2016年3月10日木曜日

2016年2月21日

2016年2月21日 教区交換講壇礼拝 説教要旨
  「今を生きる」(能登川教会) 谷香澄牧師
   (コヘレトの言葉3章1〜11節)

 ギリシャ語にはクロノスとカイロスという時間を表す言葉があります。クロノスというのは時計などで計ることができる、人間が時計を発明して作り出した人間の時間です。カイロスは、人間が作ったり、管理したりすることができない時間です。管理するのではなく、いつ訪れるか分からない時を待つこと、見極めること、それがカイロスという時間を生きることです。クロノスが人間のつくった時間であることに対して、カイロスは神が備えてくださる時間だと言えます。私達は、先のことを見越して色々な計画を立てます。ところが、必ずしも計画通りにことが運ぶとは限りません。むしろ、思いがけないことが起こってきたりします。コヘレトは言います。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」つまり、人生の出来事は、全て起こるべくして起こっている、というのです。私達の人生において、偶然と言うことはありません。なぜなら、全ては神の計画に従って起こっているからです。
しかし、この定められた時を、自分の自由にならないといって嘆くのか、それともここには神の配慮があると見るのかでは、大きな違いがあります。人生は一度きりであり、やり直しが利きません。二度と帰ってこない大事な時です。しかも、神の計画のうちに備えられた時なのです。自分で自分の人生の意味を見出せないとしても、そこには神が与えた人生の意味がある。どんな時であったとしても、私たち自身でも意味を見いだせないと思う時でさえ、ちゃんと意味があるのです。コヘレトの言葉は、「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まりますが、神を見出した人の生涯は、決して空しくなりません。神もいなく、何の計画もない中での苦しみならば、私たちはどっちの方向を向けばいいのかも分かりません。しかし、神のなさることの全部はわからなくても、神の計画の中に生きていることが分かっているならば、私たちは神の方を向いていけばいいということになります。神は私たちにこれからどんな時を用意されているのか。時宜にかなった、美しい時を用意してくれているはずです。そのことを信じて、委ね、希望を持って生きていきたいと思います。

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