2025年9月21日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨
「小さな者と共なる神さま」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 18:10-20節
人間は絶えず緊張しているわけにもいきませんから、救急車が走っていても、「あ、また救急車か」くらいに思えます。でもその救急車のなかに、生死の境をさまよっている人がのっているかも知れません。救急車は走っているのを見るもので、自分が乗ることを私たちはふつう考えているわけではありません。しかし私たちが救急車に乗らないという保証があるわけではありません。それでもやはり私たちは、「あ、また救急車か」くらいに思えます。イエスさまはそんな私たちに、「大変な目にあっている人のことに思いをはせるということは大切なことだよ、小さな者たちのことを忘れてはいけないよ」と言っておられます。
「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所は、全体として、「みんな一人一人神さまの前に大切にされているんだよ」ということが言われています。「一人とか、二人、三人」というのは、小さな数だからそんなのどうでもいいんだということではなく、神さまの前では一人ひとりが大切な人として愛されているんだということです。
初期のクリスチャンは小さな集まりでした。祈りを献げるときも、成人男子10人集まらないということもあったのでしょう。ユダヤ教の枠内であれば、それは共同の祈りとならず、正式な集まりとならないわけです。それでは一人、二人の神さまに向かう思いというのは無駄なのか。初期のクリスチャンたちはそのようには思いませんでした。初期のクリスチャンは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という思いを持っていたのです。
「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて生きるというのがクリスチャンの歩みであったのです。イエスさまを裏切った弟子たちのことも、イエスさまは愛してくださいました。そして弟子たちは、「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて歩み始めたのです。
イエスさまは小さな私たちを招いておられます。イエスさまはこう言われました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう】(マタイによる福音書11章28節)。私たちは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いをもって、イエスさまの招きに応えて歩みましょう。
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