2017年8月1日火曜日

2017年7月16日

2017年7月16日 主日礼拝説教要旨
「愛に根ざし、愛に立つ」 宇野 稔牧師
エフェソの信徒への手紙 3章14~21節
 祈りというのは不思議です。一人でも、大勢でも、家でも、病院のベッドでも、パウロのように獄中でも祈ることが出来ます。どのような状況に陥っても、祈る事だけはできます。祈りを私たちから取り上げることはできないのです。今日のところで1つ目の祈りは17節で「心の内にキリストを住まわせ愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さいますように」とあります。愛に根ざし、しっかりと立つとは、イエス・キリストの生き方に根ざし、イエス・キリストのいのちに立つ者ということです。マタイ27章41~43節ではイエスと敵対していたメンバーでさえ、イエスが他人を救ったことを認めているのです。他者を救ったのに自分は救えない。そこから見えるイエスの生き方とは、他者のために生きるという生き方なのです。
 他者のために生きたキリストが十字架に架かり、自分を守るために生きる人間が十字架のもとであざけっている。それは2千年以上の昔の話であるにもかかわらず、今の私たちの生きる世界のようです。他者のために懸命に生きようとすればするほど、あざけられる、無駄だと云われる。まず自分のことをすればいいのにと云われる。私たちは他者の弱さを自分の課題とすることは、神が教えて下さった生き方であるにも関わらず、人に褒められるどころかさらなる困難に出会います。しかし、この手紙の著者は信仰によってそのような生き方が出来ると書いています。信仰によってとは、あきらめずに祈り続けるということです。イエスも息をひきとる間際に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と祈るのです。
 人から見たら、神に見放されたように見える死です。しかしこの物語は、どんなに辛い時にも、苦しい時にも、最後の時にも、私たちには祈ることが許されているということが示されています。そしてこの悲痛な祈りをイエスも経験して下さっているのです。困難な時、神がどこにいるのかと問う時、なぜ助けて下さらないのかと問う時、叫びのような祈りを上げる時、神はその祈りの中心にいて下さるのです。

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