2022年11月18日金曜日

2022年11月13日

 2022年11月13日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

 「イエスは生きておられる」 古郝荘八牧師

   ローマの信徒への手紙 5:12-21節

 11月13日の説教題は「キリストとアダム」でしたが、この説教要旨では「イエスは生きておられる」にさせていただきました。実際にした説教にはあまりとらわれずに書かせていただきます。わたしは、長い間、創世記第3章の記事に取り組んできました。ドストエフスキーによって、目を向けさせられたのです。わたしは、長い間、「アダムのせいで、世の中が悪くなった」だと考えて悲観的になっていました。「アダムのせいで」と書きましたが、わたしは、特にアダムが歴史上の実在の人間かどうかについては、関心を持ったことはありません。むしろ、自分が生きている時代の中で、罪を犯しつつ生きている人類、その中にわたしも含まれているのですが、その人類の祖としてのアダムの堕罪の記事が関心の対象になっていたのでした。しかし、やがて、わたしの関心の中心は、イエス・キリストに移り、イエス・キリストを神の子と信じて、29歳の時に受洗しました。その後、牧師になったのですが、ローマ人の手紙5章12節から21節のところが、牧師生活最後の1年ぐらい前から気になり始め、そこから説教したいと思いつつ、できないで終わりました。それで、平安教会の説教のテキストとさせていただきました。

 まず特に、強調しつつ言いたいのですが、パウロが、ここで「キリスト」と書いた時、パウロは、復活したキリストが自分にも現れてくださった、という経験を後にしていました。十字架につけられて死なれたキリストは三日目に復活され、パウロにも姿を現してくださったのです。ですから、この手紙を書いた時、パウロはもちろん、イエス・キリストは今も活きておられ、もはや死なれることのない方だと思いつつ書いているのです。そして、今もイエスは生きておられます。さて、パウロは、復活したキリストに会うことをゆるされたのですが、アダムに会ったことはないというのは言うまでもないでしょう。しかし、パウロは、自分がアダムの末裔であり、自分が「古い人」「罪人」であることを知っていました。罪人であることは、やがて死ななければならない者であるということですが、パウロは、自分に現れたイエス・キリストは、全人類の罪を背負って死なれたことを知ることになりました。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(21節)


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