2017年9月11日月曜日

2017年9月3日

2017年9月3日 主日礼拝説教要旨(振起日)
「弱さを抱えるあなたでいい」 宇野 稔牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ12:7~10節
 パウロは7節で「わたしの身に1つのトゲが与えられた」と云っています。このトゲは病気と解釈されますが、病気はパウロ自身だけでなく周囲の人々にとっても「試練」であったことです。一般的には「さげすんだり」「忌み嫌われる」可能性があったことが分かります。この苦しみが取り除かれるようにパウロは3回、主に祈ったと云うのです。3回祈るということは、イエスのゲツセマネの祈りを思い起こさせる言葉でもあります。「神様、どうかこの苦しみを去らせて下さい。取り除いて下さい。」しかし、それに対する神の応えは9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分発揮されるのだ。」というものでした。人間の弱さを神が必要としているのだと語りかけるのです。しかし、私たちの生きる社会は、その思想とは逆で動いています。弱いところイコール悪いところとして数え上げます。人間は弱さや悪いところを見せないように、取り繕おうとします。他人の前に常に良い自分であろうと努力します。弱さを持たない人など一人もいません。
 パウロは9節で「キリストの力がわたしの内に宿るようにむしろ大いに誇りましょう」と云います。誇るという言葉は「信頼を寄せる」「願いを託す」という意味があります。だからパウロは「自分の弱さ」をないものと考えたり卑下するのではなくそこにこそ願いを託してみよう、弱さこそキリストが用いて下さるのですから。
 私たちの人生は、全てうまくいくわけではありません。しかし私たちが挫折したように感じることがあっても自分の足りなさを嘆く時も、神が全てを完成させて下さるのだから満足することさえできるのです。パウロは力強く語ります「わたしは弱いときにこそ強いからです」この強いという言葉は神の力を表す「デュナトス」が使われています。私たちの弱さは余計なものではなく、私たちの弱さが神につながっているのです。イエスの十字架は私たちを愛するものです。弱さを抱える人に、もう苦しまなくてもいいよと伝え、自分の弱さに出会う時、それは神と出会うのです。

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