2016年9月4日 主日礼拝説教要旨
「必要とされるわたし」宇野稔牧師
(マタイによる福音書12章9〜14節)
ある日イエス・キリストが左手の萎えた人と出会います。そして直ちに「手を伸ばしなさい」と云われ、その人を癒やされました。その日は安息日で何もしてはならない日であったので、律法の明確な違反行為でした。
しかし、キリストはこの行動を通して人々の無関心さを強く批判し、全てのことを差し置いてでも最優先されるべきであることを示されたのです。
それは、苦しみ悲しみの中で助けを求める人の声を決して聞き漏らさない感性から来る、些細な出会いを決して疎かにされない姿勢でした。「一期一会」という言葉があります。茶の湯の心得を教えているものです。同じことの繰り返しのように思える日常は、実は一期一会の繰り返しなのです。
この「手の萎えた人」は、不自由があるという身体的な困難を背負っているだけではなく、手が萎えるということを罪を犯した結果であると決められていて、罪意識を植え付けられ「罪人」として差別されるという苦しみの中で、どれほど悲しい暗い日々を過ごして来たかということに気づかねばなりません。必要なことは想像力なのです。
安息日に会堂を訪れ、神の恵みと慰めとを求めている者と、その切実な思いを無視してなおその人を差別しようとしている人々と対比の中にイエス・キリストは自らの行動を通して模範を示されたのです。
「今、この時に自分を必要としている」人との出会いは日常のどのような時にも起こります。その機会を決して見逃さないのが、イエス・キリストの示す神の愛なのです。自分のためにだけ生きようとしてはなりません。自分を必要としている誰かがいるということに想像力を働かせましょう。イスラエルの人たちは律法を守るということに一生懸命になり過ぎ、人の状況がみえなくなってしまっていたのです。それは、自分一人が神の前に正しい者(律法を守っている)になりたいという願いからでした。
信仰に熱心な人は律法を正しく守ることを考えますが、イエスはそういうものを逆転させる方だったのです。
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