2016年3月2日水曜日

2016年2月14日

2016年2月14日 主日礼拝 説教要旨
  「信じる力」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書7章24〜30節)


 ティルスは地中海沿岸の町で、イスラエルにとっては異邦の地です。ユダヤ人は異邦人と接触を嫌うはずなのにイエスはむしろ自分からティルスに向かうのです。ユダヤ人から離れるということが目的だったのです。イエスは傲慢で頑なな人間に疲れ果ててしまったのではないでしょうか。
 そのティルスでイエスは一人の異邦人女性と出会います。この人は母で病気の娘をなんとか直して欲しいと願っています。そこには、その女性の心に起きた明らかな変化が書かれています(マタイにある記事も参照、15:21から)。両方合わせて読むと意味がよく解ります。初めは苦しんでいる「娘」を助けてくださいという考え方であったが、次に娘が問題ではなく「わたし」
を助けてくださいと願い問題は自分にあるという様に変わっています。
 私たちも様々な問題に出会うとその原因を人に求めやすい。ここに出てくる女性もその原因は自分にあり、自分が救われるのが一番大事であると気づく。イエスが示されている点もここなのです。キリスト教信仰は徹底的に個人主義でなければならないのです。キリスト信者である私たちは人に対して配慮するあまり、自分のことをおろそかにしやすい。しかし、私たちは自分自身の救いに徹し切ることが大事だと思うのです。
 イエスはその母の姿に感動するのです。疲れ果てたイエスにとってこの母こそ神の啓示であったに違いありません。疲れ果てた者を力づけるのはなんでしょうか。それはだれかが支えてくれるという信頼なのです。イエスはひれ伏す母の姿を見て大切なことはなんであるかということを確認したのではないでしょうか。母の姿は無限に広がる子どもへの愛です。そして、その母の愛よりも深く広い愛がイエスによって注がれています。人間一人一人に注がれているのです。
 この現実の中に、策謀渦巻くユダヤの中にも、いや、そこにこそ神はおられるのです。その確信を得てイエスは再び宣教の現場ガリラヤへ帰って行かれるのです。ぶれることのない信じる力をみにつけましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿