2016年10月23日 主日礼拝説教要旨
「神のものは神に」宇野稔牧師
(マルコによる福音書12章12〜17節)
この所は最後の論争物語です。ここからは力の戦いが始まります。その主題になったのが納税問題でした。ファリサイ派とヘロデ党は納税について考えを異にしていました。ファリサイ派は民族主義の強い人間でしたから、ローマに税金を支払うことを心よしとはしなかったのですが、ヘロデ派は逆にローマに税金を支払うべきだという立場だったのです。それ故にイエスはどちらの側の態度を示すのか、はっきりさせようとしたのです。
それはイエスを自分たちの味方につけようと考えたのでなく、イエスを陥れるための証人として存在しているのです。イエスが「税金は皇帝に支払うべきだ」と云えば、ファリサイ派はユダヤ民族の裏切り者と呼んで人気を落とそうと考えていたのです。
一方、「皇帝に払わなくてもよい、神に返すべきだ」と云えば、イエスをローマに対する反逆にを指導したと云うことで逮捕させるのです。どちらにしてもイエスの死につながる言葉尻を捉えようとする罠だったのです。
絶対絶命のピンチの中でイエスは見事に切り返します。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」でした。イエスの答えに彼らは驚き、それからは論争によって仕掛けることはなくなったのです。つまりイエスは先ほどの言葉によってこれを誰のものと考えているのか、という問い掛けだったのです。
信仰をもっていると云いながら、世渡りの事のみを考えてお金を頼みとしているのがヘロデ派であり、神のことを語りながら人の事ばかり見ていたのがファリサイ派でした。「本当にこれを神のものと思うなら、どんなに危険でも神に返しなさい」と云われたのです。痛烈な批判であり、問い掛けでした。
そして、この言葉は私達に向けてもチャレンジです。皇帝のものと考えてしまうのか、それとも皇帝の刻みの中になお神のものであると認めて行くことは、そこにもなお神の支配があり歴史の支配が神であることを信じることなのです。さらに、「あなたはわたしのものだ」と語りかけて下さっている言葉ではないでしょうか。「私は神のものだ」その思いで歩みましょう。
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