2017年2月13日月曜日

2017年1月29日

2017年1月29日 主日礼拝説教要旨
  「イエスと希望」桝田翔希神学生
   (ルカによる福音書8章40〜48節)

キリスト教の教会では、「希望」という言葉がよくつかわれていると思います。この「希望」という言葉は日常生活でもよく聞かれる言葉だと思います。そこで聖書の中で希望という言葉がどのように使われているのかを調べてみますと、4つの福音書の中でイエスは希望という言葉を一度も使っていないのです。なぜイエスは希望を語らなかったのでしょうか。イエスには希望がなかったのでしょうか。
イエスが希望を語らなかった理由は色々考えられます。神の国が近づいたという確信に裏付けられた宣教であったからなのかもしれませんし、編集者によって削除された可能性もあります。
今回選びました聖書箇所は「流血の女」や「長血の女」と呼ばれる箇所であります。出血が止まらない病気にかかったという事は「健康でない」ということと同時に「社会からはじかれてしまう」「仲間はずれにされてしまう」ということも意味しています。聖書にはこの女性が、12年間もこの病を患い、治す為に多くのお金を使ったことが書かれています。病が治り仲間として受け入れられることをひたすらに願った12年間だったのではないでしょうか。病が癒えることこそが彼女の「希望」として生きていたのではないかと思います。そんな女性をイエスは癒し、送り出しの言葉として「安心して行きなさい」と語っています。ここでイエスは未来に責任を置くような発言をせずに今の姿を肯定するかのように声をかけています。
なぜイエスは希望という言葉を使わなかったのでしょうか。イエスが出会いに行ったり癒したりした人というのは、当時の社会で差別されていじめられていた人や、病気にかかった人でした。今まさに苦しみの中にある人たちに対して、未来に責任を置くような言葉は使わなかったのかもしれません。未来に責任を置くよりも、今目の前にいる人たち、今目の前で起こっていることに真剣に、大切に、愛をもって向き合っていたからこそ希望や期待というような言葉は使わなかったのかもしれません。私たちも安心のなかで今この瞬間を生きたいものです。

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