2026年2月27日金曜日

2026年2月22日

 2026年2月22日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「道を外れることなく栄える」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:12-15節

 石田梅岩は江戸時代中期の日本の思想家です。「人の本当の価値は、生まれや財産、学歴ではなく、その心根の誠実さにある」と説く彼の言葉は、多くの庶民の心をとらえました。石田梅岩は「道徳と経済は両立するものであり、道徳がなければ経済は発展することはないのだ」と言いました。現代の私たちの世の中は、そうした道徳的なあり方が失われ、「法律に書かれていないのであれば、何をしてもかまわないのだ」というようなあり方が広がっています。石田梅岩はひとのこころの中にあるあさましい思いが、社会を経済的に豊かにするのを妨げていると考えています。道に外れたことをしているから貧しくなっていく。「道を外れることなく栄える」という道筋を整えることが大切だと言うのです。

 私たちの世の中は誘惑の多い世の中です。サタンの誘惑にさらされています。ですから聖書の中で、イエスさまがサタンの誘惑にあわれた話が出てきます。聖書は、イエスさまはサタンから誘惑を受けられ、そして「その間、野獣と一緒におられた」と記されています。誘惑の多い、何をしてもかまわないという世界は、野獣の世界です。イエスさまはサタンの誘惑にあわれたとき、野獣と一緒におられました。しかし聖書はそのあと、「天使が仕えていた」と記しています。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。

 聖書は野獣の世界に思える世界にあっても、イエスさまがおられる世界は天使が仕えているのだと記しています。イエスさまの時代の人々は自信を失い、不安になりました。どのように生きていけばよいのか、そのことに自信をもてなくなりました。自分勝手に生きたらよいのではないか。みんなそんな感じで生きている。野獣のように生きたらよいのではないのか。そんなとき、イエスさまは人々に神さまの愛のうちに生きていくことの幸いを伝えました。神さまの愛に根ざして生き方をして、愛に満ちた世界のなかで生きていく。神さまに対して恥ずかしくない生き方を求めていく。こそこそと生きていくのではなく、神さまの祝福のもと、胸をはって生きていく。神さまに依り頼んで生きていく。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。こそこそと良心がとがめるようなことをしている人たちの世界は終わり、神さまの愛と義と平和に満ちた世界がやってくる。私たちにはそうした世界に生きていく幸いがそなえられている。悔い改めて、神さまを信じて歩んでいきなさい。イエスさまはそのように呼びかけられ、私たちを招いておられます。


2026年2月21日土曜日

2026年2月15日

 2026年2月15日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

「目線を変えて」 川上信牧師

  マタイによる福音書 4:18-22節

 本日の聖書箇所、マタイによる福音書4章18節から22節には、イエスがガリラヤ湖で漁をしていたペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人を弟子として招かれる場面が記されています。当時のガリラヤの漁師たちは、ローマ帝国の支配のもとで重い負担を負わされ、汗水流して働いても十分な報いを得ることができず、希望を持ちにくい現実の中にありました。そのため、自分たちの仕事に誇りや喜びを見いだすことが難しかったのです。

 イエスの「人間をとる漁師」というギリシャ語を忠実に直訳すれば、本来「人間のための海の人」といった意味になるそうです。それはいわば荒海にもまれ、あえぎ、溺れている人間を助ける人。今でいえばライフセーバーみたいな働きをしている人のことを指しているのかもしれません。人間が人間として生きることを手助けする人。そんな人として、神のみ言葉を共に伝えて共に歩みましょうというイエスの招きが、この招きの言葉に込められています。人が人として生きられるように支える者になることを意味しています。それは、溺れる人を助けるライフセーバーのように、人の命と尊厳を守る働きへの招きでした。その招きに彼らが従う決断をしたことは、単なる職業の変更ではなく、生き方そのものを変える選択でした。その歩みは、後の時代に生きる私たちにとっても信仰の道しるべとなっています。

 私たちも日常生活の中で、神からの招きを受けています。しかし、その声に気づくためには、物事を見る目線を変えることが必要です。いつもと同じ風景の中にも、信仰の目で見つめると、新たな意味や導きが見えてくることがあります。

 交換講壇という取り組みも、いつもと違う視点を与えてくれる大切な機会です。私たちのいつもと同じでなく、聖書の読み方も、説教者が変わることで目線が変えられることがあります。そのことで私たちの生涯を変えるような御言葉に出会えるかは分かりませんが、それが人生に1回のチャンスなのか、10回のチャンスなのか、100回のチャンスか,1000回のチャンスなのか。でも、その気づきを与えられるチャンスを増やせるのは、私たち自身だけなのです。「いつも目を覚ましていなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というイエスの御言葉通りに、困難や悲しみの中にあるときにこそ、目線を変えて神を見上げ、自分に与えられている道を祈り求めながら、神と共に生きる者として歩んでいきたいと願います。


2026年2月13日金曜日

2026年2月8日

 2026年2月8日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「よき仲間に囲まれて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 2:1-12節

 一緒にいてくれる仲間がいるととても心強い気がいたします。単純な作業などひとりでしていると嫌になります。しかしこれを二人、三人、四人ですると、たいして苦にならないということがあります。このようなことでさえひとりでするとなると、私たちはとてもたいへんな気がするのですから、病気というような深刻なことになると、ひとりではどうしたらいいのかわからなるような気がします。

 イエスさまは病の人々をいやしてまわっておられました。イエスさまの回りには、たくさんのイエスさまを慕う人々がいます。この日は大勢の人々が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどいっぱいでした。四人の男たちは、中風の友だちを、どうしてもイエスさまのところに連れていきたかったのです。しかし足の踏み場もないほど、人がいて、イエスさまのところにいけそうもない。そこで考えた四人の男たちは、家の屋根に登って、屋根をはがして穴をあけて、イエスさまのところに、友だちをおろしました。

 中風の人の回りには、彼を助ける人々がいました。イエスさまは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に対して「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪のゆるしを宣言しています。みんなで力を合わせて、中風の人を運んできた、彼らのしたことを評価しているのです。そのイエスさまを求めて、みんなで力を合わせて中風の人を連れてきたことが、信仰であると言われています。ここにキリスト教の信仰のあり方のひとつの形が現れています。病を担って苦しんでいる人を中心にして力を合わせるということが、信仰の模範的なこととして描かれているのです。

 共にいるということは、かけがえのないことです。病の人を看病してきた人は、病の人が天に召されたとき、とてもさみしい思いをします。病気の人が何も話さなくても、やっぱり共にいて、そばにいて世話をすることができるということは、看病している人にとって、大きなこころの支えです。天に召されてしまうと、ぽっかりと穴があいたようになります。それは一方的に看病しているということを越えて、こころの絆があるのです。

 私たちは教会に集い、神さまを礼拝しています。そして私たちには信仰の友がたくさん与えられています。同じ神さまによりたのみ、助け合っていきていく、たくさんの友がいます。私たちはひとりぼっちではありません。このことは大きな喜びです。そうした出会いを与えてくださる神さまに感謝したいと思います。


2026年2月7日土曜日

2026 年 2 月 1 日

 2026 年 2 月 1 日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「命の種は広がっていく」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 4:1-9 節


 京都教区と韓国基督教長老教会大田老會との交流の実務者会議で、先週、韓国に行ってきました。会議が終わったあと、ソウルにある京東教会を見にいき、夕礼拝に出席してきました。礼拝は韓国語で行なわれていましたので、話されている内容はわかりませんでしたが、パイプオルガンの奏楽や独唱もあり、とても豊かなときを過ごすことができました。

 礼拝学者である今橋朗牧師は、礼拝の中で行われていることで一番大切なのは、聖書朗読だと言っておられます。聖書の御言葉には力があって、私たちがその御言葉をしっかりと聞くときに、その御言葉は豊かな実を結びます。それは礼拝という場にとどまらず、私たちの生き方を変え、私たちの世界を変える力になるのです。

 私たちはしっかりとイエスさまの御言葉を聞かなければなりません。しかし私たちはいい加減ですから、そんなに一生懸命に御言葉を聞くことができるのだろうかという思いもいたします。私たちは自分のいいかげんさというのをよく知っています。私たちは道端のようなものであり、石だらけの土地のようなものであり、茨が生い茂った土地のようなものです。サタンが来て、御言葉を奪い去ってしまう。御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない。まあ、イエスさまは私たちのことをよく知っておられます。

 イエスさまは同じ種のたとえですが、マルコによる福音書4章 26 節以下に、「『成長する種』のたとえ」「『からし種』のたとえ」という話をしておられます。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」とありますように、神の国は人の思いを超えて広がっていくと、イエスさまは言われました。ちいさなからし種が大きな枝を張り成長するように、命の種は豊かに実を結び広がっていく。私たちがどんなにだめな人間であったとしても、イエスさまの御言葉は、私たちの思いを超えて、広がっていきます。

 弱さやいいかげんさをもつ私たちですけれども、私たちもまた聖書の御言葉をしっかりと聞く者でありたいと思います。心を傾けて、しっかりと御言葉を聞くときに、私たちは新しい者へと変えられていきます。聖書の御言葉は、私たちをキリストへと導いてくださいます。御言葉の力を信じて、しっかりと聖書の御言葉に耳を傾けましょう。