの光となるために、愚かな私たちを救ってくださるために、主イエス・キリストは私たちの世にやってきてくださいました。だからこそ、私たちはイエスさまのことが大切でたまらないのです。

 アドベントは私たちの大切なイエスさまを待ち望みながら過ごすときです。私たちを救うためにきてくださるイエスさまを待ち望みながら、クリスマスの準備をいたしましょう。


2025年11月29日土曜日

2025年11月23日

2025年11月23日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

「両手にもてるものだけにしなさい」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 10:17-31節

 今日は収穫感謝日です。秋の実りを、神さまに感謝する日です。神さまから与えられた豊かな恵みは、ひとりじめするものではなく、みんなでわかちあうものであることを、覚えたいと思います。

 わたしが新潟県三条市の三条教会にいたときに、教会員のかたが、市に買い物に行ったときの話をしてくれました。市っていうのは道路に臨時の店が出ていて、いっぱい野菜や果物や魚が売っているところです。スーパーで買うより、ものすごく安くかえます。彼女は家から橋を渡って、市に買い物に行きました。市につくと、いっぱいいろんなものが安く売っています。そんなのを見ると、もううれしくなって、「これも買おう。あれも買おう。この魚も買おう。このスイカも買おう」って、いっぱいいっぱい買いました。そして市からの帰り道、いっぱい買ったものをもっていると、だんだんとしんどくなってきました。いっぱい、いっぱい、買ったから。ふうふう言いながら、汗をながしながら、両手にあまるような買い物を、必死でもって帰ったそうです。そんな話を彼女はわたしにしてくれて、「もう、帰り道の橋の上まで来たとき、もう、この橋の上から買った荷物全部なげすてようかと思いました」「でもまた、市に行ったら、同じように、買ってしまうんですよね。人間て、ばかですねえ」と笑っておられました。

 イエスさまのところに、お金持ちの男の人がやってきました。そしてイエスさまに「永遠の命を得るためには、どうしたらいいでしょうか」と聞きました。イエスさまは掟を守りなさい。そして「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。

 お金持ちの男の人は、このイエスさまの言葉を聞いて、びっくりしました。男の人にはたくさんの財産があったので、「この財産を貧しい人にあげるなんてことはできない。これはおれのものなんだから」って思いました。そして、イエスさまの前から立ち去ってしまいました。

 ぼくたち、私たちのこころのなかにも、このお金持ちの男の人のようなこころがあります。「おれのものは、おれのもの。だからだれかとわけるなんて、いやだ」。イエスさまは「おれのもの、おれのもの」っていう世界から、「みんなでわかちあおう」っていう世界にしたいよねって、私たちに教えてくださっています。

 

2025年11月21日金曜日

2025年11月16日

 2025年11月16日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

「苦労もなくなり、力がわいてくる。」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 13:5-13節

 農業研究者の篠原信の『そのとき、日本は何人養える? 食料安全保障から考える社会のしくみ』(家の光協会)を読みながら、いろいろと考えさせられました。「戦争、原油高騰、温暖化、大不況、本当は何が飢饉をもたらすのか」と書いてあり、ああ、なかなか大変な世の中だと思わされます。

 「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」という言葉は、宗教改革者のマルティン・ルターの言葉だと言われたり、いやそうではないと言われたりする言葉ですが、良い言葉だと思います。慌てず、騒がず、落ち着いて考え、自分のできることをするという基本姿勢が感じられます。慌てふためくと、フェイクニュースを信じて、とんでもないことをやってしまうのです。落ち着いて考えるということが大切であるわけです。

 世の終わり・終末というと、いろいろな天変地異が起こったり、迫害が起こったりするという聖書に書かれてありますから、ちょっと怖い感じがします。「世の終わり・終末が来たら、もう世の終わりだなあ」と思うわけです。でも世の終わり・終末というのは、ただただ怖い時として、聖書が語っているわけではありません。世の終わり・終末というのは、再びイエスさまが来られるときであるわけです。とんでもなくたいへんなときに、イエスさまが来てくださるということが言われているということです。

 私たちはいろいろなことで不安になったり、慌てたりします。まあ人間はちっぽけな存在ですし、不安になったり、あわてたりするわけです。イエスさまはあなたたちは人間でちっぽけな存在であるのだから、神さまに頼って生きていきないと言われます。いろいろなことで不安になったり、どうしようどうしようと思うようなことが起こってくるかも知れないけれども、でも聖霊があなたたちを導いてくださるから安心しなさい。取り越し苦労をすることなく、安心して神さまにお委ねしなさいと、イエスさまは言われました。

 神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは私たち人間を愛をもって創造されました。私たちは欠けたところが多いですし、すぐ腹を立てたりする弱いところがあるわけです。神さまなんて信じられないというような思いをもったりもします。それでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちを守り導いてくださいます。

 神さまを信じ、祈りつつ歩んでいきたいと思います。


2025年11月14日金曜日

2025年11月9日

 2025年11月9日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

「あの人の思い出・・・・消さないで・・・・」小笠原純牧師

ヨハネによる福音書 16:12-24節

児童文学作家の新美南吉の作品に「デンデンムシノ カナシミ」という作品があります。新美南吉のお母さんは、新美南吉が4才の時に天に召されています。新美南吉はある種のさみしさや悲しみを抱えて生きていたのでしょう。そして1934年、21才の時に結核の症状を自覚します。「デンデンムシノ カナシミ」は、その翌年の1935年に書かれた作品です。

「「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」。ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。」という、このデンデンムシは、たぶん新美南吉自身なのでしょう。

イエスさまの弟子たちにとって、イエスさまにまつわる思い出は、すべてが思い出してうれしいという思い出ではありませんでした。弟子たちはイエスさまが十字架につけられるときに、イエスさまを裏切って逃げ出してしまいます。恥ずかしい思い出、消し去りたい思い出がたくさんありました。イエスさまのことを知らないと言った出来事は、ペトロにとっては思い出したくない、できれば消し去りたいような思い出だったと思います。しかしペトロはこの思い出を消し去ろうとはしませんでした。この思い出は生涯にとって大切なイエスさまとの思い出であったからです。そしてペトロはこのイエスさまのことを知らないと言った弱い自分を抱えて、イエスさまのことを人々に宣べ伝えていきます。

イエスさまのお弟子さんたちは、「あの人の思い出・・・・・消さないで・・・・・」という思いを持っていました。イエスさまとの思い出をいろいろな人に伝えたいと思っていました。それはイエスさまが弟子たちの悲しみや苦しみをすべてわかってくださり、共に歩んでくださる方だったからです。そしてイエスさまは弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださる方だったからです。

「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。イエスさまはそう言われました。私たちにも悲しいことや辛いことが、ときに起りますが、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」というイエスさまの言葉を信じて歩みたいと思います。そしてイエスさまがそうであったように、悲しんでいる人、つらい思いをしている人の傍らに、そっと寄り添ってあげることのできる歩みでありたいと思います。