2025年3月28日金曜日

2025年3月23日

 2025年3月23日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「神さまの祝福を受けて生きる」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 16:13-28

 賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会活動家です。賀川豊彦は若い頃、『プラトン全集』を買うためにマヤス宣教師からもらったお金で自分の制服を買いました。しかしそのあと悔やんだ賀川豊彦は出来たての制服を再びお金にかえて旅費にして、マヤス宣教師に赦しをこうためにマヤス宣教師のところに向かいます。そのとき賀川豊彦は死んでお詫びしなければならないというように思い詰めていたようです。賀川豊彦はしばらく放浪したあと、マヤス宣教師のもとを訪ね、マヤス宣教師はとても怒ったのですが、結局、賀川豊彦を赦します。(工藤英一「賀川豊彦の学生時代」『明治期のキリスト教』、教文館)。

 人間ってだめなこともあるけれども、悔い改めて生き直そうという気持ちをもつことができるというのは、人間ってすてきだなあと思います。わたしは賀川豊彦のすばらしいと言われる数々の事業よりも、なんとなく賀川豊彦のだめなところとまじめなところが出ている、この賀川豊彦の服の話のほうに心ひかれます。

 使徒ペトロは信仰告白をしたことによって、イエスさまからほめられます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われます。

 しかしそのあと、使徒ペトロはイエスさまがご自分の十字架と復活について話をされたとき、イエスさまをいさめます。そしてイエスさまから「サタン、引き下がれ」と叱責されます。使徒ペトロはイエスさまから誉められたことによって、いつのまにか高慢になってしまい、この世での自分の誉れについて考えるようになっていました。イエスさまは弟子たちにとてもきびしいことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 私たちは自分が使徒ペトロのようにだめな人間であることを知っています。イエスさまについていきたい。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまについていきたい。そのように思いながら、またいろいろな困難や誘惑の前に、どうしたらいいのかわからなくなります。しかしそんな私たちを神さまはとらえて導いてくださいます。

 私たちは神さまの祝福を受けて生きています。このことを喜びをもって受け入れ、キリスト者として神さまの祝福を一杯に感じて歩んでいきましょう。


2025年3月21日金曜日

2025年3月16日

 2025年3月16日 受難節第2主日礼拝説教要旨

「悪魔はどんな顔でやってくる?」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 12:22-32節

 元敬和学園高等学校校長の小西二巳夫牧師は、「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」と言われるようになったら、校長をやめようと思っていたそうです。それ以上続けていると、自分の意見に賛成する人だけになり、自分が高慢になってしまう。小西二巳夫牧師は高慢になるような方ではないと思うわけですが、しかし小西二巳夫牧師は高慢になる気配をおそれて、新しい歩みへと出発をされたということでした。

 いつのまにか二つに一つというような対立構造ができあがり、敵か味方かというような雰囲気になり、ちょっと困ったなあというようなことになることがあります。いまのアメリカの政治情勢は、「敵か味方か」というような感じになってしまっていると言われたりします。しかしまあ、世の中、ふつうに考えると、「敵か味方か」というふうに二つに分類できるわけがないので、落ち着いて考えてみるということが大切であるわけです。

 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というイエスさまの御言葉を聞くと、私たちは「あいつがイエスさまに敵対し、あいつが散らしている者だ」というふうに思えます。「あいつがいなければ、うまくいくのに」というような気持ちになります。「もうわたしの周りにはファリサイ派の人々や律法学者たちが多過ぎて困るわ」という気持ちになります。しかしまあ、多くの場合、それは気のせいです。私たちの横でサタンが耳打ちしているので、そんな気持ちになるのです。サタンはにこにこと微笑みながら、私たちの横で「そうだよね。そうだよね」と相づちをうってくれています。高慢のなせるわざというのは、こうしたところが怖いところで、いつも自分はイエスさまの側、神さまの側にいるかのような気になるわけです。「怖いなあ」と思います。

 イエスさまは「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」とも言っておられます。いたずらに争うことなく、落ち着いて、神さまの御心とは何であるのか。自分は高慢になっていないのかと、振り返ってみる歩みでありたいと思います。

 レント・受難節のときを過ごしています。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある邪な思いを、イエスさまに取り除いていただきたいという思いをもって、謙虚に歩んでいきましょう。


2025年3月14日金曜日

2025年3月9日

 2025年3月9日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「良い物をくださる神さま」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 7:7-12節 

小曽根俊子さんは生れてまもなく高い熱がでて、それがもとで体とことばが不自由になりました。小曽根俊子さんは詩を作るのが好きだったので、いろいろな詩を書きました。その一つが「花」という詩です。 

  さあ涙をふいて

  あなたが花になりなさい

  あなたの花を咲かせなさい

  探しても探しても

  あなたの望む花がないなら

  自分がそれにおなりなさい

 小曽根俊子さんは体が不自由だったので、なかなか自分のことが思い通りになりませんでした。だから、たぶんとっても悔しい思いをしたり、涙が出ることもあったんだろうなあと思います。でも、小曽根さんはやっぱり「涙をふこう」と思いました。「さあ涙をふいて」、わたしの花を咲かそうと思いました。

 人のことを悪く言ったり、人が自分のことをわかってくれないということに腹を立ててばかりいるのではなく、わたしが人のことを愛してあげて、人のことをわかってあげられるやさしい人になろう。

 イエスさまは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。それは「あなたたちには神さまがついているから、大丈夫だよ」ということです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われました。それは「私たちの神さまは私たちに良いものを必ずくださるから、大丈夫だよ」ということです。そしてイエスさまは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われました。「あなたにはやさしい気持ちがあるから、それを大切にしなさい。大丈夫だよ」ということです。

 イエスさまは私たちに、「神さまはあなたたちのことが大好きだから安心して、悲しいことやつらいことがあっても、勇気を出しなさい」と言われました。神さまはいつも私たちと一緒にいてくださって、私たちを守ってくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


2025年3月8日土曜日

2025年3月2日

 2025年3月2日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

「イエスさまに強く願う」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 14:22-36節

 京都教区の沖縄現地研修で、2/17から2/20にかけて沖縄を訪れました。30年ほど前、関東教区の沖縄現地研修に参加しました。当時と同じように沖縄には米軍基地がたくさんあり、そして辺野古には新たな基地が建設をされようとしています。沖縄県の人たちは二度と戦争はしたくないということについて、私たちよりもとても強い思いをもっておられます。平和を求めて祈ることの大切さを改めて思わされました。

 今日の聖書の箇所の「湖の上を歩く」という聖書の箇所は、初期のキリスト教の状況を表わしている聖書の箇所です。イエスさまが天に帰られ、人々は目の前にイエスさまがいないというなか、イエスさまを信じて歩んでいくことになります。どんな人も、人間ですから不安な気持ちになりますし、また信じられないというような気持ちになります。それは人間ですから、仕方がないのです。初代教会の頭であり、イエスさまの一番弟子である使徒ペトロでも、不安になったり恐れたりするのです。

 ペトロはイエスさまから「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。そしてペトロはイエスさまに水の上を歩きたいと願います。水の上を歩くというできそうもないことを、ペトロはイエスさまに願うのです。ペトロは不安であったと思います。しかしイエスさまは「来なさい」と言われます。わたしをしてわたしのところに「来なさい」と、イエスさまは言われます。そしてペトロは勇気を出して、イエスさまの招きに応えます。しかし風が強くふき、ペトロは不安になります。やっぱりだめなのではないかと思います。そして事実、ペトロは湖に沈みそうになります。「ああ、だめだ」と思えた時、イエスさまは手を差し伸べてくださり、ペトロを救ってくださいました。「ああ、だめだ」と思えるとき、イエスさまは救いの御手を差し伸べてくださる方であるのです。

 いまは私たちの世の中は、力でものごとを解決する道を選ぶことが多くなり、正しさややさしさがないがしろにされることが多くなっています。ウクライナやパレスチナでは戦争が続き、ミヤンマーでは軍事政権が続いています。「私たちの世界が平和な世界になりますように」という私たちの祈りも、力によってかき消されてしまいような気持ちになってしまいます。しかし私たちはやはり、「平和な世界になりますように」との祈りを、イエスさまに、神さまに強く祈り続けていきたいと思います。