2019年3月17日 受難節第2主日礼拝説教要旨
「人の心の中に」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 11:14~26節
受難節(レント)に入って二回目の日曜日です。この時にあって聖書日課では、「ベルゼブル論争」とそれに続く箇所が挙げられていました。前の週では悪魔という言葉が出てきましたが、ここでは悪霊というものが出てきました。悪魔と悪霊という言葉の違いを見つつ、この聖書箇所が私たちに何を問いかけているのか考えたいと思います。
悪魔と悪霊という言葉は、ギリシャ語では音も非常に似ているのですが、ここで出てくる「悪霊」という言葉が他の箇所でどのように使われているのかを見てみますと、病気を引き起こすものとして描かれています。この悪霊をイエスは追い出し、病気を癒しているのですが律法学者たちは「イエスは悪霊の親玉、ベルゼブルだ」と言うのでした。他の宗教の神の名前に由来するベルゼブルという言葉を使い「あなたはベルゼブルだ」という悪口は、私たちの想像を超えるようなひどい悪口でありました。病気で苦しむ人を目の前にしながら、律法学者はイエスへの敵意をむき出しにして、人格を否定するような言葉を吐きかけたのでした。
そこでイエスは「悪霊の親玉と言うが、内輪でもめれば悪魔でさえ国は成り立たない」と説きます。ここでは律法学者とイエスの対立がありありと語られています。イエスのこの言葉は人間同士でさえ、内輪もめしてはいけないと諭しているのではないでしょうか。
研修で訪れた沖縄で、基地建設を巡り推進派と反対派という構造を目の当たりにし、基地推進派の行政が行う暴力に怒りを覚えました。しかし、そのような闘争の現場で大切にされていることは「非暴力でただ座ること」であるそうです。色々な意味がある言葉だと思います。私たちは意見の違う人を目の前にした時、どうしようもない敵意を抱くことがあります。しかし、律法学者に敵意を向けられたイエスはそれでも対話を試みています。どんな状況にあってもあきらめず話し合う大切さを忘れないようにしたいものです。
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