2017年3月13日月曜日

2017年2月26日

2017年2月26日 主日礼拝説教要旨
  「大丈夫、心配しなくて良い」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章3〜13節)

  エルサレム神殿を臨むオリーブ山から、イエス・キリストは自分が崩壊を預言した神殿を眺めている時、そこに4人の弟子が来て崩壊の預言の意味を尋ねます。つまりここには、「大切な秘密が明かされる」という場面設定がなされています。
 神殿崩壊とそれを巡るユダヤ人の悲惨な命運、それ故に更に苦しい状況に追い込まれる教会の姿を目の当たりにしながら、この章は書かれています。つまり、終末の預言であると同時にその時のキリスト者の現実そのものでありました。
  混乱の時代の中で「わたしこそ救い主である」と名乗るものが現れ世界を混乱に陥れました。救いの望みをかけている人たちを悲惨の中へ導いていきます。まさに「惑わし」です。そして戦争です。ユダヤ戦争はユダヤ地方だけでなく、世界に散らされた非ユダヤ人との戦いでもありました。さらに教会は地方からも敵視され、迫害を受けました。時代の中で小さい弱い集団であった教会は孤立無援の状態に追い込まれていたのです。
 その教会の最後の希望が「証をすることになる」というイエスの言葉でした。キリスト教は迫害によって散らされますが、その先で新たな教会を築いて行くのです。迫害が証しの機会となると信じ難い経験をするのです。イエスは「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と云っていますが、この耐えるとは待ち望むことです。裏切りや策略にあっても神の愛への希望を持ち続けるということに他なりません。
 時には自分にも世界にも絶望的な思いになるかもしれません。私たちはそこで「耐える」のです。希望を失わず、愛を諦めてはなりません。希望をもって愛を生きる者になるのです。見るべきものはイエス・キリストであり、その言葉です。困難の中にある教会へイエスの言葉をつきつめて云うと「大丈夫、心配いらない」という事です。教会はその言葉だけを頼りに迫害の時代を歩んだのです。
 まさに、それが証しでした。力で敵を制圧するのでなく、耐える力によって何が真実かを証ししていくのです。その教会の姿に学びたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿