「水を飲ませてください」徳舛和祐牧師
(ヨハネによる福音書4章1〜22節)
人間イエスだって、喉が渇けば水が欲しくなるのは当たり前です。「神の力」を持ってすれば、何事でも出来る筈です。手を伸ばし、掬い取れば渇きは失せたはずです。でもそうしなかった。この世の掟にしなかったのでした。
水がすぐ手に入らぬのが、乾燥地帯なのです。道端の井戸であっても所有権があり、勝手に釣瓶を下ろすのは死を意味するのでした。イエスが寄り掛かった井戸は、ユダヤ人の軽蔑するサマリア人の持ち物でした。
そこの女に、薄汚れた何処とも知れぬ旅人の姿で請うたのです。ここに差別する哀れな者にも膝つきよっていく姿があります。「どうしてサナリアの女の私に、」と、土埃まみれの、ユダヤ人の頼みは女性に取っては、疲れていようが、女性には、渇いていようが知ったことではなかったのです。打っちゃっておいてもよかったのです。ここに、場面を転換するものがあったのです。それは、語り掛けてくるイエスの声ではなかったでしょうか?差別の中で、孤独に生きる者にその壁を取っ払う、今まで聞いたことのない声でした。聞こえていても聞こえないのではなく、「羊は私の声を聴き分ける」(ヨハネ10:16)。
神との出会いは、この女性への語り掛けの様に、1対1の中で、方向を失ったものへの働きかけなのです。呼びかけなのです。一人の戸惑う者へ、神の方へ向かわせる、体を震わせる何か得体のしれない、つき動かす「言葉」が、この時の彼女をすくったのです。キリストは、生きて行く上での渇きを知っておられたのです。それは「生きた水」に対する渇きです。
今、私達が生活を送るうえで受ける、あえぐ様々な渇きです。それを主イエスは知っていて居られるのです。サマリアの女は、今、目の前にいるユダヤ人が何者であるか、考える事となります。私達も、今、語り掛けてくる聖書の言葉が、誰の言葉かを真剣に考えなければならないと(11-12)で呼びかけておられます。今日から始まるアドベントは、イエス降誕の前にこの1年の自分をさらけ出して、神に倣うものであったかを、問うていただきたい。
アーメン
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