2016年5月21日土曜日

2016年5月1日

2016年5月1日 主日礼拝 説教要旨
  「理解できない言葉・愛」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書9章30〜32節)

 イエスの宣教の中心地はガリラヤでしたから、ガリラヤには親しい友が沢山いたに違いありません。しかし、イエスはガリラヤを急いで通過して、しかも人に気づかれないように、隠れるようにして駆け抜けたというのです。何故でしょうか。イエスはエルサレムに行き十字架につく決意をしていたのです。そこから考えると、それは十字架への道を最短で取ったということではないかと考えます。
 そこには、イエスの強い思い、強い意志、イエスの深い気持ちが表れていたと見るのが良いと考えます。イエスは祈りつつ、ただ一直線に十字架へと向かわれました。その祈りの中でイエスは2度目の十字架と復活を告げます。しかし、弟子たちは「この言葉がわからなかった」のです。言葉自身は難しいものではありません。誰にでもわかる言葉だと思うのです。何故弟子たちは理解できなかったのでしょうか。ここに出てくる「ことば」はギリシャ語でレーマといいます。マルコ福音書では2回使われていて、もう一つはペトロの裏切りの場面です。「あなたは3度私を知らないというだろう」というイエスの言葉を思い出し、、、のところです。つまり、ことばとしては解っていても当事者がそのことを信じることが出来ない、そういう意味をもつ言葉として用いられているのです。
 弟子たちは自分の本当の事と受け止めて、その言葉に向かって生きることが出来ないので、心を背けているのです。だから「恐ろしくて聞くことが出来なかった」のです。それは、弟子たちが自分の本当の罪深さと弱さとを理解していないからです。イエスの十字架によってでしか救われないという自分の本当の惨めさに気づいていないからなのです。
 イエスが十字架につけられた時、弟子たちは一目散にイエスを捨てて逃げ去りました。自分の醜さを目の当たりにして、どれほど悲しい存在なのかを知ったのです。そして、裏切った弟子たちを十字架上でもなお愛し続けられたイエスを目の当たりにした時、何故イエスが殺されなければならないかを初めて理解したのです。イエスの愛は理解出来ない程の深い大きい愛なのです。

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