「我が涙よ、歌となれ」 宇野稔牧師
ルカによる福音書 7:11~17節
イエスがナインという村にやって来ると、そこに葬儀の列が来ます。若い母親が先頭に立って多くの村人達がそれについて泣きながら棺を担ぎ出したところでした。彼女は生きがいの一人息子を亡くしてしまったのです。突然の理不尽な不幸が訪れたのです。ただ泣くだけの絶望的な毎日でしかなかったのです。イエスはその様子を見「憐れに思い」(自らのはらわたを痛める程という意味)母の悲しみを思われたのです。イエスは人間以上に人間の悲しみを悲しまれ、激しく自分自身が痛たまれ、心を動かされるという神だったと聖書は語っているのです。
イエスはその後、息子を生き返らせます。私たちはイエスの能力に目を奪われますが、私たちがこの物語で本当に驚かねばならないのは、人間の悲しみを自らの悲しみにして下さる神の姿なのです。死という絶望、その中にある人間の無力感、悲しみの中にあるもの、それらのものを神自らが哀れみ、走り寄り、神自らが逆転を起こして下さり、そして死を越えてある力を私たちに示して下さったというのがこの物語の意味なのです。そのカギとなっているのが、悲しみの中にある母に向かって云われた「もう泣かなくてよい」というイエスの言葉です。またこの言葉は今悲しんでいる私に向かって云われている言葉でもあります。即ちこれは、悲しみの中に輝く神の厳粛な宣言なのです。
原崎百子さんというキリスト者はガンで召された方ですが、告知されてからわずか44日で召されたのです。どんなに失望し落胆し涙を流されたことでしょうか。最期の礼拝に出られた時「我が涙よ、わが歌となれ。主をほめまつる我が歌となれ」と歌を残しておられます。涙が歌となるのです。その事を可能にできるのは、神以外にはありません。私たちが信じる神は私たちの悲しみを共に悲しみながら「もう泣かなくてよい」と宣言して下さる神です。そこには、神の重大な決意があります。神自らが十字架に向かうという決意です。
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