2019年3月18日月曜日

2019年3月10日

2019年3月10日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「ひと時、悪魔が離れる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 4:1~13節
 6日に「灰の水曜日」をむかえ、教会暦は受難節(レント)の期間が始まりました。この時にあって聖書日課は、イエスが荒れ野で悪魔に「誘惑を受ける」とされている箇所でありました。この物語を通して私たちは何を問いかけられているのでしょうか
 そもそも悪魔とは何を指しているのでしょうか。この物語で悪魔はイエスに3つの言葉をかけています。旧約聖書の言葉を引用しながら「空腹ならば石をパンに変えたらどうか」などと語りかけます。「悪魔の誘惑」とありますが、それ自体そんなに悪いことを悪魔が言っているわけでもありません。石をパンに変えることができれば、国の権限を手に入れることができれば、天使に体を守られるならば、教会の活動はもっと豊かになるように思えます。悪魔の誘惑とは決して、目に見えて悪い方向に人間をさせようとするものではありません。善く目える形で人間に迫ってきます。
 「悪魔」に並んで「荒れ野」もこの物語ではキーワードとなっています。荒れ野とは当時にあっては、「城壁の外」、「忌み嫌われる病気にかかった人が追いやられる場所」、「神の愛が届かない場所」とされていました。今日の私たちが生活している状況は、城壁の中と言えるのでしょうか。「荒れ野」に住んでいるようなものかもしれません。何が正しいことなのかもわからない、そんな場所で悪魔の言葉がイエスを試しているのです。このやり取りを見ていると、悪魔もイエスも聖書の言葉を使いますが、そこには大きな違いがあります。悪魔は聖書の言葉を自分の立場を強める為や、他人を審判するために使います。しかしイエスは中立なものとして、言葉そのものを神の言葉と受け止めて話しています。私たちも荒れ野のようなこの社会に生きる中で、自分の為に聖書の言葉を解釈してしまう時があるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所は、そのような考えが悪魔であると指摘しているのではないでしょうか。イエスでさえ悪魔が離れたのはひと時であったとルカによる福音書は伝えます。イエスの宣教の道のりは、そのような「悪魔」との対峙であったのかもしれません。私たちも同じような世の中に生きていると言えるのではないでしょうか。

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