2017年1月30日月曜日

2017年1月15日

2017年1月15日 主日礼拝説教要旨
  「祈りに支えられて」宇野稔牧師
   (フィリピの信徒への手紙1章8〜11節)

  パウロは投獄されています。不公正な裁判の場に引き出され「弁明」することを求められています。何と理不尽な状況でしょうか。しかし、驚いたことにパウロはそれを「恵み」だと云っているのです。
 何故でしょうか。彼にとって状況が良いか悪いかが問題ではなく7節は「福音を弁明し立証する機会」と云っています。彼にとって大切なことは、福音が述べ伝えられることであり、キリストの愛を一人でも多くの人に伝えることでした。それは恵みに与っていることだからと云うのです。
 パウロがもし自分にこだわって生きているなら、今ほど不幸なことはないと思います。しかし彼は「自分は使徒としてイエスのことを宣べ伝えるために生きている」と信じ切っていたのです。そう考えると嵐の中、苦難の時も、神が共にいて下さるのだから、投獄や裁判さえ恵みの時だと云えるのでしょう。恵みに与っているとはフィリピの教会との関係においてもいえることであり、お互いに向き合って祈っているかです。
 9節に「私はこう祈ります」それはフィリピの教会の「愛」が豊かになるようにであり、「知る力」のことです。頭の中の知識ではなく、体に染み付いているような知識のことです。神が共におられるということを実感していることが大事なのです。「見抜く力」は、苦しい状況にあっても神の意志を「見抜く」信仰が大切なのです。さらに11節に「救いの日にとがめられることのないものになる」と祈っています。
 私たちに出来ることは、主に結ばれている絆をあきらめないことです。自分にも、他人にも、この社会にもあきらめないことです。心を折ることなく、今のところから先ず一歩を歩み出すことです。それが神の愛への私たちの応答です。あきらめないために、心を折らないために、祈ることが大切なのです。相手を覚えて執り成しの祈りをすることが大切なのです。そして私たちは「お互いに祈りに支えられる」のです。



2017年1月23日月曜日

2017年1月8日

2017年1月8日 主日礼拝説教要旨
  「喜び、祈り、感謝」宇野稔牧師
   (フィリピの信徒への手紙1章3〜6節)

 今日は成人の日祝福礼拝です。2001年にこの平安愛児園を卒園された16名を覚えます。その内、本日は教会員家族に成人になられた方々を招き3人の方が出席されておられ、祝福いっぱいの礼拝です。
 3節でパウロは「思い起こす度に」というのは執り成しの祈りのことです。対立する二者の間に立って事態が好転するようにうまく取り計らうということで、祈っているというのです。しかも感謝していると云います。こういうことはしばしばあることで、誰かに祈られている事に気がついていないのです。パウロの執り成しの祈りは最終的には神に「委ねる」ことです。
 4節には、だから神に委ねたので、もう考えることは止めにしようというのでなく、逆に「いつも喜びをもって祈る」と書かれているのです。喜びの根拠をどこにおいているのか、私たちはキリスト教を信仰しつつも、その生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないか、どんなに困った状況の中からでも神は必ず道を備えて下さるという希望を持ちつつ、その事柄に関わっていくということなのです。
 5節は「福音にあずかっています」。「あずかる」は交わりと訳されるのですが、過去から今日まで神が招き入れてくださっていることを云うのです。
 6節は将来のことです。「救いを完成して下さるのもまた、神であると確信する」とパウロは云っています。私たちの将来にあるものは「救いの完成」という喜びの出来事なのです。
 私たちは自分のあまりの惨めさに、生きる力を無くしてしまうこともあります。勇気がもてなくなります。しかし、そのような時に共にいて下さる神を思い起こすのです。神は過去から現在までいつも私たちと共にいて下さいます。そして今も共にいて救いの完成へと導いて下さっているのです。「私の救いは神による以外にない」のです。私たちは確信をもって私の将来を神に委ねていくことが出来ます。そのしるしが「今日まで神は私たちを導いて下さった」という事実なのです。今を喜び祈り感謝して明日に向かって歩み続けましょう。

2017年1月16日月曜日

2017年1月1日

2017年1月1日 主日礼拝説教要旨
  「愛の中を生きよう」宇野稔牧師
   (ヨハネの手紙Ⅰ4章7〜12節)

 新しい年を迎え教会生活やキリスト者としての生き方というものをテーマにして書かれているこの手紙を読み確認したいと思います。
 ヨハネの教会には異端と呼ばれる人々が現れ、教会内で問題になりました。これらの人々は精神的な高揚感や自分を高めることを大切にする人たちです。苦行して自分を追い込んで異様な精神状態の中で神と出会うという人もいました。しかし、この手紙の著者は「いまだかつて神を見たものはいません」と告げています。
 異端と呼ばれていた人々と他の教会員は対立し、裁き合い傷つけ合っていたのです。そこでヨハネの手紙の著者は何度も愛という言葉を使って語りかけているのです。愛というのは分かりやすく云うと大切にすることです。その時の自分の気分や、自分の敵だから味方だからといって変わるものではありません。異端の人々が自分を高めること、修行して出会おうとすることは確かに間違いではありません。しかし、それは愛ではありません。愛は自分が立派になることではなく、人より優れた者になることでもなく、相手に上から何かしてあげることでもありません。愛することの本質は、
その人の弱いところを大切にするということです。その人が悪い状態にあって苦しんでいる時に、一緒に生きるということなのです。
 強さでつながる絆はとてももろいものです。私たちは弱さでつながりましょう。自分も一緒に悩み、苦しむ生き方は格好が良いといえるものではないかもしれませんが、ヨハネの手紙の著者はそこにこそ神の愛が満ちていると云います。
 私たちの平安教会もそのような教会でありたいと思うのです。目立たなくてもいい、隣人のために祈り一緒に悩みましょう。そして、自分も誰かに祈られていることを、誰かが一緒に悩んでくれていることを信じましょう。
 私たちは、私たちの抱える弱さを絆としてつながっていくのです。これから始まる2017年、愛の中を生きて参りましょう。神の愛はこの弱さの絆の中にこそ満ちているのですから。

2017年1月9日月曜日

2016年12月25日

2016年12月25日降誕日 礼拝説教要旨
  「人の正しさは神の真理ではない」宇野 稔牧師
   (マタイによる福音書1章18〜25節)

 ヨセフは実直な大工として生きる中でマリアと結婚し、平凡でささやか ながらも幸せな家庭を夢見ていました。
 クリスマスはその夢を打ち砕く出来事として彼のもとに訪れました。 「マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフの心の中には、マリアに対しての疑いが重くのしかかります。「ヨセフは正しい人であったので」。そこで彼が選んだ道は密かにマリアとの婚約を解消することでした。罪を公にせず彼女と別れる決意をします。その「正しさ」に対して聖書は大きな問いかけをします。ヨセフにとっては、自らの正しさを貫徹するために縁を切ることが「正しさ」であり、最大限の思いやりであると考えます。しかし、聖書の教えは如何なる理由によっても人と人との関係を断ち切ることを認めません。一方マリアは自分の身に起こったことに対して一言の弁明もせず、ただじっと耐えているかのように沈黙します。
 神の独り子イエス・キリストの母となるという選びと責任の重さにこの名もない娘は一人では耐えられない。マリアにとっては、恵みというにはあまりにも重すぎるのではないか。今、ヨセフに必要なことは、マリアの石打の刑から守ることではなく、彼女を信じて自らの生活の中に受け入れ、彼女を支え、歩みを共にすることであったのです。
 ヨセフが大切に守り通そうとする「正しさ」がそれを拒むのです。ヨセフは「恐れずマリアを迎え入れなさい」との神のことばを聞きます。ヨセフにとって自らの「正しさ」を根底から揺さぶられる問い掛けでした。本当の正しさとは彼が持っている選択肢を超えた全く新しい道への招きなのでした。
 ヨセフは神の命じた通りに、マリアを妻として迎えます。この決断と行動において新しい生き方を発見します。自分の正しさを打ち砕くことは何と 困難なことか。しかし、苦しみ呻きの中から真の正しさは生まれるのです。彼女と共に生きよ。自分を必要としている者を発見し、共に歩む決断をせよ。最も恵みを受けたのはヨセフかもしれません。

2017年1月2日月曜日

2016年12月18日

2016年12月18日主日礼拝説教要旨
  「主の日が来る前に」宇野稔牧師
   (マラキ書3章19〜24節)

 この書は旧約聖書と新約聖書への繋ぎとして、ふさわしいということでここに置かれているのです。
 19節に「見よ、その日が来る」と云われていますが、正確には「その日は来ている。来つつある」となります。つまりはその日というのは終末の日のことです。その日は「炉のように燃える日」と云われ、裁きの日です。高慢な者、悪を行う者など、主の日が来た時には、彼らは燃え上がり、枝葉の一つさえ残らないといい、その日が来ていると警告しているのです。
 しかし、神を信じる者にとっては、その同じ日が全く違う日になるとも云われています。マラキ書は私たちに対して、主の日がかならず来ると宣言します。そこにある重大な意味と価値は主の日には明らかになると。そして、高慢な生き方をしている者は、主の日には自分がいかに虚しい人生を生きてきたかを知ることになるのです。
 苦難に会う日などに私たちはなぜ、主が沈黙しているのかと思うかもしれません。しかし、マラキ書はその時は神の「備えの日々である」というのです。高慢な生き方をしている者は、主の日には自分が如何に虚しい人生を生きて来たかということを知ることになるからです。
 終りの日は必ずやって来ます。その時高慢な人は裁かれ、苦難の中を歩んでいる人々、神を信じる人々はその信じていることの正しさが証明されるのだというのです。即ち、17節にあなたたちの神の宝となると云われます。そういう私たちのために神は21節で「恐るべき日が来る前に」、主の日がくる前に神はエリヤを遣わす、とあります。つまり、神のことばをあなたたちに告げる人のことです。主の日に私たちが滅びてしまうようなことにならないためです。その方は誰か、私たちが一人も滅びないで永遠のいのちを得るために、この世に来て下さったのが、イエス・キリストです。旧約の最後はキリストは来るという預言なのです。
 イエス・キリストこそ義の太陽(20節)です。そして癒やしの力です。イエス・キリストが来て下さることを覚え、そのイエスを見つめつつ主の日を待ち望むのです。