2026年4月24日金曜日

2026年4月19日

 2026年4月19日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「良い羊飼いに導かれ」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 10:7-18節

 人生のなかには良き出会いというものがあり、この人に出会うことによって自分の人生が変わったと思えるような人に出会うということがあります。

 イエスさまは「わたしは羊の門である」と言われます。イエスさまは門で、イエスさまを通って入る者は救われるということです。どこの国でもいつの時代でも、自分のために政治を行っている国の指導者たちがいるわけです。おかしなことをしていても、自分たちのやっていることを正当化します。盗人のような指導者です。そういう人たちのところに行くのではなく、わたしのところに来なさいと、イエスさまは人々を招かれました。

 イスラエルの指導者たちが民のために政治を行おうとしないので、人々は疲弊し、苦しんでいます。預言者エゼキエルは「牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」(エゼキエル書34章8節)と、イスラエルの指導者たちを非難します。イエスさまの時代のユダヤの指導者たちも、そうでした。民のために政治を行おうとせず、自分たちのための政治を行っていました。良い羊飼いがほしいのだと、人々は思っていました。それで、イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と言われるのです。

 私たちにとって、イエスさまは単なる指導者や導き手と違うのは、イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。「この人についていきたい」ということとは別なこととして、イエスさまには「わたしは羊の門である」ということがあります。羊の門であるイエスさまを通して、私たちは神さまの前に赦され、神さまの民として歩むことができるのです。イエスさまは私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖い、私たちを神さまのところに連れて帰ってくださるのです。

 イエスさまに委ねてあゆむとき、私たちは幸いな人生を歩むことができます。イエスさまは私たちのことをよく知っていてくださいます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。私たちは弱いところもありますし、またいいかげんなところもあります。熱しやすく冷めやすく、安物の器のようなところもあります。それでも私たちはイエスさまが私たちのことを愛してくださっていることを知っています。イエスさまが私たちにとっての慰め主であることを知っています。悲しい時、さみしい時、私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださる方であることを知っています。主イエス・キリストに導かれ、良き人生を歩みたいと思います。


2026年4月18日土曜日

2026年4月12日

 2026年4月12日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「疑いは幸いに変わり」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:19-31節

 わたしはガスの栓をしめただろうかとか、ストーブをちゃんと消しただろうかとか、たいへん気になる性分です。そのことのために時間をとり過ぎるので、「見ないで信じるものは幸いである」という気がします。

 聖書にはイエスさまの復活の出来事を疑ったということが出てきます。わたしはこの話を読みながら、ほっとします。そういう意味で、今日の聖書の箇所に出てきますトマスという人は、のちのキリスト者にとって、ほんとうに良き働きをした人だというふうに思えます。

 イエスさまの弟子たちは、復活のイエスさまご自身と出会い、生ける力を与えられたのですが、しかしそのとき、たまたまいなかった弟子がいました。それがトマスでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ってしまいます。

 イエスさまは疑り深いトマスのところにも来てくださいました。イエスさまはトマスの疑を責めるのではなく、「あなたがわたしの手のきずに指を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい。あなたがわたしのわきのきずに手を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい」というふうに言われたのです。イエスさまは、疑り深いトマスのところに降りてきてくださいました。疑り深いトマスを見捨てられるのではなく、トマスが信じることができるようになるためであれば、どんなことでもいとわないというふうに言われたのです。

 聖書が語ることは、「疑ってはいけない」ということではありません。「疑うものは神さまから裁きを受ける、神さまは信じられない者を裁かれる」ということではないのです。疑ってはいけないということではなく、疑っている私たちを許してくださる神さまがおられるということが大切なのです。

 私たちは疑い深い者であるかも知れないけれども、神さまはそういう私たちの疑いを幸いに変えてくださるかたなのです。私たちをとらえて離さない神さまの愛によって、私たちは見ないで信じる者へと導かれていくのです。疑いは幸いに変わるのです。自分たちのちっぽけな信仰などをあてにするのではなく、疑っても疑っても、私たちを愛してくださる、神さまの愛を信頼して歩んでいきましょう。


2026年4月10日金曜日

2026年4月5日

 2026年4月5日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「不安が取り除かれる朝」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 16:1-8節

 イースターおめでとうございます。

 マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまの葬りの備えをするために、イエスさまが納められた墓に向かいます。イエスさまが天に召されたのだから、丁寧に葬りの備えをしなければならない。その役割を担ったのは、女性たちでありました。イエスさまの弟子たちは、いろいろと大きなことを言っていたわけですが、イエスさまが捕まった時に、逃げ出し、そして隠れています。

 マルコによる福音書が記しているイエスさまの復活の物語は、とても奇妙な物語です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。イエスさまのご復活という喜ばしい出来事を伝えるにはほどとおい、とても不思議な語りになっています。不思議というよりは、怖いという語りになっています。

 マルコによる福音書のイエスさまの復活物語は、「信仰というのはこういうものなのだ」ということを、私たちに教えてくれます。人が信じるというのは、「はい、そうですか。わかりました」というようなものではないということです。「信じますか」「はい、信じます」というようなことではないということです。

 『信仰』(2022年、文藝春秋)という小説を書いている小説家の村田沙耶香は、「速度の速い正しさは怖い」と言っています。キリスト教の信仰はそうした早さのある信仰ではありません。「信じますか」「はい、信じます」「はい、そうですか。わかりました」というようなものではありません。イエスさまの復活に出会った女性たちは、驚いたり、震え上がったり、正気を失ったり、怖がったりしながらも、でも神さまに導かれて、信じる者へと招かれていきます。そしてイエスさまに従っていきます。

 私たちは人間ですから、いろいろなことにつまずきます。自分の力を越えた出来事を前にして、「どうしよう」「ちっぽけなわたしに何ができるだろう。なんにもできないのではないか」。そんな思いになります。でも小さな小さなわたしに神さまが働いてくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。

 力強い御手でもって、私たちを守り導いてくださる神さまがおられます。小さなわたしを励まし、用いてくださる神さまがおられます。神さまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2026年4月3日金曜日

2026年3月29日

 2026年3月29日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「神に委ねたいのち」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 15:33-41節

 良寛の辞世の歌・句については、いろいろな説があります。「形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」「うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ」「散る桜 残る桜も 散る桜」「良寛の辞世を何と人問はば死にたくないといふたとしてくれ」「師即開口阿一声耳。端然座化」。

 イエスさまの死について、それぞれの福音書がそれぞれに、イエスさまの死について書いています。マルコによる福音書のイエスさまは、大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 イエスさまは十字架のうえで嘆くのは、イエスさまが私たちと同じように、苦しみの極限を経験されたということです。そして私たちと同じように、神さまに対して嘆きの声をあげて、天に召されていった。そのことによって、私たちは同じように神さまに対して嘆きながら生きている私たちをも、神さまは受け入れてくださり、愛してくださっていることを知ることができるのです。十字架のうえで嘆くイエスさまは、すべてを神さまにゆだねているしるしです。神さまの前では、格好のよさなど必要ない。神さまの前では、自らのすべてをさらけ出し、どろどろとした心のなかをすべて神さまにお見せしてもかまわないということです。どろどろとした罪のなかにあっても、神さまは私たちを愛し、祝福してくださっている。

 私たちの神さまは、苦しみのなか叫び、泣き言をいう弱さをも受け入れてくださる神さまです。私たちひとりひとりをそのままで愛してくださり、私たちを憐れんでくださるかたなのです。詩編31編23節は、つぎのように神さまを讃美しています。「恐怖に襲われて、わたしは言いました『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました」。

 イエス・キリストは十字架への苦難の道を歩まれました。絶望にみえるその道こそが、私たちにとって希望であります。私たちの主イエス・キリストは、すべてを神さまにゆだねて歩まれました。なにもかも神さまにゆだね、神さまから与えられたいのちを、神さまに返されました。私たちも主イエス・キリストと共に、すべてを神さまにゆだねて歩んでいきましょう。私たちの弱さを受け入れ、私たちの罪をイエス・キリストの十字架によって赦してくださる神さま。私たちを赦し、祝してくださる神さまに感謝して、すべてを神さまにゆだねていきましょう。