2025年8月17日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
「平和があるようにと何度も唱える。」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 9:35-10:15節
哲学者の千葉雅也は【結局、絶対的な根拠づけはできないということを受け入れる。世界には複数の人間がいて、全員が納得する解はありえない。それが体感としてわかるには、年月がかかるものです】(『センスの哲学』)と言っています。世の中は人間の集まりであるわけですから、みんなそれぞれにいろいろな考え方をしています。そうしたことを受け入れつつ、それでも良いことを目指して歩んでいくわけです。
弟子たちがつかわされる世の中は、なかなか大変な世の中です。貧しさがあり、さみしさがあります。みんな弱り果てて、打ちひしがれている。人々を見てイエスさまが深く憐れまれるというような状態です。また「サマリア人の町に入ってはならない」というような地域差別があるような社会です。病気で苦しんでいる人たちがたくさんいます。
人間の現実とはそういうもので、みんな悩みを抱えながら生きています。そのため、人にやさしくしようと思っても、やさしくすることができなかったり。もう暴力を振るうのはぜったいに止めにしようと思っても、やっぱりそのように振る舞うことができなかったり。ののしったり、辱めたりすようなばかげたことはしないでおこうと思いながら、人をののしっていたり、人を辱めていたり。
しかしだからこそ、イエスさまは「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われるのです。受け入れられるかどうかはわからない。それでも信じて、「平和があるように」と挨拶をするのです。あなたとわたしの間に、神さまが立ってくださって、私たちに平和をもたらしてくださいますようにと挨拶するのです。どうなるかはわからないけれども、ただただ信じて、「平和があるように」と挨拶するのです。
私たちの世界も、争いの多い世界です。私たちは「神さまの平和が来ますように」と祈ります。しかしなかなか平和が訪れるような兆しは見えてきません。そうした世界であるわけですが、私たちは「平和があるように」と挨拶をします。何度でも、あきらめることなく、拒否されることがあったとしても、「平和があるように」と挨拶をします。
それはわたしが神さまは私たちの祈りを聞いてくださり、私たちの世界を平和な世界に導いてくださることを知っているからです。そしてそのことのために、小さな私たちを用いてくださることを知っているからです。
アジア・太平洋戦争後、80年の時を経て、私たちは希望を失うことなく、「平和があるように」と祈りたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿