2017年1月15日 主日礼拝説教要旨
「祈りに支えられて」宇野稔牧師
(フィリピの信徒への手紙1章8〜11節)
パウロは投獄されています。不公正な裁判の場に引き出され「弁明」することを求められています。何と理不尽な状況でしょうか。しかし、驚いたことにパウロはそれを「恵み」だと云っているのです。
何故でしょうか。彼にとって状況が良いか悪いかが問題ではなく7節は「福音を弁明し立証する機会」と云っています。彼にとって大切なことは、福音が述べ伝えられることであり、キリストの愛を一人でも多くの人に伝えることでした。それは恵みに与っていることだからと云うのです。
パウロがもし自分にこだわって生きているなら、今ほど不幸なことはないと思います。しかし彼は「自分は使徒としてイエスのことを宣べ伝えるために生きている」と信じ切っていたのです。そう考えると嵐の中、苦難の時も、神が共にいて下さるのだから、投獄や裁判さえ恵みの時だと云えるのでしょう。恵みに与っているとはフィリピの教会との関係においてもいえることであり、お互いに向き合って祈っているかです。
9節に「私はこう祈ります」それはフィリピの教会の「愛」が豊かになるようにであり、「知る力」のことです。頭の中の知識ではなく、体に染み付いているような知識のことです。神が共におられるということを実感していることが大事なのです。「見抜く力」は、苦しい状況にあっても神の意志を「見抜く」信仰が大切なのです。さらに11節に「救いの日にとがめられることのないものになる」と祈っています。
私たちに出来ることは、主に結ばれている絆をあきらめないことです。自分にも、他人にも、この社会にもあきらめないことです。心を折ることなく、今のところから先ず一歩を歩み出すことです。それが神の愛への私たちの応答です。あきらめないために、心を折らないために、祈ることが大切なのです。相手を覚えて執り成しの祈りをすることが大切なのです。そして私たちは「お互いに祈りに支えられる」のです。