2016年5月24日火曜日

2016年5月8日


2016年5月8日 主日礼拝 説教要旨

「誰が一番偉いのか」宇野稔牧師

(マルコによる福音書9章33〜37節)

 イエスは十字架を思い一歩一歩祈る思いで一心にエルサレムへ向かう時に、弟子たちは「誰が一番偉いか」という話しをし、自分の出世を虎視眈々と考えているのです。弟子たちは何と情けないのでしょうか。その弟子に対してイエスは、どっかりと座わり込んで、弟子たちをそこに呼び寄せたのです。つまり弟子たちも座らせたという事です。

 このスタイルは、弟子たちが寝食を共にしてきたことを思い起こすという効果があったのです。「今あなた方が関心を払うべきことは、誰が偉いかではなく、力を合わせるべき時なのだ」と云いたかったのではないでしょうか。

 そしてイエスは「一番になりたいなら、すべての人に仕えなさい」と語られたのです。さらに「仕える」という意味を知らせるために一つの行動を示されます。イエスは立ち上がり、周りにいた子どもを連れて来て、真ん中に子どもを立たせ、抱き上げられたのです。私たちはこの光景を違和感なく受け止めますが、当時の社会状勢を考えると、非常に珍しかったのです。子どもや女性は当時半人前の人間としてしか扱われていなかったのですから。しかしイエスが表したのは、子どもと女性を一人の人格者として受け入れられた、即ち、この世界の最も小さいもの、弱いものを受け入れられたのです。

 この意味するところは、私たちが生きる姿勢を全く変えること、自分の在り方を変えることを示されているのです。私たちもまた「偉くなりたい」という思いで生きてきていたのでしょうが、その時私たちは大切なもの、見失ってはならない大事なものを失くしてしまっているのです。私は30年間の幼児教育の現場で、卒園児に送る言葉として「偉い人になるより、賢い人になれ」と云い続けました。

 イエスは私たちに「さあ、座りましょう。一緒に座ってもう一度、中心にイエスがいて下さるということに心を留め、私たちの生き方を変えよ」と呼びかけておられるのです。耳を澄まして聴きましょう。

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