2026年3月21日土曜日

2026年3月15日

 2026年3月15日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「イエスさまは十字架へと歩まれた」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:2-10節

 十字架というものは不思議なもので、刑罰の道具であったものが、いまではジュエリー・アクセサリの形として使われています。十字架はイエスさまが十字架につけられたことによって、栄光のしるしとなりました。

 「イエスさまの姿が変わる」という山上の変容の出来事は、神の御子であることを表す出来事です。イエスさまが神々しい姿で、エリヤとモーセと一緒に語り合っているというのは、いわば天上でのイエスさまの姿です。それは栄光に満ちています。ペトロたちがうれしがるのも無理はないことです。ただ地上でのイエスさまが神さまから託されていることは、ぼろぼろになって十字家につけられるということです。

 しかし神々しいイエスさまの姿は天上の姿であって、それは地上での姿ではないのです。結局、エリヤやモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられます。そして天の声は「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と響きます。神さまは十字架への道を歩まれるイエスさまこそが、わたしの愛する子だと言われます。

 フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という聖書の箇所があります。私たちは輝かしいものやりっぱに見えるものに目が向きがちです。そのことがすべてが悪いということもないと思います。やっぱり人間、りっぱになりたいと思いますし、また輝かしい栄光を求めて一生懸命になるということも大切なことだと思います。ただそのことがすべてのことについての価値基準になるとき、やはりすこしおかしなことが起こってきます。何でも手に入れることにだけ心が向いてしまい、自分が自分がという気持ちが大きくなってきます。何でも自分が中心となり、高慢な思いに取りつかれてしまいます。使徒パウロは、イエス・キリストはそうした生き方とは正反対の生き方をされたと言っています。イエスさまは神の身分であったけれども、自分を無にして僕の身分となられた。イエスさまは死に至るまでへりくだり、私たちのために十字架についてくださった。

 受難節、イエスさまの御苦しみを覚えて、私たちは歩んでいます。私たちは、イエスさまが十字架へと歩まれたということを、私たちの心の指針としてしっかりと持っていたいと思います。世は移り変わり、いろいろなものが起こっては消えていきます。しかし消え去るものではなく、永遠なるものに、私たちは心の中心を向けたいと思います。


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