2025年4月25日金曜日

2025年4月20日

 2025年4月20日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「やさしい声が聞える」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:1-18節

 イースターおめでとうございます。

 イエスさまが十字架につけられる受難物語は、とても激しく、叫び声が聞えてくるような物語です。それに比べて、イエスさまがよみがえられる復活物語は、とても静かな物語のような気がします。

 人はどのようにして、困難な出来事の中から立ち上がっていくことができるのか。どのような支えがあることによって、人は立ち直っていくことができるのか。臨床心理学者の東畑開人が「ケアとセラピー」ということを書いています。(「こころのケアとは何かー寄り添いあいと世間知』、今福章二編『文化としての保護司制度 立ち直りに寄り添う「利他」のこころ』、ミネルヴァ書房)。

 心の援助とか対人支援あるいは人間関係には、「ケア」という関わり方と「セラピー」という関わり方の二種類がある。「ケアとは傷つけないことである」。「ケア」が依存を引き受けることだとすると、「セラピー」は自立を促すということである。自立を促すけれども、寄り添っている人が周りにいる。寄り添っている人がいることによって、人は自立をしていくことができる。「ケア」のないところの「セラピー」は暴力になってしまう。「ケア」が十分に足りていないのに、「セラピー」をすると失敗してしまう。そして失敗したので、また「ケア」に戻ってやり直す。「ケア」と「セラピー」はぐるぐる回る。人はそう簡単に立ち上がることはできません。

 マグダラのマリアのところに現れるイエスさまは、マグダラのマリアに寄り添い、そして自立を促します。泣いているマグダラのマリアにやさしく語りかけ、そして「わたしにすがりつくのはやめなさい」と自立を促します。そしてマグダラのマリアは立ち上がるのです。

 私たちもまた、いろいろな悩みや迷いのなかにあるときがあります。「立ち直れそうにない」というような気持ちになるときもあります。しかしそんなときも、イエスさまは私たちにやさしい声で語りかけてくださいます。私たちの名前を呼び、私たちに生きていく力を与えてくださいます。

 イースター。私たちの救い主である主イエス・キリストがよみがえってくださいました。イエスさまのやさしい声に導かれながら、イエスさまにふさわしい歩みをしていきたいと思います。


2025年4月18日金曜日

2025年4月13日

 2025年4月13日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「イエスさまの御国で生きる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 18:28-40節

 平安教会は新島襄ゆかりの教会です。新島襄が亡命をした船の船長のテイラーは、船主であったハーディーに、新島を紹介します。新島は、Why I escaped Japan ? (なぜわたしは日本を脱出したのか)という長い手記を書きました。できあがったこの手記には、新島がどんなに神さまのことを勉強したいかということがせつせつと書かれてありました。ハーディー夫妻はこの手記を読んで心を動かされます。ハーディー夫妻は、新島がはるばる日本から誰も頼るものがないのに、神さまのことを学びにやってきたということに感動したのです。新島は真剣に「真理とは何であるのか」ということを考えて、そして一生懸命に生きていたのです。

 イエスさまを尋問した総督ピラトは、イエスさまに対して「真理とは何か」というふうにつぶやきました。それはイエスさまに「真理とは何か」ということを尋ねているのではありません。ピラトは「真理などというものがあるのか」というふうにつぶやいているのです。ピラトにとって、本当に正しいことが何であるのかということは、どうでもいいことでした。そしてもう一歩進めて、ピラトは「真理などというものが、そもそもあるのか。そんなものはありはしない」というふうに言っているのです。そして真理について語っておられるイエスさまに対して、「おまえは本当にそんなことを信じているのか」というふうに言っているのです。

 しかし絶望の中にあっても、イエスさまは真理を求めることの力強さを示しておられます。いまどんなに絶望の中にあっても、必ず真理につく者が出てくる。そしてイエスさまの言葉にしっかりと耳を傾ける者が出てくることを、イエスさまは確信しておられます。イエスさまが希望を失うことがなかったのは、それはイエスさまが真理に依り頼んでいたからでした。武力や権力はかならず崩れさって行くものです。しかし真理に依り頼んでいる限り、神さまはイエスさまを見捨てられることはなく、かならず守ってくださることを、イエスさまは知っておられたのです。

 イエスさまは自分がこの世に属するのではなく、ほかの国に属していると言っておられます。イエスさまは神さまの国に属しておられるのです。そこは武力や権力によって支配されているのではありません。イエスさまの御国は真理が満ちている国なのです。

 私たちはこの世でなんとなくあきらめるのではなく、「真理とは何か」「神さまのみ旨とは何なのか」と、真剣に問うていく誠実な歩みでありたいと思います。


2025年4月12日土曜日

2025年4月6日

 2025年4月6日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「イエスさまの杯、苦い杯」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 20:20ー28節

 大山崎美術館に「松本竣介 街と人 ー冴えた視線で描くー 展覧会」を見にいきました。松本竣介は明治から昭和にかけて生きた洋画家です。美術雑誌の『みづゑ』は、1940年に軍部による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」を掲載します。それに対して、松本竣介は1941年に『みづゑ』の4月号に「生きてゐる画家」という文章を発表します。まじめな常識人であった松本竣介は、自分が画家としてしっかりと立ち、そして国家からの干渉を受けて、志が曲がってしまうようなことではだめだというような思いをもっていたのだろうと思います。

 人は誘惑に陥りやすいですから、少々志に反したことをしても、立身出世であるとか、自分の生活が守られることのほうが大切だという気になることもあります。また人間、いつもいつも強いわけではないですから、このときは立派に生きることができたということもあれば、あのときはなんかダメな人間だったなあと思えるときもあります。神さまの前に、いつもいつもすばらしい人間であることができるのであれば、それにこしたことはないわけですが、しかしまあそういうわけにもいかないという人間の弱さがあるわけです。

 ヤコブとヨハネの母はヤコブとヨハネを連れて、イエスさまのところにきて、ヤコブとヨハネの立身出世を願います。それを聞いた弟子たちはみんな腹を立てます。みんな同じことを考えていたからです。

 イエスさまは弟子たちを諭されました。イエスさまは私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われました。あなたたちは迷ったり、不安になったりするけれども、でも神さまはあなたたちのことを見ておられる。だからあなたたちは皆に仕える生き方をしてほしい。高慢になり、人をつかおうとする生き方をするのではなく、皆に仕える生き方をしてほしい。わたしがそのように生きたのだから、あなたたちもまたそのように生きてほしい。あなたたちのなかにあるやさしい気持ちを大切にしてほしい。あなたたちのなかにある思いやりの気持ちを大切にしてほしい。

 レント・受難節も第5週目を迎えました。来週は棕櫚の主日を迎えます。十字架への道を歩まれるイエスさまが、私たちを導いてくださっています。やさしい気持ちになって、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2025年4月4日金曜日

2025年3月30日

 2025年3月30日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「十字架のイエス・キリストに仕える」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 17:1-13節

 科学史家の村上陽一郎さんは、「『復活』という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる」(「永遠のいのち」『私にとって「復活」とは』、日本基督教団出版局)と言っています。村上さんは、とにかく何であろうと、存在したものはすべて、神さまの中に存在しているのだ。すべてのものは神さまのなかに生きていると言っています。私たちはそういうかけがえのない人生を送っています。そして私たちは永遠に神さまの中に生き続けるのです。

 山上の変貌と言われる聖書の箇所で、イエスさまの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなります。そしてモーセとエリヤがイエスさまと語り合います。しかしその後モーセとエリヤは消え去り、イエスさまがだけが残りました。

 ペトロにとってモーセとエリヤと一緒にいた光り輝くイエスさまは、とても魅力的な人に見えました。わたしも仲間に入れてもらいたいと思えるすばらしい人に見えたのです。わたしも仲間に入れてもらって、モーセさま、エリヤさま、イエスさま、ペトロさまと言われたい。

 しかしペトロの人生にとって、この出来事が大切な出来事であったかと言うと、あまり意味のある出来事ではありませんでした。ペトロが人生を振り返って、自分にとって大切な出来事とは何なのかと考えたとき、ペトロは光り輝くイエスさまの姿ではなく、十字架につけられてぼろぼろになっているイエスさまの姿こそが、わたしにとって意味のあることだったと答えるでしょう。ペトロを救ってくださったのは、光り輝くイエスさまではなく、十字架の上で苦しまれるイエスさまでした。そしてペトロは生涯、十字架につけられたイエスさまに付き従って歩んだのでした。

 いろいろなものは色あせていくけれども、イエスさまによって救われたということだけは、色あせてしまうことがない。光り輝くモーセやエリヤは消え去ってしまうけれども、十字架への道を歩まれるイエスさまだけは、いつも私たちと共にいてくださる。

 私たちは平凡な人間に過ぎないわけですが、神さまにとっては大切な一人です。神さまは私たちを救うために、独り子であるイエスさまを十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは取るに足らないものですが、しかし神さまにとってはひとりひとりがかけがえのないダイアモンドであるのです。そして私たちは、永遠なものである神さまにつながっているのです。