2017年3月20日月曜日

2017年3月5日

2017年3月5日 主日礼拝説教要旨
  「神のものとして選ばれたから」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章14〜23節)

 14節に「読者は悟れ」とあります。この言葉はユダヤ人の歴史の中で最も危機的な状況を示唆する用語として用いられたものです。即ち、迫害が極めて深刻な事態に至った時のことが想定されています。
 それに続いて「山に逃げなさい」とありますが、「逃げる」という言葉に良いイメージはありませんが、人間には「逃げる他ない」状況も起こり得るのです。弱い者が一目散に逃げねばならない程の時があること、それが残念ながら人間の現実です。そして、まさにこの時キリスト教が立たされていたのはそういう状況だったのです。

 しかし、キリスト教はそういう事態の中でも礼拝を守り、聖餐式を行ってきました。礼拝から去ったら次の日曜日には共に集まることが出来ないかもしれない危機感の中で礼拝を守っていたのです。驚くべきことに、それでもキリスト教は広がったということです。

 その力の秘密が今日の聖書の箇所なのです。未曾有の苦難の中で、まさに闇のような時代の中で教会はイエス・キリストの言葉に光を見続けたのです。それが「私たちは神に選ばれた」ということです。全てを支配される神に私たちは選ばれているのだから、この苦難には必ず終りがあると信じたのです。

 20節の「期間を縮める」という表現は面白いとお思います。神が歴史に介入して期間を短くして選ばれた者を残すと云うのです。では何故私たちは選ばれたのでしょうか。私たちの方には選ばれる理由も資格もありませんが、神が私を選んで下さったのです。神の意志以外の理由はありません。神の愛以外に理由はありません。

 ですから、選ばれていることを知るのは、神に愛されていることを知ることなのです。教会は迫害の中でも、神に愛されたものとして礼拝を続けたのです。迫害の中で一目散に逃げなければならない程の苦しみの中で、私を生きるのではなく、主の選びを生きるという信仰の系譜を生きるのです。この教会も証の館です。この会堂で選ばれたものとしての証を紡いでいきましょう。


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