2016年11月13日 主日礼拝説教要旨
「キリストに結ばれている」宇野稔牧師
(フィリピの信徒への手紙1章1〜2節)
パイオニア・オーシャン・ビュー(POV)教会交流礼拝
姉妹教会としての歩みを始めるに当たり、5人のメンバーをPOV教会(アメリカ)よりお迎えすることが出来ました。心より歓迎し喜びいっぱいです。そういう意味で何故今朝はこのテキストでしょうか。
この手紙はパウロの獄中からの喜びの通信と言われています。人間は幸福な時に喜ぶのは普通ですが、喜べない方が返っておかしいのです。しかし、喜ぶ事の出来ない時に喜ぶのは大変難しいのです。パウロは獄中でありしかも殉教を目前にして緊迫した状況にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜び」という字が多くあります。
ここで教えられるのは、喜びの根拠をどこに置いているのかということです。私たちはキリスト教を信仰しつつもその生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないでしょうか。今日の箇所で「キリストの僕」パウロと「キリストに結ばれている」フィリピの教会という両者の関係がその喜びの内容なのです。
丁度、平安教会とPOV教会にもそのことが重なるのではないでしょうか。1節の「結ばれている」というのは「エン・クリスト」、即ち「キリストにある」であり、「キリストに出会う」と訳すと伝わりやすいのです。
私たちはキリストに出会っているから「聖」なるものとされており、キリストによらなければ「聖」ではありません。この意味は立派というものではなく、「神のもの」なのです。私たちは能力や資格で結ばれているのではありません。私たちはキリストに結ばれて、教会に連なりそして、仲間となり友人となっているのです。人間的には弱く歪んだものです。しかしそういう私たちであるにもかかわらず、キリスト・イエスの十字架と復活に結ばれることによって「神のもの」とされたのです。これが原点です。苦しいときは励まし合い、感謝し、喜びあえるのはお互いがその原点をもっているからです。
キリストに結ばれたものとして、広い大きな視野に立ち、共に歩き始めたのです。
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