2025年10月19日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨
「神の負ける場所」(創世記 22:1-13節) 野本千春牧師
今から35年前、平安教会には何人かの精神に障害を持った人たちが土日に立ち寄ったり、教会員となって礼拝に出ていた。その中の30代の男性、Tさんはまだ若いときに統合失調症を発症したひとだった。高校卒業の前後よりずっと左京区内の精神科病院に入院し、週末に外泊と言って右京区の実家に帰っていた。Tさんは土曜日、外泊のときに教会に立ち寄って、日曜日の礼拝の準備をしている神学生であった私と会話をした。Tさんがあるときから「閉鎖病棟は神の負け」と何回も繰り返すようになった。Tさんは病院で「暮らして」20年近くがたっていた。その後、私は仕事でその病院の閉鎖病棟の中をのぞく機会を得たが、その病棟は落ち着いたクリーンな印象で、「神が負ける」地獄のような場所とは決して思えなかった。ではTさんが語った、「神の負け」とはどういう意味であったのか、そのことを彼のイエス・キリストへの信仰の証言として理解するまで私は長い年月を必要とした。Tさんは人生の半分を閉鎖病棟で送っていた。当時は統合失調症と言う名ではなく、精神分裂病と呼ばれていた時代。精神科の治療も現在以上に手探りの療法しかなく、現在の様に副作用の比較的軽い薬が開発されてはおらず、飲めば大きな負担が心身にかかった。病気が少し良くなってくると、今度は自分の置かれた状況を認識せざるを得ず、人生に絶望し自ら命を絶つ若者が多かった。病気になってしまえば神も仏もなかった。そのような状況で閉鎖病棟で人生を送っていたTさんにとって、そこが当時としてはいかに近代的な医療環境を維持できていたとしても、「神はそこでなになさっておられるのか」と心から嘆かざるを得ない場所であったと思う。しかしそのような場にもかかわらず、いやそのような場であるからこそ、イエス・キリストは彼と共に十字架につき、共に居られたのではないか。その体験をTさんは「閉鎖病棟は神の負け」という重い言葉で身をもって信仰告白をされたのではないか。イエス・キリストという私たちの神は、「閉鎖病棟は神が負ける場所」と言い切り、絶望を口にするTさんと共に十字架を担って居られた神なのではないのか。イエス・キリストは十字架の苦しみを苦しむものと共に苦しみ切り、復活の望みを望むものと共に望み切る神である。Tさんの言った「閉鎖病棟は神の負け」、すなわち「神の負ける場所」に在って、実にイエス・キリストは「インマヌエル」なる神、すなわち、「ともに居ます」神、であったのだ。今朝の聖書の箇所は、信仰の祖、と言われるようになったアブラハム、徹底して神とともに歩んだ人と、待ち望んで授かった最愛の息子イサクの物語である。アブラハムは神が命じるままに、最も大切なひとりご、イサクをほふり、神にささげようとした。その時のアブラハムの胸の内は描かれていないが、これ以上の苦しみはないというほどの苦しみを味わい、これ以上の痛みはないという痛みを味わったのではないか。新約聖書の、ヨハネによる福音書3、16は「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」、すなわち、神が最愛の独り子を人間の赦しと救い為にこの世にささげた、と証しするのである。そこに神御自身の痛切な苦しみと痛切な痛みがある。そして十字架の神、イエス・キリストは十字架というもっとも痛みと苦しみの、もっとも弱い姿を取られて、私たちに神の愛を顕してくださった。神は私たちの罪の赦しと和解と救いのために十字架の上で敗北してくださったのである。であるから、たとえ私たちが死の影の谷を歩んでいても、そこにはかならず私たちの神、イエス・キリストが共に歩んでくださっているのである。