2016年8月28日 主日礼拝説教要旨
「あなたは幸いなのだ」宇野稔牧師
(マタイによる福音書5章1〜12節)
マタイ福音書はマルコ福音書を底本にして編集されたと考えられていますが、その大きな違いの一つは、イエス・キリストの説教に重きが置かれていることです。マタイはイエスの言葉を伝えたいという想いがあって編集されたと考えて良いでしょう。
今朝の箇所は、そのイエスの説教の冒頭にあたり「マタイが一番伝えたかったこと」なのだと考えるのです。イエスの下に大勢の群衆が集まって来ていますが、「色々な病気や苦しみに悩む者、悪霊にに取り憑かれた者、あらゆる病いの人たち」でした。病を持つことが罪の結果であると考えられていた当時の社会では、これらの人々は魂の孤独の中にいた人々に違いありません。その人たちに、「あなたは幸いだ」と語られたのです。貧しい人、悩み苦しんでいる人、柔和な人とは、不当な苦しみに耐えなければならない人のことであったり、明日の食物にも困っている飢え渇いている人等など、イエスの前には日々現実の中で、その苦しみに喘いでいる人たちだったのです。
その人たちに向かって「幸いだ」というのは無意味でまやかしであると批判も出来るでしょう。しかし、イエスの言葉として話されたのです。もし現実離れしたまやかしであるなら、マタイが後世の人々に伝えたでしょうか。2000年の時を経て私たちは聞くことが出来るでしょうか。この言葉が苦しみ、悲しみの中にいる人に力を、励ましを、希望を与えたからこそ私たちもこの言葉を受け継いでいるのです。
イエスが語ったからといって彼らの現実がすぐに代わるわけではありません。何が彼らに力を与え、何が変わったのでしょうか。それは「イエスが共にいる」ということです。すなわち、いかなる時にも「私があなたと共にいる」のだと宣言されたのです。
あなたは一人で戦うのではない、一人で耐えるのではない、わたしが共にいて、共に苦しみを担おうという決意で、この山上の説教を語り出したのです。悲しみや苦難の状況の中にあってもイエスは「大いに喜びなさい」と語られます。私たちはイエスによって愛されているからです。
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